スキュリツェス年代記(『歴史概観』)
バシレイオス2世ブルガロクトノス

【バシレイオス2世ブルガロクトノス 位976-1025】

1.
既に述べたような経緯でヨハネス1世は崩御した。統治権はロマノス2世の息子であるバシレイオス(2世)とコンスタンティノス(8世)へと移る。創世紀元6468年、第4インディクティオの年の12月のことである(実際は、紀元6484年の第4インディクティオの年の1月で西暦976年1月)。この時、バシレイオス(2世)は20歳になっており、コンスタンティノス(8世)は三つ年下であった(実際には、バシレイオス2世はこの時、18歳。)

とはいえ、二人は見せかけだけの名ばかりの皇帝になったに過ぎなかった。二人が若く、未熟で成長途上だったために、国政の運営がプロエドロスの爵位にある(パラコイモメノス〈寝室管理長官〉の)バシレイオス・レカペノスによって行われたからである。

ロマノス2世の息子たちに統治権が移ると、プロエドロスは、速やかに使者を出し、二人の母(テオファノ)を追放先から宮殿へと連れ戻させる。

プロエドロスは政府への反乱を恐れていた。何より、常に権力奪取の機会を窺って反乱を引き起こそうと企んでいたマギストロスの爵位にあるバルダス・スクレロスを恐れていたのである。

スクレロスは、皇帝ヨハネス1世に対して陰謀を企てたとして拘束され、摘眼刑を申し渡された。しかし同皇帝は刑の執行は差し止めていた。

スクレロスは、全ローマ軍を掌握していたためにとりわけ恐れられることとなっている。彼は、全東方の司令官に昇進していたから、その軍を己の望みのために使うことができ、その望みのために危険を冒すことができたのである。

プロエドロス バシレイオスは、帝国の安全のためになるだろうと考えて、この大きな力を削った。反乱計画の遂行が疑われるスクレロスを非力にしたのである。スクレロスの司令官の任を解き、メソポタミアの常設軍のドゥクス(方面軍総司令官)に任命して、サラセン人(イスラム教徒)の侵入を見張り、警戒することを命じたのであった。

プロエドロスは、やはり疑わしいミカエル・ブルツェスにも同じ運命を用意し、速やかにスクレロスの軍団から切り離す。彼はスクレロスと共にあり、一隊を指揮していた。これをマギストロスの爵位へと進めて、オロンテス河畔のアンティオキアのドゥクスに任じたのである。

東方の全軍の長官、そして監督官には、パトリキオスのペトロスを任命した。(ニケフォロス2世)フォーカスの部下で、ストラトペダルケス(司令長官)の肩書きを有する人物である。彼は宦官であったが、極めて意気軒昂で、軍事において経験豊富であった。

これら全て(の措置)にスクレロスはひどく心を痛めたが、その境遇を嘆きながら耐えるような男ではなかったので、非難の声を上げる。

「この私の勇敢な行動や、もたらした勝利に対する報償が降格か?」

と。

パラコイモメノスはその非難を、ほとんど、あるいは全く気にもかけなかった。むしろ、

「受け取った命令に満足し、与えられた以上の利益を得ようとするものではない。指揮権を振るうより、領地を削られる方が良いというのなら話は別だが。」

と諭したのであった。

2.
このようにパラコイモメノスが事態を捌いた時、バルダス(・スクレロス)は速やかに帝都を離れ、与えられた命令を受け入れた。

スクレロスは前職では、気迫に満ち、精力的な姿をよく見せていたので、軍全体から愛されていたと言える。そのため今、彼は信頼する多くの者、とりわけストラトペダルケスの部隊の者に、自らが企てようとしている秘事を明かすことができた。

その後、自らの企図を公にすべき時が来たと考えたスクレロスは側近と相談して、長い間、画策してきた反乱を引き起こす。彼は、皇帝と同胞に対して武器を取ったのである。

スクレロスはすぐにアンテス・アリャテスという名の男を帝都へ遣わした。アンテスは帝都に住んでいたバルダスの息子 ロマノスの身柄を確保し、父の下へと連れてくる。彼は帝都に赴いた際に、人々を惑わすためにあらゆる手を尽くしたが、スクレロスについて実際よりも劣った印象を与える噂を流している。このようにしてアンテスは疑いを払いのけて、全ての人を欺き、ロマノスを確保してスクレロスの下へ連れてくることができたのであった。

今やバルダス(・スクレロス)は自身の企図を公にした。スクレロスは、帝冠とそのほか皇帝のしるしを身に着ける。彼は自身の下にあった全ローマ軍から歓呼を受けて皇帝となり、アルメニア人がその歓呼のさきがけとなったのであった。

彼は雄弁家が言うように、こうした勝負事には莫大な金がかかり、金がなくては、果たすべきことを全く果たせないだろうことを良く理解していた。そのため、直ちに金策を行う。スクレロスは国の徴税官を捕らえて公金を横領した。彼は富裕であると思われる人々から金を巻き上げている。一方で将来、より多くの富が得られるだろうと期待して、自分の自由な意志で、富をスクレロスに託す者もあった。こうした手段でスクレロスは短期間に大金を得たのである。

彼はカルペテと名付けられたメソポタミアにある堅固な要塞を占領し、そこに、あらゆる方法で万全の備えを施すと、十分な守備兵を置いた。スクレロスは金を集めて蓄えたこの場所を、計画がうまくいかなかった場合の安全な避難場所として温存したのである。

彼は近隣のサラセン人、アミダの首長 アポトゥルフ(アミダの統治官 アブー・ドゥラフ)とマルテュロポリスの首長 アポタグル(ハムダーン朝治下のモスルの首長 アブー・タグリブ)と約定を交わす。サラセン人は、アミダをエメトと呼び、マルテュロポリスをミエフェルケイムと呼ぶ。スクレロスは彼らと婚姻を約し、また婚姻を結ぶことで友好を保った。彼は、多くの金に加えて援軍として300人のアラブ騎兵を得ている。

こうした話があらゆる方面に広まったので、向こう見ずな仕事に喜ぶ類の人間たちは、スクレロスの下へと群がった。

夏がきた時、彼は全軍と共に帝都へと進軍する。希望に満ちあふれ、後は宮殿を占領するばかりといった感覚であった。徳の高い修道士が、一夜にして事が成就するとの見通しを自信を持って述べたことに、スクレロスは勇気づけられ、励まされた。

バルダス(・スクレロス)は、まるで荒くれ者たちによってそびえ立つ頂に連れて行かれ、神々しい女性に出会い、彼女から帝室の災難を見せられたかのようであった。

バルダス(・スクレロス)は帝国統治の象徴となるために惨劇を選んだが、ともかくそれは、ローマ人に対する神の怒りであった。

3.
反乱の報せが帝都に届くと、皇帝はひどく苦悩し、聡明な良識ある市民たちには絶望が襲いかかった。喜んだのは、政治的混乱と腐敗を歓迎する者たちである。

ストラトペダルケスのペトロスには大急ぎで書状が送られ、忠誠を誓う軍の一部は、慌ただしくカイサレイアに集められた。

シュンケロスの地位にあったニコメディアの主教 ステファノスは、学識を備えた人であったが、その知恵と徳で知られ、粗暴で荒々しい心を諭して静める力があった。このステファノスはスクレロスへの使者として派遣される。彼がスクレロスに矛を収めさせることができるか見てみようというのである。

しかしスクレロスは皇帝になるという野望ひとつに思いを定めてしまっていた。シュンケロスは多くの説得力ある言葉巧みな論を張ったが、スクレロスは、多くを語らなかった。スクレロスは緋色の靴を見せようと右足を伸ばす。

「シュンケロスよ、一度、この長靴を履いた人間にとって、それをもう一度脱ぐというのは不可能なことだ。喜んで私を皇帝として受け入れるか、そちらの意に反して私が帝位を奪い取るか、どちらかであると、貴殿を遣わした者に伝えよ。」

それがスクレロスの言葉であった。彼はステファノスを四十日間留めて、立ち去らせている。

シュンケロスは帰還すると、皇帝と帝国を統治するバシレイオス(・レカペノス)にスクレロスについて報告した。その際、ストラトペダルケス(ペトロス)は内戦を煽らないように書状で指示されていたが、街道の厳重な監視を保ち、敵対するものは誰でも撃退したのであった。

その後、スクレロスはカイサレイアに進軍し、先遣隊を出す。敵情を探って報告させるためであり、また自身の露払いをさせるためである。先遣隊の指揮官にはアンテス・アリャテスが任命された。彼らは自分たちがカッコウ岩と呼ぶ隘路に進路を見出し、マギストロスのエウスタティオス・マレイノス指揮下の帝国軍の一部と遭遇する。

交戦が試みられ、幾度かの攻撃の応酬があった。実際、両軍は互いに押し出て道を譲らなかった。それはアリャテスがもはや自制ができなくなるまで続く。アリャテスは過ぎたる熱情に駆り立てられて馬に拍車をかけ、異常な速度で敵に突進する。彼は目を見張るようなことは成し遂げられなかった。致命傷を受け、戦死したのである。さらに、彼の一隊も近場の森や茂みへと徐々に消え去ってしまう。

その時、バルダスの護衛部隊の長は皇帝軍へ逃亡しようとしていると非難されていた。スクレロスはその者を連れて来させ叱責したが、そのまま表立っては何事もなく立ち去らせる。しかし、彼は密かにサラセン人の傭兵らにその者を殺すよう指示していた。白昼、サラセン人傭兵らは、その者が自分たちの間を通り抜けるところへまとわりつき、剣で斬ったのであった。

4.
帝国軍の司令官はこれまで以上に、スクレロスによる猛攻撃を懸念していた。そのため街道上の要衝を占めることが賢明であると判断する。全軍を率いてスクレロスのそばに布陣し、彼が進もうとした道を占領した。

これを知ったスクレロスは前進をためらい、その矛先を鈍らせる。物事が滞り、スクレロスは時間を空費したが、結果がどうなるものか待っていた。彼は次の一手を繰り出すよう迫られていたが、政府を裏切った高官 サカルドス・ブラカミオスという名の者によって一層、意気込みを駆り立てられる。

この者はやってくると、

「ぐずぐずしていると軽蔑をうけることになります。」

と言ってこれ以上時間を空費しないようにスクレロスを急かした。サカルドス・ブラカミオスは司令官に任じられ、道案内をする。

ブラカミオスが先導し、スクレロスが後に続いた。三日後、彼らはカッパドキアのラパラに至る。今はリュカンドスと呼ばれている所である。地味が肥え、豊かであったため、(ギリシャ語で「肥える」を意味する単語”λιπαρός〈liparos〉”を語源として)ラパラと呼ばれていたのである。

これを知ったストラトペダルケスは、スクレロスに追いつけなくなるのを恐れて、夜間に行軍し、敵の前面に布陣する。敵は、少し開戦を引き延ばし、策謀によって勝利を得ようとした。バルダス(・スクレロス)は、軍のために宴を催すつもりであるかのように、大量の食糧を準備して相手の裏をかく。その日には彼が戦いを引き起こさないだろうと敵に思わせたのである。このようにしてスクレロスは敵を欺いた。そして敵も宴を開く。

スクレロスがこれに気付いた時、既にその軍は戦いの準備ができていたが、突如、ラッパが「攻撃」を合図した。そして、宴を繰り広げている相手に襲いかかる。帝国軍はしかし、それぞれ何でも武器を手にして猛攻撃に耐えた。突然のことにも必要以上に動揺はしなかったのである。

しばらく帝国軍は強硬に抵抗していた。しかしその後、バルダス(・スクレロス)は、相手の側面へ回り込んで、包囲攻撃の恐怖を与える。そして、スクレロスは傭兵らを相手の後方へ送り、彼らを敗走させた。大虐殺が続く。

(帝国軍にあった)アンティオキアのドゥクス ブルツェス(の部隊)は、最初にその隊列が崩れた。臆病風に吹かれて崩れたのだとも、(スクレロスに味方して)わざと崩れたのだとも噂された。バルダスは野営地を輜重と合わせて占領する。また、莫大な額の富も手に入れている。

そこからスクレロスはツァマンドスと呼ばれる所へやってきた。街は突き出た断崖にあり、人口が多く、豊かである。地元の人々は進んで財を渡したので、彼はかなりの富を得た。

この勝利は、なおも皇帝に忠実であった者たちを悩ませ、彼らをスクレロスの下へと奔らせた。ブルツェスがまず、スクレロスに身を投じ、その後、パトリキオスの爵位にあるアンドロニコス・リュドスとその息子が続く。アッタレイアの人々は、中央艦隊長官を鎖で拘束する。そしてスクレロスがテマ・キビュライオタイを指揮させるために派遣したミカエル・クルティキオスの下に、全艦隊と共に集った。

5.
こうしたことが皇帝とパラコイモメノスに報告されると、会議が開かれた。僭称者に対して、誰かしら皇帝に近しい人間を全権特使として遣わすべきであるという提案がなされる。特使には結果の成否に関して責任を負わせずに、僭称者を支えるために集まった者たちへ栄誉と富を与える権限を持たせようというのである。

この提案は承認された。皇帝のプロトべスティアリオス(衣服管理長官)であるレオンが送られ、ヨハネスという名のパトリキオスがその同輩となる。ヨハネスという人は、その演説術で有名な人物であった。レオンは、(この任務に関して)皇帝同様の権限を与えられている。

レオンは出立しフリュギアのコテュアイオンに至り、そこに野営していたストラトペダルケス ペトロスと合流する。バルダス(・スクレロス)はディポタモンの地に野営していた。そこは皇帝領であり、地元の人々がメサナクタと呼んでいる土地である。

レオンは贈り物と栄誉で反乱軍に矛を収めさせ、皇帝への支持をとりつけようとしたが、成功しなかった。むしろ彼の行動は敵を強硬にする。レオンの申し出は(政府側の)弱さの表れであると見なされてしまったのであった。

そのため、彼はこの計画を放棄してコテュアイオンを離れ、夜間、スクレロスの陣を通り越すと、(スクレロスの本拠地を目指して)さらに東へ向かう。この行動は、スクレロス側の人間の心に不安を植え付けた。スクレロス勢は、自分たちの金や財産のことのみならず、愛する者たちのことを案じたのである。

そうしたことから、スクレロス勢の多くが反乱を放棄して、プロトベスティアリオスのレオンの下へと身を投じた。反乱はちりのように四散する危険に晒されることとなる。

危険が現実のものとなることを恐れて、スクレロスは、マギストロスのミカエル・ブルツェスとパトリキオスのロマノス・タロニテスを軽装兵と共に送り出した。既に述べたようにブルツェスはスクレロスの軍に加わっていた。彼らの任務は、プロトベスティアリオスに遭遇し次第、行く手を遮って攻撃を加え、彼を妨害することである。

ブルツェスらはまた、レオンが(スクレロスらの本拠地へ)急襲部隊を出すのを可能な限り防ぐことになっていた。とはいえ全面的な戦闘はできるだけ避けることにもなっていた。

しかし、ブルツェスと麾下の者らは帝国軍に近づいた際、以下の理由のためにスクレロスの指示に反して否応なく戦わざるを得なくなる。

東方のベロイア(アレッポ)からサラセン人が毎年の租税の納付のため帝都へ赴くのに、両軍の間を通過することが分かったのである。

予定の日がきて、サラセン人がオクシュリトスと呼ばれる砦を通過しようとした時、ブルツェスの仲間は部下を武装させたが、プロトベスティアリオスの士官も同様だった。両者は戦闘に突入する。

両者にとって、サラセン人の黄金は勝利の褒賞としてその眼前に吊るされたものであった。双方は接近してぶつかり合い戦った。

ブルツェスは敗走して、彼と共にあった者の多くが殺される。中でもアルメニア人が多かった。実際、ローマ人たちは捕らえたアルメニア人たちを全て容赦なく殺している。アルメニア人たちが一番に反乱に加わったからである。

6.
この敗北を知らされた時、バルダス(・スクレロス)は、時間を空費せず、敵への対処を急いだ。彼はラゲアスと呼ばれる地に野営し、戦う好機を待つ。しかし、帝国軍は焦ることなく開戦を引き延ばし、反乱軍の多くは先の敗北に失望して、プロトベスティアリオスの側へと転向した。

帝国軍の中でも経験の浅い者は、このところの勝利に得意になり勝ち誇って次の戦いを待ち焦がれた。けれども、経験ある百戦錬磨の者は、戦いを控え、引き延ばすことを望んでいた。ともかく、ことわざにもあるように「急いては事をし損じる」ものであると、プロトベスティアリオスは若い者たち(が戦闘に逸った結果)によって気付かされることになる。

プロトベスティアリオスは「攻撃」を合図し、軍を戦闘へと駆り立てた。

バルダス(・スクレロス)は軍を三つに分ける。自らは中央の隊を、兄弟のコンスタンティノスが右翼を率い、もう一方の左翼をコンスタンティノス・ガブラスに指揮させた。両翼の指揮官は戦いに臨むと、相手方に対して騎兵隊を差し向ける。その突進に耐えられずプロトベスティアリオスの軍は敗走し、多くの命が失われた。

その際、パトリキオスのヨハネス、ストラトペダルケス ペトロスと多くの高官たちが戦死している。プロトベスティアリオスは他の高官らと共に捕虜となった。

バルダスはプロトベスティアリオスを投獄するよう命じ、さらに全軍の前でテオドロスとニケタスのハギオザカリテス兄弟の目をくり抜いた。彼ら兄弟が、スクレロスとの誓いを破ってプロトベスティアリオスの下へ奔ったからである。

7.
この勝利により、バルダス(・スクレロス)の威信は高く高く上昇した。貴賎を問わず誰もがその権威に群がったと言える。一方で皇帝の事業は、一人の支えと神のご加護という一つの神秘によってしっかりと守られていた以外は、崩壊へと近づいていた。

さらにパラコイモメノスは、陸上で起こっていることを気にかける一方で、それ以上に海上で進んでいる事態について懸念する。彼は、敵艦隊の司令官 ミカエル・クルティキオスにひどく悩まされていた。クルティキオスは、島々を荒らし回った後、目下、ヘレスポントスに面したアビュドスを封鎖しようとしているように見えた。

パラコイモメノスは、配備できる最高の艦隊をパトリキオスのテオドロス・カランテノスの指揮の下に、クルティキオスに差し向ける。カランテノスは出航し、ヘレスポントスの海峡を通過してクルティキオスと戦い、フォカイアの地から引き離した。海軍の激しい戦いが続き、やがてクルティキオスの艦隊は打ち破られて四散する。カランテノスは勝利し、これによって制海権を握った。

ひとたび海で物事がうまく捌かれると、パラコイモメノスは陸での問題に注意を向ける。彼は、ニカイア防衛のためにパトリキオスのマヌエル・エロティコスを派遣する。この人は高貴な生まれで、徳を修め、勇気ある人物であった。程なくしてスクレロスが接近する。スクレロスはニカイア周辺の村々に火をかけてから、街そのものへと向かってきた。

彼はニカイアを強攻で奪取しようとして、攻城兵器やその他の兵器を用いる。しかし、マヌエルはスクレロスに強攻の企てを断念させるべく、城壁からはしごをはね返し、攻城兵器をギリシャ火で燃やして勇敢に攻撃に耐えたのであった。

けれども、スクレロスは生活に必要な物資を奪うことで、城内の抵抗が減衰することを期待する。包囲は霜が降りる時期まで続き、城内では穀物が不足した。スクレロスがニカイアに近づく者を厳重に警戒したので、マヌエルは命をつなぐのにどうやってアビュドスから十分な補給を受ければ良いか分からなくなっていた。

そこでマヌエルは、策略によってスクレロスの裏をかくことに決める。彼はニカイアの穀物庫を密かに砂で満たす。そしてわずかな穀物を砂の上に広げた。見る者の目を欺くには十分であった。

それからマヌエルは捕虜にしていた敵を呼んで、穀物庫を見せ、以下のように(スクレロスに)伝えるよう命じた。

「包囲によって食糧が欠乏する恐れはありません。二年間をまかなえるだけの十分な食糧があり、しかも街は攻撃に対しても堅牢です。けれども私は本当のところあなたの味方なのです。我々に自由にどこへでも思う所へ立ち去っても良いとお認め下さり、あなたがそれを誓って約束してくださるのならば、私には街を引き渡す用意があります。」

と。

バルダス(・スクレロス)は喜んでこの提案を受け入れ、約束をした。マヌエルはニカイアの市民たちや麾下の軍と城外へ出て、保有するあらゆる物資と共に帝都へと進んだ。

スクレロスはニカイアを占領し、穀物に関する偽装を発見する。彼はそうやって欺かれたことに激怒した。それでもスクレロスはニカイアに十分な守備隊を置いて、ペガシオスという名の男に預け、一方で自分はその後の冒険的な行動へと進むのであった。

8.
パラコイモメノスはスクレロスが既に帝都への途上にあるこの事態にひどく困惑していた。そして、たったひとつ、十分と言える解決策を描き出す。バルダス・フォーカスを追放先から呼び戻すことであった。フォーカスをスクレロスという毒に対する唯一の解毒薬だと考えたのである。布告するより早くパラコイモメノスはフォーカスを召還した。忠誠を誓わせて多くの富を与え、マギストロスの爵位に進めて、さらにドメスティコス・トーン・スコローン(スコライ軍団長官。帝国陸軍総司令官)に任命したのであった。そしてフォーカスはスクレロスと戦うために送り出される。

フォーカスはこの難題を引き受けた。その双肩には全てがかかっていた。彼はまずトラキアからアビュドスへ渡ろうとした。しかし、スクレロスの息子 ロマノスがヘレスポントスを守っていたため、追い返されて帝都へ戻ることとなった。

そこで彼は船にのり、気付かれることなくこっそりと敵をすり抜け、対岸に降り立つことに成功する。フォーカスは夜間、カイサレイアへ進軍し、マギストロスのエウスタティオス・マレイノスおよび心変わりして再び帝国軍に加わっていたミカエル・ブルツェスと合流した。

彼らは共に戦いに備える。フォーカスはできる限り軍勢をまとめ、敗走した者たちをかき集めた。そして、彼らはアモリオンへと進軍する。

スクレロスはフォーカスの出立を聞いた時、今、初めて真の戦士と戦うことに成ると思った。この戦士は勇気と軍略で軍事作戦を指揮する術を知っている。(スクレロスの)これまで(の戦い)はそうした(真の戦士を相手にした)ものではなく、卑賤の者、宦官、温室育ち、日陰者が相手であった。

スクレロスはニカイアを離れてアモリオンへ至り、フォーカスと遭遇し戦いに突入する。

フォーカスの軍は突撃に耐えることができなかった。主に先の敗戦によって勇気と士気の面で勢いを挫かれていたためである。スクレロスはこうして優勢となった。それでもフォーカスの軍は決してむやみやたらに後退して散り散りになったりはしていない。

フォーカスの軍は下がったが、それはゆっくりしたものである。この後退は追撃を恐れるものではなく、指揮官の指示に従ってなされている良く組織された隊列を崩さないもののようであった。

ちょうど兵士たちが踵を返して退きはじめた時、そこでフォーカスは後衛を指揮していた。攻撃してくる者を追い払い、敵が総勢で討ちかかってくるのを防いでいたのである。

今やフォーカスとその部下は後退する敵を追っていたが、一方で非常に野心のあるコンスタンティノス・ガブラスは、フォーカスを捕らえられれば、大きな殊勲を得られるものと信じ切っていた。ガブラスは乗っていた馬を駆り立てて、フォーカスのいた所へ凄まじい速度でやって来る。

フォーカスは、彼を見てガブラスであることに気付き、静かに馬を巡らしてガブラスの間合いに入ると、兜の上から棍棒で攻撃した。ガブラスは圧倒的な攻撃の力に驚き、にわかに落馬する。フォーカスは手綱も緩めず、誰はばかることなくゆったりと進んだ。ガブラスの部下は、指揮官が落馬したのを見て、その手当をするために(フォーカスらを)追跡するのをためらう。

一方、フォーカスとその軍は、カルシアノンと呼ばれる地に至って、逗留し、事態を見守った。ここでフォーカスは皇帝からの贈り物によって多くの人をその陣営に迎えることになる。既にフォーカスと共にあった人々は手厚く扱われ、士気が高まっていた。

スクレロスはフォーカスの後にやってきて、バシリカ・テルマ(皇帝の温泉)と呼ばれる所に布陣し、同名の人に出てきて戦うように呼びかける。フォーカスはためらうことなくこの挑戦を受け入れた。戦闘はすぐに始まる。

フォーカスがあちらこちらへ打って出る間、その軍はしばし優位を保っていた。フォーカスは鉄の棍棒で敵の隊列を崩し、数千人を殺す。

しかし、またしてもフォーカス勢は踵を返して敗走したのであった。

9.
フォーカスは急ぎ、全力を振り絞ってイベリアへ向かう。彼はイベリア人の支配者 ダヴィドの下へ至り、救援軍を求めた。この申し出は快く受け入れられた。フォーカスがカルディアのドゥクスを努めていた頃からダヴィドが彼に好意を寄せていたからである。フォーカスはかなり多数の軍勢を得て、その上で敗走して散り散りになっていた者たちを再び集めた。

彼は、スクレロスが既に野営していたパンカレイアへと南下する。パンカレイアの地にはハリュス川の近くに開けた平地があり、騎兵の展開によく適していた。

じりじりと自軍が後退する姿を目にしてフォーカスが、退却の可能性を考えているうちに、今ひとつの激しい戦いが起こる。名誉ある死を不名誉で恥ずべき生より望ましいと判断し、フォーカスは進路を切り開いて敵の隊列を抜け、スクレロスその人の所まで突進した。

スクレロスはフォーカスの突撃にしっかりと耐える。そして兵士らは指揮官の間で決着が着くことを望んだ。さらに実際に二人の勇敢で剛毅な男が一騎打ちに互いにのめり込む様は、見る者にとって壮大で驚嘆するような光景となるだろうと考えた。そのため、誰もスクレロスを助けに来ない。ここにおいて両者は互いに立ちはだかり、接近戦に臨んだ。

スクレロスはフォーカスの馬に剣で斬撃をあびせ、その右耳を馬勒もろとも切り落とす。ところが、フォーカスはスクレロスの頭を棍棒で打ちのめし、その打撃の力によってスクレロスは馬の首に突っ伏すこととなった。

フォーカスは馬を駆り立てて敵の隊列を横切り、離脱する。彼は丘の上に上がると、逃げる味方を集めている。

スクレロス勢には、自分たちの司令官が負傷のためにひどい容態であるのが見えた。実際、彼は命の灯が消え入りそうなほど重傷だったのである。

彼らはフォーカスが決定的な破滅をもたらしたと感じつつ、スクレロスを泉に連れて来た。血糊を洗い流すためである。そしてスクレロスの馬は後ろ足で立ち上がって、しがみついていたスクレロスからうまく逃れ出る。この馬は、エジプト者と呼ばれていたが、今や暴れ回り、乗り手もなく全身血まみれで兵士の中を駆け抜けて行った。

スクレロス勢はその馬が誰のものであるのか気付くと、指揮官が戦死したと思って、隊列を乱して逃げ始めた。彼らは峡谷へ、そしてハリュス川へと身を投げ、惨めに死んでいく。誰も彼らを追撃することはなかった。

フォーカスはこれを丘の上から見て、訳もなく起こっていることではなく、神の御業であると思う。勇気もなく互いに足で踏みつけ合う状態となって逃げる者たちを追撃するため、フォーカスとその将兵は丘を下った。あるいは屠り、あるいは捕虜とする。

スクレロスはと言えば、少数の者たちと無事にマルテュロポリスに逃げ、そこから兄弟のコンスタンティノスをバビロン(バグダード)の支配者 コスロエス(ブワイフ朝のアドゥド・アッダウラ、本名はホスロー)の下に派遣し、救援と同盟を要請している。しかし、ペルシャ人(コスロエス)は忙しなくしており、要請について承諾も拒絶もしなかった。しかもコンスタンティノスはスクレロスから遠く離れてしまっていた。そういうわけでスクレロス自身も、共にある者たちとコスロエスの下へ向かうことを余儀なくされたのである。

10.
スクレロスの敗走とバビロンへの逃亡は、フォーカスによって書状で皇帝に伝えられる。この時、フォーカスは皇帝から功を労われ、賞賛された。

皇帝はべステスの爵位にあるニケフォロス・ウラノスをバビロンの君主 コスロエスに遣わして、反逆者の帰国を許さないよう、また自ら皇帝を称した反逆者の子孫に悪しき前例を授けるようなことを進んでしないように要請した。悪しき前例とはつまり、不当な簒奪者と裏切り者が皇帝を支えなかったことである。

大使はスクレロスとその一党の者に渡す、皇帝の押印のある書状を携えていた。もし、スクレロスらが自分たちの本来あるべき姿を思い出し、自分たちの君主を認めて故郷に戻るのなら、完全に赦免するという内容である。ウラノスがコスロエスの下へ至った時、書状は露見した。コスロエスは疑念を抱き、大使とスクレロス、そしてスクレロスと共にあった全てのローマ人を投獄する。

彼らが牢獄にいる間、スクレロスと行動を共にしなかった反逆者たち――レオン・アイクマルトス、その後亡くなったがドゥクスのアンドロニコス・リュドスの息子、クリストフォロス・エペイクテス、そしてバルダス・ムンゴス――これらの者はアルマクリオン、プラテイア・ペトラ、さらにその他のテマ・トラケシオンの砦を占領し、第8インディクティオの年(979年9月-980年8月)までそれらを保っている。彼らはこれらの根拠地から帝国に属する土地を襲撃して荒らした。

彼らは、自分たちの働いた悪行についてパトリキオスのニケフォロス・パルサクティノスの仲介によって恩赦を受けたが、それまでは襲撃をやめず、皇帝の忠実な臣下となることもなかったのであった。

11.
その後、総主教のアントニオスがスクレロスの反乱の間に職を辞し、亡くなった。四年半の指導者不在の後、ニコラオス・クリュソベルゲスが総主教に任じられる。(実際の総主教不在期間は、979年-980年の間)

日中の日食により、星が見えるなどした。

皇帝ヨハネス1世崩御の後、ブルガリア人が背き、四人の兄弟がブルガリアの統治者と定められる。ダヴィド・モイセイ・アーロン、そしてサムイルのことであり、伯の息子たちである。この伯は名をニコラと言い、ブルガリア人の中でも剛勇な男の一人であった。四兄弟の母はリプシミアである。これが四兄弟が、コミトプリ(伯の息子)として知られていた理由であった。

ペタル1世の息子 ボリスとロマンは既に説明したように帝都へ連れてこられ、そこに留まっていたが、一方で、ペタル1世のその他の親族は死によって退場する。ロマンが前のパラコイモメノスであったヨセフ・ブリンガスによってその生殖器を削がれる一方、ボリスは皇帝ヨハネス1世によってマギストロスの爵位を授与された。その後、皇帝ヨハネス1世が崩御すると、スクレロスが皇帝とその親族であるバシレイオス(・レカペノス)に反逆し、トラキア地方を侵略したが、その際、ボリスとロマンは帝都から逃れ、何とかブルガリアにたどり着くことができた。

ボリスは、とある茂みを通り抜ける際、矢によって怪我をする。そして、ボリスのことをローマ人であると思ったブルガリア人によって、射殺されてしまったボリスは実際、ローマ人の恰好をしていた。ロマンは無事にビディンへと進んだが、しかるべき場で報告を行うために結局は帝都へと戻っている。

四兄弟のダヴィドは、すぐに死んだ。カストリアとプレスパの中間、カラスドリュス――美しいオークの木々――と呼ばれる地で、ある流浪のヴラフ人たちによって殺されたのである。モイセイはセライの包囲戦で、城壁からの投石に当って死んだ。他の者の記述によれば、モイセイは投石ではなく、馬が転んだために落馬し、ドゥクスのメリセノスの手の者によって討たれたという。

サムイルは兄弟のアーロンを殺し、その家族も全て殺した。アーロンが親ローマ的だったからであると言われている。6月14日、ラメタニツァと呼ばれる場所でのことである。ただ一人、彼の息子でイヴァンという名でも知られるスヴャトスラフだけが生き残った。サムイルの息子でロマノスの名でも知られるラドミルが助けたためである。

こうしてサムイルは全ブルガリアの唯一の支配者となった。彼はとかく戦争をすることにのめり込んでおり、平和を思う心を持っていなかった。

ローマ軍がスクレロスとの戦争に忙殺されていた時、サムイルはこの好機を捉えて、トラキアやマケドニア、テッサロニケ周辺の地域ばかりか、テッサリアやヘラス、ペロポンネソスに至るまで(帝国の)全西方を席巻したのである。

サムイルはまたラリッサを始めとして幾つかの城塞を占領した。彼は、ラリッサの住民とその家族全員をさらにブルガリアに移住させ、自分たちの軍隊に入れてローマ人と戦うための同盟軍として利用する。

彼はまたコンスタンティノス大帝の下でラリッサの主教を努めていた聖アキリウスの遺物を移転させる。聖アキリウスはスコペロス島のレギノスとトリッカのディオドロスと共に、第一回全地公会(ニカイア公会議)に出席した人物である。サムイルは、自身の宮殿のあるプレスパにこの上なく美しく大きな教会を建てて、アキリウスの名前をつけ、彼の遺物を保管した。

12.
皇帝はスクレロスに関する懸念から解放されると、サムイルの動きを抑えたいと思い、ブルガリア侵攻を自ら指揮するつもりでローマ軍を集める。しかし、皇帝は、ブルガリア侵攻に関してはドメスティコス・トーン・スコローンのバルダス・フォーカスや他の東方の司令官たちに伝えるまでもないことだと考えていた。

皇帝は、ロドペ山脈とヘブロス川を経てブルガリアに入り、マギストロスのレオン・メリセノスに難所を守るよう命じて後方に残す。

皇帝自らは、トリアディツァの街を出た所にある峠を通り、木々が生い茂る谷を抜けて進んだ。トリアディツァはかつてはサルディカと呼ばれていたことで知られる街で、コンスタンティヌス大帝の息子である西帝 コンスタンス(1世)と東帝コンスタンティウス(2世)の命で、西方の300人の主教による会議が開かれた地である。

皇帝はストポニオンという所に着くと、急いで要塞をつくらせ、自身はどのようにしてサルディカを攻め取るかという課題に専念する。サムイルが周囲の山の高所を占めていると聞くと、接近戦を嫌って、敵に幾らかの被害を与えようと四方八方に伏兵を配した。

皇帝の目論見がそういうものであった一方、夜になって、ドメスティコス・トーン・スコローン・テース・デュセオース(西方のスコライ軍団長官。帝国陸軍西方総司令官)のステファノスが、皇帝の下へやって来る。背が低かったことから彼は小男ステファノスと呼ばれており、レオン・メリセノスの不倶戴天の敵であった。ステファノスは皇帝に、メリセノスが帝位に羨望の眼差しを向けて帝都へ大急ぎで進軍しているので、(メリセノスの)陣地を討伐して帝都に戻る作戦を何よりも優先させるように求める。皇帝はステファノスの述べたことに恐れを抱き、(メリセノスの)陣地を討伐するよう直ちに合図した。

サムイルはローマ軍がむやみやたらと退いていくのを撤兵だと思って、雄叫びを上げながら全軍で攻撃する。それはローマ軍を完全に怯えさせた。ローマ軍は、生きるために逃げることを余儀なくされる。サムイルは(ローマ軍の)陣地を占領し、全ての輜重を手に入れた。皇帝の天幕や皇帝のしるしすらあった。

皇帝はやっとのことで峠を抜け、無事にフィリップポリスにたどり着くことができた。そこに着いた時、皇帝はメリセノスが一歩も動かずに任せられた防備を用心深く維持していることに気付く。

そのため、皇帝は小男ステファノスを嘘つきの不幸を招く者と罵った。ステファノスはこの叱責を謙虚に受け止めるどころか、自分は忠言を行ったのだと強く抗弁する。皇帝は、ステファノスの図々しさに怒り、玉座から飛び降りると彼の髪とあごひげをつかみ、地面に投げ飛ばしたのであった。

13.
創世紀元6494年、第15インディクティオの年の10月(986年10月)、大地震が起こる。神の大教会(ハギア・ソフィア)のドームがそうであったように、多くの屋敷や教会も崩れ落ちた。ドームは、皇帝が熱心に修復させている。(ドームの上の)職人たちは崩落箇所の再建のために機械によって持ち上げられた資材を受け取ったが、その機械のためだけでも10ケンテナリアの費用が用意された。

14.
バルダス・フォーカスやその協力者といった一部の有力なローマ人たちは怒っていた。ブルガリア遠征の際、皇帝が彼らを無視し、傭兵たちに敬意を払うことさえしなかったからである。彼らは皆、それぞれの受けた非礼と侮辱に不平を言った。とりわけマギストロスのエウスタティオス・マレイノスはぞんざいに件の遠征から外されていた。

第15インディクティオの年の8月25日(987年8月25日)、彼らはテマ・カルシアノンのマレイノスの邸宅に集まり、バルダス・フォーカスを皇帝として歓呼する。彼らはフォーカスに帝冠とそのほかの皇帝のしるしを身に着けさせた。

まさにフォーカスが歓呼を受けていたその時、スクレロスがシリアから帰還してきたことが知らされる。

(スクレロスは)既に述べたようにコスロエスによって手勢と共に拘束されて獄につながれたままバビロンに留め置かれ、その上、何の慰めも与えられなかった。彼は監禁されている惨めさと獄吏の野蛮さに疲れ果てていた。

やがて彼は、予想に反して、突如として自身の運命の好転に巡り合う。彼とその仲間たちは、牢獄から出されたのである。

彼がどのように拘束から解き放たれ、その後、ローマの地に戻ってきたかをここで述べておこう。

15.
ペルシャの民は統治機構をサラセン人にかすめ取られ、そのためにサラセン人に対して憤慨し続けており、遺恨を抱えていた。ペルシャ人は先祖代々の支配を取り戻すために、自分たちを支配している者(コスロエス)を打倒する好機と手段を常に探っていたのである。ペルシャ人の中には、高貴な生まれのイナルゴスという名の者がいたが、演説に巧みで、また恐るべき戦士でもあった。

コスロエスも暢気で取るに足らないような支配者ではなかったから、ペルシャ人たちには(彼らが)探っていた好機が訪れていることに気付く。

イナルゴスは全アケメネスの民を駆り立てて、サラセン人に対する反乱を引き起こした。彼は東方のトルコ人から二万人の傭兵部隊を手に入れ、サラセン人の土地を略奪し、侵略した。こどもたちすら助けずにサラセン人たちを根絶やしにしている。

コスロエスはあるいは代理の将軍によって、時には自ら、頻繁にイナルゴスらに対して行動を起こした。しかし、戦いは全て悪い結果となる。彼は武力ではペルシャ人に敵わないと思い、意気消沈し始める。ペルシャ人の名前を聞くことにも耐えられないほど、コスロエスの軍隊は粉砕された。

その時、コスロエスは自分が抱えている、あるローマ人捕虜のことを考える。もし、その捕虜がローマ人の中で名高くそして優れていて、心身共に勇烈でなかったなら、自分の君主に対して立ち上がり、今のような哀れな状況に陥る危険を冒しはしなかっただろうと、明敏に計算した。しかも、何とか逃れることができたスクレロスは、上流の多くの人々から皇帝とまで呼ばれた(人物である)。

コスロエスは長老達の会議に諮って、ローマ人たちを牢獄から出し、あらゆる世話を受けられるようにした。そして、最終的にローマ人たちに、ペルシャ人との戦争に加わるよう要求を課したのである。

スクレロスは最初、気が進まず、

「実に長い間、牢に閉じ込められていた。その上、囚われの身の苦悩をうんざりするほど受けて、どうやって自分たちの腕を保つことができたというのか。」

と、皮肉交じりに尋ねた。

けれども、コスロエスは譲らない。しかも、スクレロスに大金と大軍を引き受けるように頼んだのである。その軍には戦争のために見事な装備をまとわせるという。コスロエスはスクレロスに戦争の指揮を執るように懇願した。そして、これから先、楽しみや喜びごとによって、牢獄で悪待遇や不快感を与えた罪滅ぼしをするので、拘束について恨みを抱かないよう頼んだのであった。

結局、スクレロスは同意して、コスロエスから求められたことをやり遂げると約束した。しかし、彼はアラブ人やサラセン人、あるいはコスロエスの下にある他の種族で構成された軍を率いることはきっぱりと拒否している。スクレロスは、要求して言った。

「シリアの街の獄中を捜索してもらいたい。そこに捕まっているローマ人を解放して武装させて欲しい。さもなくば、戦争でペルシャ人に立ち向かうことは不可能である。」

と。

コスロエスはこれに同意すると、牢獄を直ちに開放し、ローマ人たちは自由になった。3,000人の男たちがそれらの牢獄から集まる。

その後、コスロエスは解放したローマ人たちを浴室に行かせて、牢獄での汚れを洗い落とさせた。スクレロスは、彼らに新しい衣服や装束を身につけさせて、それぞれに必要で十分といえるだけの武装をさせている。

そして、スクレロスは道案内のために案内人を雇うと、出撃してペルシャ人とぶつかった。本格的な戦闘が起こると、スクレロス勢は繰り返し、激しくペルシャ人に突撃する。ペルシャ人たちは、スクレロス勢の見慣れない装備や聞き慣れない言葉、未知の陣形、そしてとりわけ、猛烈で素早い突撃に戸惑った。こうしてペルシャ人は完全に敗走し、みな討ち取られた。筆舌に尽くしがたい災いだったと言える。イナルゴス自身、戦死している。

ローマ人は多大な戦利品と多くの馬を獲得する。そして再びコスロエスの下には戻らないと決め、ローマ領へ続く道を踏破するのに速度を上げ、それと気付かれることなく無事に故国にたどり着いた。

別の話によると、スクレロスらがペルシャ人に対する勝利から帰還してきたので、コスロエスは盛大に歓待し、しばらく後、死期が近づくと後継者となる同名の息子にローマ人と約定を結び、故国へ送り出すように促したという。

こうした方法によってスクレロスはローマ領へ戻る。そして、バルダス・フォーカスが皇帝を称したと知り、スクレロスも同様に仲間によって歓呼を受けた。

16.
スクレロスは事態を把握した時、心が揺れた。彼は独力で反乱を引き起こし、指揮し、そして継続していくには、(自分たちは)弱すぎると感じていたのである。かと言って、皇帝もしくはフォーカスのどちらかにつくのは恥ずべきで臆病であるとも感じていた。

スクレロスは仲間たちとの議論の末、ようやく皇帝を称するのは危険で無謀な事であり、支持を欠いているという結論に達する。それでもなお彼は、自分の立場を利用して権力闘争する者を支援し、その相手を除くことをためらっていた。結果が予測不能のものだったからである。

一方が悼むべき事態を迎えようとも、もう一方のことを助けて守れるように、できる限り双方を懐柔しようとスクレロスは決意した。

そこで彼はフォーカスに親書を送り、共通の利害を探り、皇帝に勝った暁には統治権を分け合おうと提案する。

そうしておきながら、密かに息子のロマノスを逃亡してきたかのように見せ皇帝の下へ送った。フォーカスが勝てば、息子ロマノスの安全は保証するという決定がなされるであろうし、皇帝側が勝てば、息子が父のために弁護してくれるであろうと、スクレロスは非常に賢明な計算をしたのであった。このようにして、彼は厄介な状態から抜け出したのである。そう、逃げるふりをしてロマノスは皇帝の下へ赴いた。皇帝は大きな慈愛と多くの喜びをもって彼を迎え入れている。

皇帝は、ロマノスにマギストロスの爵位を授け、以後、正式に遠征軍の参謀として雇い入れる。

実のところ、スクレロスがシリアに撤退した後、不安から解放された皇帝は、このところ一層、精力的に国政に専念していた。皇帝は自身のやっている事をパラコイモメノスが決して快く思っていないと気付いていた。パラコイモメノスは不平を口にしており、さらに好機が訪れたら、大それたことをしでかしてやろうと野望を抱いていたのである。

こうした理由から皇帝はその強い立場によってパラコイモメノスを罷免し、蟄居を命じた。

パラコイモメノスは大人しくしておらず、絶えず好ましくない事態を呼び寄せようとした。その上、以前の権勢を取り戻そうと努めたので、皇帝は彼をボスポロスへ追放し、資産の大部分を没収する。パラコイモメノスがいかなる犯罪行為にも近づけないようにしたのである。

今や皇帝はパラコイモメノスの助言を失った。立ちはだかる困難な状況で支えてくれる友人や仲間にも事欠いていた。そのため皇帝は、喜んでロマノスを受け入れたのである。皇帝はロマノスが切れ者で、精力的で非常に戦上手であることを知っていたのであった。

17.
バルダス(・フォーカス)は、スクレロスの帰国が公になったことを知ると、書状を送って協定や取り決めを遵守するとの宣誓を示した。フォーカスは言った。

「我々が望みを達したなら、あなたはアンティオキア、フェニキア、コエレ・シリア、パレスティナ、そしてメソポタミアを支配することになるだろう。一方で、私は、帝都自体と残りの民を支配するだろう。」

と。

スクレロスはこうした提案を快く受け入れ、その宣誓を信用できるものと確信して、フォーカスに会うためカッパドキアへ向かう。双方の協力を承認するつもりだったのである。ところがフォーカスは、ひとたびスクレロスを罠にかけると、その帝室のしるしを奪い取り、テュロポイオンの要塞へと送った。そこでスクレロスは監視されたが、その品格が損なわれる扱いを受けることは決してなかった。

フォーカスはその後、軍の一部をパトリキオスのカロキュロス・デルフィニアスに預け、帝都対岸のクリュソポリスに送る。それから彼は、一度海峡を制してしまえば、食糧不足によって帝都の市民を減らせるという期待から、残りの軍を率いてアビュドスへ赴く。

皇帝はデルフィニアスに対してクリュソポリスから引き上げ、帝都の前に布陣しないよう繰り返し求めた。デルフィニアスが要請を拒絶すると、夜間、皇帝は何隻かの船を用意してルーシ人を乗せる。ルーシ人の同盟軍を得ることができたのである。しかもルーシ人の指導者ウラジーミルを皇帝の妹 アンナと結婚させることで親族としたのであった。

皇帝は、ルーシ人たちと共に(対岸へ)渡り、躊躇なく敵を攻撃して制圧した。

皇帝はデルフィニアスを自らの天幕を張ったちょうどその場所で絞首台にかけ、フォーカスの兄である盲目のニケフォロスを牢獄へ送った。

皇帝はまたアツュポテオドロスをアビュドスで串刺しにしている。そして、残りの囚人に相応しいと思える罰を与えた。

その後で、皇帝は帝都へ戻っている。

18.
フォーカスはアビュドスに着くと、厳しい包囲を行った。しかし、城内は意気盛んに包囲に抵抗する。皇帝がドゥルンガリオス・トゥー・プロイムー(中央艦隊長官)のキュリアコスを派遣して、彼らを安堵させ勇気づけたからである。

間もなく皇帝の弟 コンスタンティノスが渡海し、その後、皇帝自らも到着する。

皇帝軍が渡海すると、フォーカスは軍の一部にアビュドスの包囲を命じる一方、自身と残りの軍は皇帝に対して布陣する。まさに戦いが始まろうとしていたその時、フォーカスは皇帝があちらこちらへ乗り入れて戦列を勢揃いさせ、鼓舞しているのを見た。フォーカスは輝かしい死を不名誉な生に勝るものだと信じている。

皇帝の下へ達することができれば、残りの皇帝軍は簡単に制圧できるとフォーカスは考えた。そこで、彼は馬を駆り立てて猛烈に皇帝めがけて突進し、敵の隊列を突き破る。その様は押し留めようのないものに見えた。

死が皇帝に近づいていたが、まさにその時、フォーカスは突然、向きを変え小高い丘に上って馬を降り、地面に横たわった。死んだのである。

彼は無謀な突撃で兵士の手によって致命傷を受けたかもしれなかった。あるいは、身体の異常に見舞われたのかもしれない。とはいえ、彼の身体に傷は見当たらなかった。そのためにフォーカスは毒殺されたのだという噂が広まる。

フォーカスが最も信頼していた従者のシュメオンが贈り物によって皇帝に買収され、フォーカスを毒殺したと言われている。

フォーカスには戦いの前に冷たい水を飲む習慣があったが、この戦いの時も同じようにして、知らず知らずのうちに水と共に毒を摂取してしまったという。

フォーカス(の遺体)はしばらく丘の上に横たわっていた。誰もが疲れのためにフォーカスがひと休みしているのだと思った。

けれども、彼はそこに横たわり続けている。ある者が近づいて、フォーカスが物言わぬ死体となっていることに気付いた。

フォーカスの死が広く知れ渡ると、すぐに反乱軍は踵を返して逃げ出した。これに気を良くした皇帝軍は脇目も振らずに追撃し、レオン・メリセノスとテオグノストス・メリセノス、テオドシオス・メサニュクテスやそのほか多くの者を生け捕りにする。

皇帝は彼らを帝都に連れて行き、広場での凱旋式でロバに乗せて引き回した。

皇帝がただひとり赦したのは、レオン・メリセノスである。レオンが、山ほど涙を流して自分の兄弟(テオグノストス)に、

「つけあがった言葉は止めよ。恥ずべき侮辱を正統な君主に向けるものではない。」

と促したからであると言われている。テオグノストスはその時、軍の前にあって下品な言葉で口汚い罵声を上げていたのである。テオグノストスがレオンの言葉を歯牙にもかけなかったので、レオンは幾度も長槍で彼を打ち据えた。

皇帝は

「これを見よ! この者たちを! 同じ木から生まれながら一方は十字架でもう一方は手箕だ!」

と、そこにいた人々に向けて言った。

このためにレオンは引き回しを免れたと言われる。

19.
フォーカスが死ぬとすぐ、創世紀元6497年、第2インディクティオの年(989年)の4月2日には、その反乱軍は崩壊し、スクレロスはまたも立ち上がり、以前の反乱を再開させた。(実際にはフォーカスの死は、989年4月13日のことである。)

皇帝はこれを知ると、スクレロスに書状を送った。

―あなたは私より前に死と審判を待つ身である。だからあまりに多くのキリスト教徒の血を流して来はしなかったかどうか考えて欲しい。そしてどんなに遅くなろうとも、神が与え給うた支配者を認めることがあなたの利益になることを知るべきである。

占星術師らが言い出した有名な「ΒはΒを追い払う。そしてΒが支配する。」という予言が流行っている。そのためにあなたの(Βで始まるBardasの)名前を暗示する予言によって誤った方向へ向かってはならない。これに惑わされてあなたとフォーカスの双方は、反乱を起こすことになったのである―

と忠告するものである。

スクレロスはこの書状で懐柔された。そして身の安全を保証されて、矛を収め皇帝と和解する。皇帝はスクレロスにクロパラテスの爵位を与えた。

しかし、スクレロスは自身の目で皇帝を見ることは叶わなかった。道中で視力を失い、失明したのである。

彼は皇帝の下へ連れてこられる。盲目の人と皇帝は相見えるが、スクレロスは手を取られて案内されてきた。皇帝は居合わせた者に、

「余が恐れおののいていた者が、手を引かれてやって来る。」

と言ったのであった。

20.
内乱とそれに伴う懸念から解放された皇帝は、今やどうやってサムイルやそのほかの首長たちに対処するかに注意を向けた。彼らは反乱軍との関わりを利用して、(皇帝からの)制裁を被ることもなく、ローマ領に甚大な被害を与えていたのである。

皇帝はトラキアとマケドニア地方に進出し、テッサロニケへやって来た。殉教者デメトリオスへの奉献のためである。皇帝は、その地にサムイルの襲撃を退け、妨げられる人間としてグレゴリオス・タロニテスを指揮官として残した。

皇帝自らは帝都へ戻り、その後、イベリアへ進む。(そこの統治者である)クロパラテスのダヴィドがこのほど亡くなったが、書面にて皇帝がその地を相続する旨、明言していたのである。

皇帝はイベリアに至り、ダヴィドの遺領を手に入れた。そしてクロパラテスのダヴィドの兄弟でイベリア内陸部を統治するギオルギに、自分の領土に満足し、そのほかに多くを望まないように言い含めている。

皇帝はギオルギと約定を交わすと、その息子を人質として連れて行き、フェニキアへと進んだ。イベリアの自分たちの所領から来た代々の首長たちもいた。中でも抜きんでて優れていたのはテウダトスとフェルセスのパクリアノス兄弟であり、皇帝は彼らをパトリキオスの爵位へと進めている。

皇帝はフェニキアにいる間、その権力を行使して、トリポリ、ダマスクス、テュロスそしてベイルートの首長たちをローマへの従属下に留めるために様々な手を打った。これらの首長たちは、皇帝がフォーカスとの戦いに忙殺されている間に徒党を組んでアンティオキアに対して武器を取ったのである。

彼らはアンティオキアの統治官でパトリキオスのダミアノスを殺している。この時、ダミアノスは打って出て戦って、街をかなりの危険に晒したのであった。皇帝は首長らを確実にローマ人への従属下に留めるため、彼らから人質を取って、その後でビュザンティオンへと戻っている。

21.
カッパドキアを巡幸していた皇帝を、マギストロスのエウスタティオス・マレイノスは、貴賓として迎え、費用のことなど考えもせず、皇帝とその将兵らに必要なものを何でも提供した。皇帝はこれに満足し、マレイノスを賞賛すると、彼を帝都へ連れて行く。ところがその後、マレイノスが帰るのを許そうとしない。皇帝はマレイノスが必要とする物は気前よく与えたが、あたかも野獣を檻で飼うかのように彼を死ぬまで(帝都に)留め置いたのだった。そしてマレイノスが亡くなると、彼の全資産を国庫へ入れたのである。

皇帝は村単位で、貴族らの所有地の拡大を強力に抑制する法律を公布した。先帝も皇帝の祖父であるコンスタンティノス7世ポルフュロゲネトスも同様であり、コンスタンティノス7世の義父 ロマノス1世もそうであった。

22.
創世紀元6503年、第8インディクティオの年、10年8か月、総主教を努めたニコラオス・クリュソベルゲスはこの世を去った。(実際には、紀元6504年第9インディクティオの年のことで、西暦996年4月。)マギストロスのシシニオスが後継として任命された。非常に高名で、医術に極めて精通した人物である。

レオン6世の四度目の結婚の際、エウテュミオスが領聖を容認したために分裂していた教会の党派をシシニオスは和解させている。(※レオン6世は三度妻に先立たれ、後継者を得られなかった。その後、ゾエ・カルボノプシナとの間にようやく息子コンスタンティノスが生まれ、ゾエとの結婚に踏み切ろうとしたが、総主教のニコラオス1世に反対されてしまう。そのためレオン6世は、ニコラオス1世を罷免して、エウテュミオスを後任に据え、これを機に、ニコラオス派とエウテュミオス派が対立することになっていたのである。)

シシニオスは、わずか3年、教会の指導者を務めた後、この世を去っている。そして、セルギオスが(後継に)任命された。セルギオスはマヌエル修道院の修道院長で総主教フォティオスの親族であった。

23.
サムイルはテッサロニケに遠征した。彼は自軍の大半を伏兵と罠に振り分けたが、すぐに小規模な部隊をテッサロニケ自体に向けて進めている。

ドゥクスのグレゴリオス・タロニテスはこうした侵攻を知ると、息子のアソティオスを派遣する。敵軍を見張り、探らせ、機密を得るためである。グレゴリオス自らはその後で出撃した。アソティオスは打って出て、サムイルが夜までに配置した敵の先鋒とぶつかったが、知らず知らずのうちに伏兵にかかり捕らわれる。これを聞いたグレゴリオスは、息子の救援に駆けつけ、懸命に囚われの身から救い出そうとした。しかし、グレゴリオスもまたブルガリア人に囲まれてしまう。彼は、気高くそして勇ましく戦うように言った。

皇帝はドゥクス(のグレゴリオス)の死を知らされると、マギストロスのニケフォロス・ウラノスを西方の司令長官として派遣する。ウラノスは皇帝が金を払ったことでバビロンから解放され、帝都にたどり着いていたのであった。

ウラノスはテッサロニケに到着した時、サムイルがドゥクスのグレゴリオス・タロニテスを殺し、その息子を捕らえたことを勝ち誇っていることを知る。サムイルは、テンペ渓谷を抜け、ペーネイオス川を渡り、テッサリアを縦断してボエオティアやアッティカへと進んだ。そしてコリントス地峡を通ってペロポンネソスへ入り、それら全ての土地を略奪し荒らし回っていたのである。

ニケフォロス・ウラノスは麾下の軍とオリュンポスの高地を横切ってラリッサに至り、そこに輜重を残した。その後、ウラノスは重たい荷物から解放された軍と共に強行軍でテッサリアのファルサラ平原とアピダノス川を横切り、スペルヒオス川の川岸に布陣する。対岸にはサムイルが野営していた。

空からは大雨が降りそそぎ、川は氾濫して川岸は水で溢れかえっている。戦いが起こる気配はなかった。

ところがマギストロスは川を上ったり下ったりして渡河できそうな場所を見つける。ウラノスは自軍を奮い立たせて、夜間、川を渡り、眠っているサムイルの軍に襲いかかった。完全な不意打ちである。彼らの多くが殺された。敢えて抵抗しようとする者もいなかった。

サムイルとその息子ロマノス(ラドミル)は双方とも重傷を負い、まるで殺されたかのように横たわって、死体に紛れて逃げ延びるだけだった。その後、夜の内に二人は密かにアエトリア山脈に潜んだ。

そこから彼らは山々の頂を通ってピンドス山脈を越え、無事にブルガリアへとたどり着く。

マギストロスは捕虜になっていたローマ人を解放し、ブルガリア人の死体から略奪を行う。ウラノスはまた敵陣を占領し、莫大な富を得た。その後、彼は麾下の軍と共にテッサロニケに戻っている。

24.
サムイルは無事に帰国した際、タロニテスの息子アソティオスを牢獄から出し、娘と結婚させて義理の息子とした。彼女――ミロスラヴァがアソティオスと恋に落ち、正式に結婚できなければ自殺すると脅したからである。

ひとたび結婚が成立すると、サムイルはアソティオスを娘と共にデュラキオンへと送り出した。その地方の防備を固めるためである。

しかしながら、アソティオスはそこへ着いた時、妻を説得して、沿岸を警備していたローマの船に逃亡して合流する。これらの船でアソティオスは無事に皇帝の下へと至り、皇帝は彼にマギストロスの爵位を授与し、その妻にはベルトの勲章(ゾステ・パトリキアの爵位)を与えた。

アソティオスはクリュセリオスという名のデュラキオンの有力者からの書状を手土産に持ってきていた。 クリュセリオスは、自身と二人の息子をパトリキオスの爵位へ昇進させる代わりにデュラキオンの街を皇帝に引き渡すと約束する。

皇帝はその約束を認める書状を出し、デュラキオンは滞りなくパトリキオスのエウスタティオス・ダフノメレスに引き渡された。

(クリュセリオスの)二人の息子はパトリキオスに任命され、その間に、父(クリュセリオス)は亡くなっている。

25.
二名の男が親ブルガリア的だとして非難された。テッサロニケの有力な市民でマギストロスのパウロス・ボボス、その知性と雄弁さを謳われたマラケノスである。パウロスはテマ・トラケシオンの平原に、マラケノスはビュザンティオンに身柄を移された。

アドリアノープルのある有力な市民たちも嫌疑をかけられたために、サムイルの下へ逃亡している。軍事において令名を馳せていたバタツェスは家族全員で亡命し、バシレイオス・グラバスはその息子が皇帝に三年に渡って拘束を受けた後、解放されている。

その頃、皇帝はヴェネツィア人の歓心を買うために、アルギュロスの娘を正式にヴェネツィアのドージェ(統領)へ嫁がせた。この娘は、後に皇帝となったロマノス3世アルギュロスの姉妹にあたる。

皇帝はまた、フィリップポリスを抜けてブルガリアへ侵攻する。フィリップポリスには、パトリキオスのテオドロカノスが留め置かれて防備にあたっている。皇帝はトリアディツァで多くの要塞を打ち壊し、その後、モシュヌポリスへ戻っている。

26.
創世紀元6508年、第13インディクティオの年(999年9月-1000年8月)、皇帝は強力な大軍をプロトスパタリオスの爵位にあるニケフォロス・クシフィアスの指揮の下、ハイモス山脈を挟んだブルガリアの本拠地へと差し向けた。大ペルストラバ(プレスラフ)、小ペルストラバ(プレストラビザ)を陥落させ、プリスコヴァも落とす。ローマ軍は無傷のまま、意気揚々と戻ってきた。

27.
翌年、皇帝は再びブルガリアに向けて出撃する。この時、皇帝はテッサロニケを通っている。(テッサロニケに近い)ベロイアの統治官であったドブロメロスは、サムイルの姪と結婚していたが、皇帝の軍に加わり、アンテュパトスの爵位と総督の地位を得る代わりに街を皇帝に明け渡している。コリュドロスの司令官デメトリオス・テイコナスは、開城を拒んだが、街からの撤退を許して欲しいと申し出る。皇帝はこれを認め、デメトリオスと麾下の者たちがサムイルの下へ帰還することを許した。

その後、セルビアという城塞の指揮官でその身の丈の低さからニコリツァスとあだ名されていたニコラオスは、包囲に耐え、意気盛んに抵抗する。皇帝は封鎖を強め、城塞を奪いニコリツァス自身も捕らえた。皇帝はそこを守るためにブルガリア人を移住させ、ローマ人を入れた。

これが成った後、皇帝はニコリツァスを連れて帝都へ戻る。皇帝はその後ニコリツァスにパトリキオスの爵位を授けている。しかしニコリツァスは信の置けない人間だった。彼は逃亡し、無事にサムイルの下へたどり着いた。サムイルとニコリツァスは直ちにセルビアの城塞を包囲しに来る。

皇帝は急いで再び(セルビアに)姿を見せて包囲を終わらせ、ニコリツァスとサムイルは懸命に逃げた。とはいえ、その不実な男(ニコリツァス)は無事に逃げおおせることはできなかった。彼は、ローマ軍の伏兵に捕まり、捕虜として皇帝の下へ引き立てられ、コンスタンティノープルへ送られて牢に入れられた。

その後、皇帝はテッサリアへ進軍し、サムイルが破壊した諸城を再建している。皇帝はまだブルガリア人が保っていた城は包囲し、そして、(テッサリア)からブルガリア人をボレロンと呼ばれる地へと移住させた。皇帝は各城塞に備えを整えた守備隊を残して、テッサリアを去り、ボデナと呼ばれる地へと進軍する。そこは、険しい岩山に囲まれ、オストロボス湖の水の流れる地に面した城塞である。

ローマ軍は潜行し、その後、ここに至って姿を現したのであった。城内の人々に開城する気はなく、そのため皇帝は包囲して街を落とさざるを得なかった。そして、ボレロンにも守備兵を送る。皇帝はその名に恥じぬ守備隊を置いてボレロンの守りを固め、テッサロニケに戻ったのであった。

28.
要害の統治官であるドラクサノスは、真の戦士であったが、テッサロニケに駐留する許可を求めた。皇帝は許可し、ドラクサノスは、勝利の殉教者デメトリオス教会の第一司祭の娘を妻とし、二人の息子が生まれている。

その後、ドラクサノスは逃亡して捕まったが、義父の仲裁によって自由の身となった。二度目の逃亡でも捕まり、再び自由の身とされる。自由の身となってさらに二人のこどもを設け、その後、三度目の逃亡を図った。

しかし今度は、捕らわれただけでなく、串刺しになっている。

29.
ヌメリテとアタフィテのアラブ人が激しい急襲をコエレ・シリアとアンティオキアに仕掛けていたので、皇帝はマギストロスのニケフォロス・ウラノスを派遣してアンティオキアの統治官とした。テッサロニケの街は、ウラノスの後任としてパトリキオスのダヴィド・アレイアニテスが預かることとなっている。

皇帝はプロトスパタリオスのニケフォロス・クシフィアスをフィリップポリスに配置した。テオドロカノスは老齢のために引退していたのである。

マギストロスのニケフォロス・ウラノスはアンティオキアに到着すると、アラブの指導者 キトリニテスと二、三度戦って敗走させた。キトリニテスは沈黙を余儀なくされている。情勢は非常に落ち着いたものとなった。

30.
翌年、第15インディクティオの年(1002年)、皇帝はビディンに遠征し、8か月に及ぶ包囲の末にこれを奪取した。

ここで、ブルガリアの族長の巧妙な手口が姿を現す。ギリシャ火は大きな陶製の器を用いることで、消火することができた。そして皇帝がビディン包囲に取り掛かっている間に、サムイルは生神女就寝祭のまさにその日に、即応部隊に松明を持たせてアドリアノープルに電撃的に攻撃を仕掛けたのである。慣例的に公費で開催されていた祝祭の場へサムイルは突如として襲いかかり、大量の戦利品を得て自領へと戻っていった。

皇帝は、(陥した)ビディンの守りをさらに固めて、そのまま全軍と帝都に戻ったが、その帰途、行き当たったブルガリアの要塞を全て略奪し破壊している。

皇帝がスクウポイ(スコピエ)に近づいた時、サムイルは無用心にアクシオス川の対岸に布陣していた。そこは、バルダス・スクレロスが河道を今の流れへと付け替えたため、バルダリオスと呼ばれるようになった場所である。サムイルは豊かに水が流れる川を頼みにしていた。彼は、そこを(敵が)渡河してくるのはしばらく不可能だろうと考え、そのため、無防備に野営していたのである。ところが兵士たちが浅瀬を発見し、そこから皇帝は渡河する。不意を突かれたサムイルは、一目散に逃げ去った。

サムイルが統治官に任命していたロマンの手によってスクウポイの街は、皇帝に引き渡される。このロマンはブルガリアのペタル1世の息子でボリスの弟である。彼は、その名を祖父の名前であるシメオンに改めていた。皇帝はロマンの降伏に対して、パトリキオスの爵位とプライポシトス(宮廷管理長官)の地位で報い、アビュドスの長官としている。

31.
スクウポイを越え、皇帝はペルニコスに至った。クラクラという非常に戦上手な人物が守っている場所である。皇帝はかなりの時間を包囲に費やし、多くの人員を失う。包囲に対して守りは巧妙で、またクラクラが協定やその他の提案など甘言に乗ってこないと覚って皇帝はフィリップポリスへ移り、陣を引き払ってコンスタンティノープルへ還幸したのであった。

32.
(スクウポイが開城したのと)同じインディクティオの年(1004年)、皇帝は亡くなった庶民の税金を有力者が払うという法令を制定した。これはアレレンギュオンと呼ばれる。

総主教 セルギオスや多くの主教ら、そして多くの修道士らは、この途方もない負担の撤回を皇帝に要請したが、皇帝は首を縦に振らなかった。

サムイルが絶好の場所に伏兵を仕掛け、テッサロニケのドゥクスであるパトリキオスのヨハネス・カルドスを生け捕りにしている。

33.
第8インディクティオの年、創世紀元6518年(1009年)、エジプトの支配者アズィズィオン(ファーティマ朝のカリフ アル・ハーキム。父の名がアズィズ)は、偽りのちょっとした口実と取るに足らない些細な違反を理由にローマとの約定を破った。彼はエルサレムにある救世主キリストの墳墓の上に築かれたかの崇高な教会(聖墳墓教会)を破壊し、有名な修道院を踏みにじって、そこに住む修道士たちを地の果てへと追い払っている。

34.
翌年の冬(1010年-1011年)は非常に厳しかった。川も湖も、そして海さえも凍った。

さらに同じインディクティオの年の1月には、実に恐るべき地震が起こる。地震は3月9日まで続いた。地震の日、10時には恐ろしい揺れが帝都と帝都のあるテマを襲う。四十聖人やあらゆる聖人に捧げられた教会のドームが崩落した。皇帝はこれらを直ちに再建している。

これらの出来事は、続いてイタリアで起こった反乱の前兆となった。バリオン地方のメレスという名の有力者は、ロンゴバルディアの民を扇動して、ローマに対して挙兵する。

皇帝は、ローマの繁栄を取り戻すために、サモスの長官 バシレイオス・アルギュロスとケファロニアの長官で小柄なレオンと呼ばれている男を共に派遣した。メレスは彼らに挑んで本格的に戦い、惨敗させている。

多くが戦死し、捕虜となる一方、残りは逃げ延びて生きながらえる恥辱を選んだのであった。

35.
皇帝は連年、絶え間なくブルガリアに侵攻し続けた。そして手に入れた全てを蹂躙する。

サムイルは広大な国土にあって何もできず、皇帝と本格的に戦ったが太刀打ちできなかった。彼はあらゆる戦線で粉砕され、その力が衰えてきたので、ブルガリアへの道を堀と柵で封鎖することにする。

皇帝がいつも決まってキンバ・ロンゴスともクレイディオンとも呼ばれる所から侵入してくることをサムイルは知っていた。そのためその通行を妨害して皇帝の侵入を防ごうと決めたのである。

サムイルは広範囲にわたって砦を築き、十分に守備兵を配して皇帝を待った。皇帝は順調にクレイディオンへ至り、押し通ろうとする。

しかし守備兵は激しく抵抗した。攻撃側を殺し、上から武器を投げつけて負傷させる。

ここに至り、皇帝は(クレイディオンを)通り抜けるのをあきらめた。フィリップポリスの長官を努めていたニケフォロス・クシフィアスは、皇帝と申し合わせる。皇帝はその場に留まって敵の戦列に繰り返し攻撃し、一方でクシフィアスは何か良い手立てで問題を解決できないか動いてみることにしたのである。

クシフィアスは麾下の者と来た道を引き返し、クレイディオンの南側に横たわるヴェラシツァと呼ばれる非常に高い山を迂回して登り、獣道を抜けて、道なき荒れ地を通った。第12インディクティオの年の7月29日(1014年7月29日)、クシフィアスは突如、ブルガリア人を見下ろす場所に現れ、雄叫びと共にその背後へ下り、雷鳴のように襲いかかった。この予期せぬ攻撃に驚愕したブルガリア人たちは敗走へと移る。皇帝は打ち捨てられた防塞を取り壊し、追撃をかけた。多くが戦死し、さらに多くが捕虜となっている。

サムイルは息子の助力によって辛くも危機を脱した。サムイルの息子は攻撃に頑強に抵抗し、父を馬に乗せてプリラポスという城塞へと先導したのである。

皇帝は15,000の捕虜の目を潰し、その際、道案内のために100人につき1人の片目を残すように命じたという。そうして彼らはサムイルの下へと送り返された。

サムイルは、多くの捕虜がそういった状態でたどり着いたのを目の当たりにする。彼にはその衝撃に耐えるだけの不屈の精神は備わっていなかった。サムイルは目の前が真っ暗になり地面に昏倒する。水と香水が彼の呼吸を落ち着かせるのに役立った。従者たちは、何とかサムイルの意識を回復させる。意識を取り戻した彼は、冷たい水を求めた。サムイルはそれを飲んだ後、心臓発作に見舞われ、二日後に死んだ。10月6日のことである。

ブルガリアの統治権は今やサムイルの息子ガブリルの下へと巡ってきた。別名をロマノス(ラドミル)といい彼は、サムイルの後を受けて直ちにブルガリアを統治したのである。

ガブリルは気迫と力で父を凌いでいたが、悲しいことに知恵と理解力は劣っていた。彼は、ラリッサで捕らわれた女性とサムイルの間に生まれた。その女性は名をアガタと言い、デュラキオンの有力者 ヨハネス・クリュセリオスの娘である。

ガブリルの統治は第13インディクティオの年の10月15日(1014年10月15日)に始まった。ところがそれから1年と経たない内に彼はアーロンの息子 イヴァンによって殺されてしまう。狩猟に出かけた折のことである。イヴァンはまたヴラディスラフとも呼ばれる。(サムイルに嫌疑をかけられ殺された)アーロンは今際の際に名誉を挽回していたのである。

ラドミル(ガブリル)はハンガリー王の娘を妻とした。理由は不明だが、ガブリルは彼女を嫌って遠ざけている。この時、彼女は既に彼の子を身ごもっていたという。その後、ガブリルはラリッサで捕らえた金髪のエイレーネーを妻としている。

36.
これよりも前、テオフュラクトス・ボタネイアテスはアレイアニテスの後を受けてテッサロニケの統治官として派遣される。サムイルは、ブルガリアの有力者の一人 ダヴィド・ネストリツェスを強力な軍隊と共にテッサロニケに差し向けた。テオフュラクトスとその息子ミカエルは、彼らに抵抗を示して、戦闘では大いに敵を追い散らしている。多くの戦利品と多数の捕虜を得たので、クレイディオンの峠で守備軍と戦う皇帝の下へと送った。

皇帝は障壁を打ち破って、ストルミツァへと前進し、ストルミツァに近いマツウキスという要塞を奪う。

皇帝はその後、テッサロニケのドゥクス テオフュラクトス・ボタネイアテスに別働隊の指揮を執らせる。その際、ストルミツァの山を越え、道々行き会うあらゆる防塞に火をかけ、皇帝のためにテッサロニケへの道を切り開くように命じている。

テオフュラクトスが出発したので、皇帝はブルガリアの守備軍に邪魔されずに通行することができるようになった。しかし、テオフュラクトスは任務を終えた後、皇帝の下へと戻ろうとした際に、長い隘路で手ぐすね引いて待つ伏兵に襲われてしまう。

ひとたび伏兵にかかると、投げ落とされる石や武器であらゆる方向から攻撃を受けた。敵が押し寄せ、谷の外へ出る道もなく、誰もテオフュラクトスの身を守るために手を尽くすことができない。ドゥクス自身は為す術もなく戦死した。ラドミルは槍で抉ってドゥクスの内臓を引きずり出している。軍の大半がテオフュラクトスと共に壊滅したのであった。

このことを知らされると皇帝は大いに嘆いて、それ以上は進まないことに決める。皇帝は引き返してザゴリアへと向かった。そこには非常に堅固なメリニコスの要塞が建っている。要塞は張り出した岩山と深い峡谷に囲まれた岩の上にある。要塞付近のブルガリア人たちはそこに逃げ込んでいたが、ローマ人たちをそれほど警戒していなかった。

ともかく皇帝は彼らの所へ、最も親しい侍従で宦官のセルギオスを遣わした。弁が立つ才人である。ブルガリア人たちの心理状態を探ってみようというのであった。要塞に着いたセルギオスは、説得力のある主張によってブルガリア人たちに何をすべきかを説く。矛を収め、皇帝に身を委ねて要塞を明け渡すべきことを伝えたのである。皇帝は彼らを受け入れ、その行動に報いて恩賞を与えた。

要塞の防備のために十分な部隊を置くと、皇帝はモシュヌポリスへ向かう。そこに滞在している間にサムイルの死が知らされた。10月24日のことである。

皇帝は直ちにモシュヌポリスを離れて、テッサロニケへ至り、そこからペラゴニアへと進む。道中、ブテレでガブリルの宮殿を燃やした以外は、何も破壊しなかった。

皇帝は軍を派遣し、プリラポスとステュペイオンの城を奪うと、ツェルナスという川に至り、筏と膨らませた袋で渡河する。その後、ボデナへ戻り、そこからテッサロニケへと入った。1月9日のことである。

37.
春の初め、皇帝は再びブルガリアに戻り、ボデナの城へと向かった。ボデナの民が皇帝の信頼を裏切ってローマ人に対して武器を取ったからである。

長い包囲によって皇帝は、城内の者たちを降伏させた。その際、彼らは身の安全を保証されている。皇帝はボデナの者たちを再びボレロンへと追放し、新たに二つの要塞を難所に築きあげた。ひとつはカルディアの要塞と呼ばれ、今ひとつは聖エリヤの要塞と呼ばれる。その後で皇帝はテッサロニケに帰還した。

かのラドミル・ガブリルは、とあるローマ人の隻腕の代理人を介して、皇帝の臣下・従者となることを約束する。けれども皇帝はその書状に疑いを持ったので、パトリキオスのニケフォロス・クシフィアスとボタネイアテスの後任としてテッサロニケを預かっていたコンスタンティノス・ディオゲネスに軍を与え、モグレナ地方に侵入させた。

皇帝が到着した時、クシフィアスとディオゲネスはモグレナ地方全土を荒らし回り、モグレナの街を包囲していた。皇帝は街のそばを流れる川の流れを付け替え、城壁の基礎を穿つ。穿たれた所には木や燃料が入れられ、火がつけられた。燃料は燃え、城壁は崩れ落ちた。城内の人々はこれを見て、祈り、嘆き、城を明け渡して投降する。

実力者でありガブリルの参謀である ドミティアノス・カウカノスは捕らえられた。また、モグレナの統治官 エリツェスや多くの要人、さらにかなりの数の兵士らも捕虜となっている。

皇帝はそれらの者の内、戦闘員たちはアスプラカニア(バスプラカニア)へ送り、残りの者たちはズタズタに切り刻んで、城には火をかけるよう命じた。

皇帝は今ひとつ城塞を奪い取る。エノティアの要塞と呼ばれるものであり、モグレナの近くにあったものである。

38.
(それから)5日目に隻腕のローマ人がアーロンの息子のイヴァン・ヴラディスラフの従者を連れて来る。従者が携えていた書状には、ペテリクスコンにおいてガブリルがイヴァンに殺され、(ブルガリアの)全権がイヴァンに移ったことが述べられていた。

イヴァンは皇帝に対して相応しい尊敬を示して奉仕することを約束する。皇帝はこの書状を読むと、その内容を認める旨の金印勅書を出してイヴァンに送った。

数日後、隻腕のローマ人はイヴァンとブルガリアの統治官たちの書状を携えて帰還する。書状には彼ら自身が皇帝の臣下となり従者となることが明言されていた。

モグレナ陥落の時に捕らえられていたカウカノスもまた皇帝に服従している。彼はテオドロス・クパカネスとも言い、ドミティアノス、メリトノスの兄弟である。

すぐにカウカノスは栄誉と尊敬とをもって迎えられる。彼は(イヴァン・)ヴラディスラフを殺すと約束した。

イヴァンの従者と共にカウカノスはブルガリアへ戻る。彼は自らの手でイヴァンを殺すため、その従者に手厚く賄賂を贈っていたのであった。しかしカウカノスはイヴァンによってストゥペイオンの宿で殺されてしまう。

テオドロス(カウカノス)が殺された場所は、元々、ディアボリスと呼ばれていた。

皇帝はイヴァンによる(服従を誓った)書状が自らを欺くためにしたためられたものであり、その意図は書状とは正反対のものであると気付くとすぐに再びブルガリアへと戻る。そしてオストロボス湖やソスコス、さらにペラゴニア平原といった一帯を荒らした。捕虜としたブルガリア人は全て目を潰した。

皇帝はオクリダ(オフリド)の街まで進む。そこにはブルガリア王の宮殿が建っている。オクリダを占領して情勢を安定させた皇帝はさらにデュラキオンを目指そうかというところであった。デュラキオンの情勢が皇帝の存在を必要としていたのである。

サムイルの娘婿 ヴラディミルがトリバリアとセルビアの近隣を統治している間、デュラキオンの情勢は平穏であった。ヴラディミルが高潔で穏やかで徳のある人物だったからである。

ところがガブリルがイヴァンに殺された際、ヴラディミルもまた欺かれた。イヴァンはブルガリアの大主教ダヴィドを通じてヴラディミルとの間に誓約を行ったが、ヴラディミルはそれを信用していた。そこで彼はイヴァンに降伏したのだが、少し後には殺されてしまうこととなっている。

デュラキオンを取り巻く状況は風雲急を告げ、困難なものとなった。イヴァンが繰り返し街を奪おうと麾下の司令官を送り、また時には自ら迫って来たからである。これが皇帝がデュラキオンへ赴き、救援しようとした理由である。ところが特筆すべき事情のためにそれは叶わなかった。

皇帝はオクリダを離れようとする時、司令官 ゲオルギオス・ゴニツィアテスと「捕虜」とあだ名されるプロトスパタリオスのオレステスに多数の軍勢を預け、ペラゴニア平原の制圧を命じて後に残す。しかし彼らは、世に名高い経験豊富なイヴァツが指揮を執るブルガリアの伏兵に取り囲まれ、皆殺しにされた。

彼らを失って悲しみに打ちひしがれた皇帝はペラゴニアに引き返したが、イヴァツの猛追を受けて撤退することとなり、その後、テッサロニケに戻ったのであった。

そこから皇帝はモシュヌポリスへ赴き、ダヴィド・アレイアニテスに別働隊を指揮させて、ストルミツァへと差し向ける。アレイアニテスは不意打ちをかけてテルミツァという城を奪い取った。

皇帝は他にもクシフィアスに別働隊を預け、トリアディツァの要衝へと差し向ける。クシフィアスは平原を焼き尽くし、強襲をかけてボイオという城塞を奪ったのであった。

39.
創世紀元6524年1月(1016年1月)、皇帝はコンスタンティノープルに還幸する。そしてリュドスのドゥクス アンドロニコスの息子であるムゴスの指揮の下、ハザリアに艦隊を派遣した。(ルーシの)ウラジーミルの兄弟で、皇帝の義理の兄弟にもあたるスファンゴスの協力を得たムゴスはハザリアを制圧して、その統治官であったゲオルギオス・ツラスを最初の戦闘で捕らえている。

その時、今はアスプラカニアと呼ばれている上メディアの統治官セナケリムが家族全員と共に皇帝の下へと避難してきた。そして自身が治める全ての土地を皇帝へと引き渡す。

セナケリムはセバステイアやラリサ、アバラの他、多くの領域を(皇帝に)引き渡す代わりにパトリキオスの爵位とカッパドキアの長官の地位を得た。

彼が皇帝の下へと避難してその領地を引き渡したのは、ハガレノイ(イスラム教徒)から受ける圧力に耐えかねたためである。

上メディアにはパトリキオスのバシレイオス・アルギュロスが送られて統治したが、万事うまく行かず、その任を解かれてしまう。バシレイオス・アルギュロスの後任として派遣されたニケフォロス・コムネノスは、緩急柔剛を使い分けてその地を皇帝に服属させたのであった。

40.
創世紀元6524年、第14インディクティオの年(1016年)、皇帝は帝都を離れてトリアディツァへ向かう。ペルニコスの城塞の前に野営して包囲したが、守備側は断固として辛抱強く抵抗し、多くのローマ人が戦死する。包囲が88日と長引いたので、皇帝は勝利はおぼつかないと覚って、得るところなくモシュヌポリスへ引き上げた。

そこで皇帝は軍を休ませ、春の初めにモシュヌポリスから進軍してブルガリアへと入る。ロンゴスという要塞のある場所に布陣し、包囲してそこを奪い取った。ダヴィド・アレイアニテスとコンスタンティノス・ディオゲネスをペラゴニア平原へ派遣して、多くの家畜と多くの捕虜を得る。皇帝は、奪った要塞は燃やし、戦利品を三分割した。一つ目は、同盟軍であるルーシ人に与え、二つ目はローマ人に、三つ目は自らのものとした。

その後、皇帝はさらに前進してカストリアに至り、攻略を試みたが、難攻不落だったために引き返している。

皇帝はドロストロンの長官でイベリア人のテウダトスの息子であるツォツィキオスからの書状を受け取っていた。クラクラが大軍を集めてイヴァンに協力したという内容である。

ペチェネグ人の協力が得られれば、イヴァンは今にもローマ人の国に襲いかかって来そうであった。

書状の内容に困惑した皇帝は急いで戻る。途中、ボソグラードの城を奪って火をかけ、またベロイアを占領する。田園地帯を蹂躙して焼き払い、オストロボスとモリスコスを囲んだが、それ以上は進まなかった。クラクラとイヴァンが計画したローマ領への攻撃が、ペチェネグの協力を得られず失敗したという報告が入ったからである。

そのため皇帝は転進して別の要害 セテナを包囲した。サムイルの宮殿を擁し、多くの穀物が蓄えられている場所であった。皇帝はこれを略奪するよう軍に命じる。残りの全ては火にかけられた。

西方のスコライ軍団とコンスタンティノス・ディオゲネスが指揮を執るテッサロニケの部隊がまだ遠く離れてはいないイヴァンに差し向けられる。しかし、イヴァンは前進してくるローマ軍を待ち伏せていた。

皇帝はこれを知ると馬にまたがり疾駆させ、

「真の戦士たちよ、続け!」

とだけ発した。

イヴァンの斥候はこれを嗅ぎつけて、大きな恐怖を抱えて野営地に戻り、そこを不安と恐怖で満たす。斥候はただ、

「ツァールよ、御覧ください!」

と叫ぶだけだった。

ブルガリア勢はイヴァンと共に隊列を乱して退却する。ディオゲネスは一層、勇気を得て追撃をかけた。ローマ軍は大勢を討ち取り、200人の捕虜とその全ての武器と馬、さらにイヴァンと彼の甥の装備を得た。イヴァンの甥は直ちに目をくり抜かれている。

目的を達すると皇帝はボデナに戻り、状況を整えてビュザンティオンへと戻る道を進んだ。創世紀元6526年、第15インディクティオの年(1018年)の1月のことである。

41.
その時イヴァンは好機を捉え、デュラキオンの包囲へと向かう。その様子は野蛮で傲岸不遜であった。包囲が始まり、戦闘の中でイヴァンは死んだ。しかし、その死の真相を知るものはいない。イヴァンはパトリキオスのニケタス・ペゴニテスと馬上で戦って落馬し、駆けつけた二人の歩兵によって内臓に達する致命傷を負ったという。イヴァンのブルガリア統治は2年と5か月であった。

デュラキオンの長官でパトリキオスのニケタス・ペゴニテスによって、イヴァンの死が伝えられると、皇帝は直ちに遠征に取りかかっている。

アドリアノープルにおいて皇帝は、かのクラクラの兄弟と息子によって、要害として聞こえるペルニコスやその他、35の城塞を割譲すると知らされる。それに応じて彼らには栄典が与えられ、クラクラはパトリキオスの爵位に進められた。その後、皇帝はモシュヌポリスに赴いている。モシュヌポリスにペラゴニアやモロビスドス、そしてリペニオスから開城の使者がやって来たためである。そこから皇帝はセライの街に赴く。クラクラが35の城塞の統治官たちを引き連れて来ていたのである。彼らは皇帝に服従し、皇帝は彼らを快く受け入れた。

ドラゴムゾスもまた服属し、ストルミツァの要塞を完全に明け渡し、パトリキオスの爵位に進んでいる。ドラゴムゾスは、パトリキオスのヨハネス・カルドスを伴っていた。カルドスはこの程、長期間に渡る拘束から解放された。彼はサムイルに捕らえられた後、22年の時を牢獄で過ごしていたのである。

皇帝がストルミツァに近づくとすぐにブルガリアの大主教 ダヴィドがイヴァンの妻 マリアからの書状を携えて来訪した。要求が受け入れられればマリアはブルガリアから出ると約束する内容である。

皇帝は国内の城塞の統治官であるボグダンと連絡をとった。彼もパトリキオスの爵位を受け栄典を与えられていた。長い間、皇帝の政策を支持し、そのために自身の義父であるマタイツェスを殺したからである。

そこから皇帝はスクウポイに至った。そこは、小ニコリツァスの指揮によって初めてサムイルと激戦を行った場所である。小ニコリツァスはプロトスパタリオスと司令官の肩書きを授与されている。その街にはパトリキオスのダヴィド・アレイアニテスが長官として留められた。全権を与えられ、ブルガリアのカテパノ(方面軍総司令官)とされている。

皇帝は、ステュペイオン、プロサコンへ向かって道を曲がり、行列と賛美歌によって迎えられる。その後、今ひとたび道を右へ曲がって勇壮にオクリダへと向かい、陣を張った。全ての人々が皇帝を賛美歌で出迎え、拍手喝采を送っている。

オクリダはリュクニドスと呼ばれる大きな湖のそばの高い丘の上にある街である。街は湖にちなみ、同じリュクニドスの名前で呼ばれている。元々はデュアッサリテスと呼ばれていた街であった。この湖からは見事な魚が大量に水揚げされる。

湖から北へとドリノス川が流れている。ドリノス川はディアボリス地方から南に流れ、リュクニドスの湖を横切り、北方へと流れるのである。ちょうどアルペイオス川が海を横切ってアレトゥーサの泉へと向かうようなものである。(※ペロポンネソス半島を流れるアルペイオス川は、地中海に流れ込んでいるが、当時の人が信じるところではその水は海の水とは混ざらずに、シラクサ沖のオルテュギュア島にあるアレトゥーサの泉から湧き出ているのだという。その話の由来と思われるギリシャ神話のアルペイオスとアレトゥーサの話が有名である。)土地の者たちがストルガと呼ぶ(リュクニドスの)湖岸へと流れが集まり(ドリノス川の)大河を形作っているのが分かる。流れはさらに西へ曲がり、エイリッソスの城塞の近くでオリノスへと注ぐ。

全ブルガリアの都であるオクリダには、ブルガリア王の宮殿があり、その宝が収められていた。皇帝は宝物のある場所を開け、多くの金と真珠をちりばめた冠、金の縫い取りのある礼服、そして100ケンテナリアの金貨を見つけた。金貨は軍に褒賞として配られている。

皇帝はオクリダの統治官にパトリキオスのエウスタティオス・ダフノメレスを任命し、十分に守備兵を与えた。その後、皇帝は連れてこられたイヴァン・ヴラディスラフの妻を野営地で出迎えている。(彼女の)三人の息子と六人の娘、サムイルの庶子、サムイルの息子ラドミルの二人の娘、そしてラドミルの五人の息子、ラドミルの妻、彼の義理の兄弟であるヴラディミルも一緒であった。ラドミルの五人の息子のうち長男は、イヴァンがラドミルを殺した際に盲目にされていた。

マリアはイヴァンとの間に他に三人の息子を産んだが、彼らはケラウニア山脈の最高峰 トモロス山へ逃げた。皇帝はマリアに物腰柔らかに優しく接し、(逃亡した)他の息子たちを捕らえるように言い渡す。

その後、他のブルガリアの有力者たちも皇帝の下へ参じた。ネストリツェス、ラザリツェス、そして小ドブロメロスらがそれぞれ自らの部隊を率いて来たのである。彼らは懇ろに迎えられ、帝国の栄典を授けられた。

その後、トモロス山へ逃れたヴラディスラフの息子 プレシアンとその二人の兄弟 アルシアンとアーロンは、長い包囲に耐えていた。皇帝が山に通じる道を取り締まるように兵士たちに命じたためである。プレシアンらは皇帝と連絡を取り、身の安全の保証を求め、自分たちの身柄を委ねると伝えた。 皇帝も彼らに慈悲深い返答をする。

それから皇帝はオクリダを発ち、ブルガリア人たちがプレスパと呼ぶ湖に赴いた。そして山を横切り、山腹に城塞を築いてバシリスと名付け、今ひとつプレスパ湖の高台に小さなものを築いてコンスタンティオスと名付けている。

プレスパを去ると皇帝はディアボリスという所に至り、高い壇を築いた。到着したプレシアンとその兄弟を迎え入れるためである。皇帝は寛大で慈悲深い言葉で彼らを落ち着かせ、プレシアンをマギストロスに、他の兄弟をパトリキオスにしている。

イヴァツも連れてこられ、目を潰された。彼が目を潰された経緯については、述べておくべきであろう。面白味のある驚くべき話だからである。

42.
イヴァン・ヴラディスラフの死後、その妻マリアとそのこどもたち、プレシアン、アルシアン、トロヤン、そしてラドミルやクリメントが服属してきた。そして、ブルガリア中の有力者もこれに追従する。イヴァツは足を踏み入れがたいブロコトスという名の山へ逃亡した。そこには、ずいぶんと美しい庭や庭園のあるプロニスタという麗しい宮殿が建っている。

イヴァツには神の御意志に従おうという思いはなかったから、周囲の地方をそそのかして徐々に軍勢を集め、ブルガリアの王位を奪い取る夢を抱いて反乱を引き起こした。

この件は非常に皇帝を悩ませた。そのため皇帝は直接、目的地へ向かうのではなく、南に進路を取り、上述のようにディアボリスへ来たのである。

できる限り何らかの方策を講じるか、武力で圧倒するか――いずれにせよ、成り上がり者に矛を収めさせるというのが皇帝の目的であった。

皇帝はディアポリスでの滞在を楽しむ一方、イヴァツに書状を送り、

―今やブルガリアは征服された。あなたはひとりぼっちで皇帝に反旗を翻すべきではない。得難いものを夢見るべきではなく、それはあなたがよく知っているように、結局何の利益にもならないことだ―

と断言し(反乱の放棄を)促す。

イヴァツは書状を受け取ると、同じく書状を返してあらゆる面での情状酌量を訴え、答えを引き延ばしに延ばした。その結果、イヴァツの約束にごまかされた皇帝は55日間もディアボリスに留まることを余儀なくされる。

ここで重要なことは、オクリダの統治官 エウスタティオス・ダフノメレスが、イヴァツを何とかしたいという皇帝の思いを知っていたということである。そのためにダフノメレスは好機が訪れると、二人の信の置ける従者を連れて、心の内を明かし、任務に取りかかったのである。

イヴァツは、公の祝い事である至聖なる神の御母の生神女就寝祭の祝祭を開催した。

その日、宴には親しい人や近隣の人だけでなく、遠方の多くの人々も招かれたが、それはイヴァツの習慣とするところであった。

エウスタティオスはいそいそと祝祭に客として押しかける。そしてイヴァツは途中で出会った警護の者に押しかけてきた客が誰であるのか知らせるように命じると、統治官(エウスタティオス)と飲み食いした。

イヴァツは彼が誰であるのか知らされて唖然とする。敵が自らの意志でその身を敵の手の内に置いていることに驚愕したのである。

しかしイヴァツは、

「その男はこちらへ来るが良かろう。」

と言い、エウスタティオスがやってくると、あたたかく迎えてうれしそうに抱擁した。

朝の礼拝が終わり、客が皆、何か所かの自分たちの宿へと散らばっていくと、エウスタティオスはイヴァツに近づき、しばらく人払いをしてくれるように頼む。まるで内密にイヴァツと話したい重要で有益な話でもあるかのようであった。

イヴァツは悪巧みや偽りであるとは少しも疑わず、むしろエウスタティオスが自分の反乱の支持者になることを望んでいるものと思い、従者たちにしばらく下がっているように言った。

イヴァツは深い茂みの庭に手を取って客を案内する。木々に覆われた音の漏れない奥まった所である。

そこにはエウスタティオスとイヴァツがいるだけとなる。その時、エウスタティオスは突然、イヴァツを地面に投げ飛ばし、彼が強い男だったためその胸に膝蹴りを喰らわせて窒息させる。エウスタティオスは二人の従者を呼んで急いで助勢に来させようとした。

(エウスタティオスの)従者たちは、計画通りに近くに待機し、様子を窺っていた。従者らは主人の声を聞いてすぐに駆けつける。イヴァツは掴まれ、チュニックを含まされて口をふさがれ声を上げられないようにされた。結局、大勢の者が(その場に)集まってきたため、(エウスタティオスの)任務は妨げられる。

その後、エウスタティオスらはイヴァツの目を潰し、盲目となった彼を庭園から中庭へと連れ出す。そして、彼らは高い楼閣の上の階に駆け上り、剣を抜いて、追って来るだろう者たちを待ち受けた。

これが知れ渡ると大勢の人が集まって来る。ある者は剣を、ある者は槍を、ある者は弓をとり、またある者は石を、ある者は棍棒を、そしてある者は松明を手にし、他にも薪を携えた者がいた。

彼らは皆、大声で叫んだ。

「やつらを殺せ! 火あぶりにしろ! 石をおっかぶせて埋めてしまえ! こんな刺客、人殺しに慈悲はいらない!」

と。

エウスタティオスは、彼らの猛襲を見て死を覚悟する。それでも自分についてきた者たちに雄々しくあるように、くじけないように呼びかける。降伏せず、エウスタティオスらの破滅を願う者たちの手に落ちることもなく、救出を信じて、(最悪の場合)ただ悲惨で痛ましい死を受け入れるだけであると。

エウスタティオスは窓から身を乗り出し、手をかざして人々を静まらせ、次のように言った。

「ここに集っているあなた方にはすっかりお分かりだろう。私とあなた方の指導者の間には個人的な恨みはない。彼はブルガリア人で私はローマ人なのだから。しかも私はトラキアやマケドニアに住むローマ人ではなく、小アジアのローマ人だ。その地がどれほど遠いかお分かり頂けるだろう。

そして、より賢明な方々は、私が今のこのような任務を軽々しく、いい加減に引き受けたのではないとお気付きだろう。ともかく私にはそうする理由があったのだ。この任務に就かざるを得ない(恨み以外の)他の理由がなければ、私はこんなに明らかに危険なことに、狂ったようにこの身を晒して命を軽んじたりはしなかっただろう。

あなたがたもお分かりのはずだ。私がしたことは、皇帝の命令だと。皇帝に従って、皇帝の道具としてこんなことをしたのだと。

もしあなた方が私を殺したいというのなら、私はここだ。そしてあなた方に包囲されている。だが私を殺すのはたやすいことではないぞ。私は武器を置いたり、降伏したりはしない。あなた方の思い通りにはならない。それよりむしろ私は仲間たちとこの身を守るために戦い、攻撃してくる者を追い払うだろう。

そして多くの手勢に襲われる者に待ち受ける定めとして我々が死ぬならば、我々の死は幸福な、神に祝福された最期となるだろう。我々には仇を討ってくださる方、我々の血の代償を支払わせる方がおいでだ。

あなた方がどれほどの間、その方に抗うことができるか、少し自分自身に問うてみて欲しい。」

と。

集まっていた者たちはそうした言葉を聞いて、皇帝への恐怖に襲われる。

群衆は散らばり、あちらこちらへと去っていった。年長の聡明な者たちは、皇帝を讃えてその臣下となる。

エウスタティオスは焦ることなくイヴァツを皇帝の下へと移送した。皇帝はエウスタティオスの試みを認めて、それに報いる形で直ちにデュラキオンの長官に任じ、イヴァツの動産を全て与える。皇帝はイヴァツを牢へ送った。

43.
ニコリツァスはたびたび捕まり、何度も逃げ、山へと潜伏した。軍がニコリツァスに差し向けられた時、その支持者の一部は彼の同意の下、鞍替えし、他の者たちは捕虜となる。今やニコリツァスは自らの自由な意志で皇帝の陣へ赴き、その手で門を叩いて名前を告げた。そして自分の意志で自らの身柄を皇帝に委ねる。ところが皇帝はニコリツァスに会うのを拒み、それよりも彼を収監するように命じてテッサロニケに送った。

それから皇帝はデュラキオンやコロネイア、さらにドリュイヌポリスに良く時宜にかなった備えをする。テマ・デュラキオンには守備兵を置き、長官を任命した。その地には、多くのローマ人とアルメニア人兵士がいたが、彼らはサムイルによって捕虜にされてペラゴニアやプレスパ、さらにオクリダに留め置かれていた者たちであった。そのため皇帝は彼らの内、その地に残りたいと思っているローマ人捕虜は残して、残りの者を皇帝に付き従わせた。中でも最も優れた者はバシレイオス・アポカプスの息子のグレゴリオスと(※原文欠損)

皇帝はカストリアへ至ったが、そこへサムイルの二人の娘たちが連れて来られた。彼女たちは皇帝のそばに立っていたイヴァンの妻 マリアを見て殺意を覚え始める。皇帝は彼女たちに富を約束して何とかその怒りを和らげることに成功する。マリアには、ゾステ・パトリキアの爵位を授与し、彼女とその息子たち、そして最年少のサムイルの庶子を含めた彼女の全ての親族を帝都へ送る。

クシフィアスの差配によってセルビアとソスコスの城塞は全て更地に戻された。その後、皇帝はスタゴイの城へ赴く。ベオグラードの統治官 エレマゴスは奴隷の恰好をして仲間の統治官らとスタゴイを訪れた。ベオグラードの城は近寄りがたく、全く難攻不落で崖に囲まれており、南はアソンと言う名の川が流れている。城塞への入口は一つだけである。ラコヴァ公も皇帝の下へとやって来た。

皇帝はそこを離れてアテネへ向かうが、ゼトニオンを越えた際、ブルガリア人たちの骸骨を見た。それは、マギストロスのニケフォロス・ウラノスがサムイルを破った時に戦死した者たちのものである。皇帝はその光景に驚いた。さらに、近年、スケロスの名で知られているテルモピュライの岩壁を見て一層驚く。

アテネまで来ると、皇帝は勝利を感謝して神の御母に奉献を行い、その教会を豪華にそして壮麗に装飾し、それから、コンスタンティノープルへと戻った。

二名の統治官およびパトリキオスのエリナゴスとガブラスがブルガリアの復権を目指して陰謀を企んだが、これがテッサロニケで露見する。ガブラスは既に故郷へ逃亡していたが、捕らえられて目を潰された。しかし、エリナゴスは拷問にかけられたが全てを否定したので、以前の地位に戻されている。

皇帝はコンスタンティノープルへの凱旋の際、ヴラディスラフの妻 マリアやサムイルの娘たち、残りのブルガリア人やブルガリアの大主教に先立って、黄金門の大きな扉から入城し、紋章付きの黄金の冠を戴き、凱旋式を行った。創世紀元6527年、第2インディクティオの年(1018年)のことである。こうして皇帝は喜々として意気揚々とハギア・ソフィアに入り、そこで神への感謝を示す賛美歌を歌ってから宮殿へと向かった。

凱旋式の後、ハギア・ソフィアに入ると、総主教のセルギオスがアレレンギュオン制を止めるよう皇帝に強く促した。皇帝はブルガリアを制した暁には、その制度を中止すると約束していたのである。けれども、皇帝はアレレンギュオン制を撤回しなかった。

創世紀元6527年、第2インディクティオの年の7月(1019年7月)、丸二十年、教会の指導者を務めたセルギオスは神に召された。宮殿の首司祭であったエウスタティオスが総主教の位に進んでいる。

皇帝はブルガリアの大主教が、以前、大ロマンの下にあった時のように独立した存在であることを再度、確認した。皇帝はユスティニアヌス大帝の大典によって、オクリダの街は大帝が父祖の地としたユスティニアナ・プリマの街であることを断定した。そのために(ブルガリアの大主教を以前の通り独立した存在とする)この確認を行ったのである。そしてその地の主教にカステリオンを任命したのであった。

44.
ひとたびブルガリアが皇帝に服属すると、近隣のコルバトイの民も皇帝の下へとやって来る。彼らの支配者は二人の兄弟であった。二人は皇帝の下へと参じた際に高い地位を与えられ、その民は皇帝の臣民となる。

シルミオンの指導者だけは、服属を拒否した。彼はシルミオンのネストンゴスの兄弟であった。そこで、その地域の統治官であったコンスタンティノス・ディオゲネスは和親を装って使者を遣わし、

「いくつか重要な問題について話したいので、実際に会って、誓約を交わしましょう。

もし不安がお有りなら、川の真ん中で会うことにして、その際、私は3名の部下だけを連れていくので、あなたも同じように3名の供をお連れください。」

と言わせた。

ディオゲネスは、シルミオンの指導者が川へやって来て自分と会うのを確信していた。彼は懐にナイフを忍ばせていた。会談が始まった時、彼は突然、武器を取り出して傍らにいたシルミオンの指導者を刺し殺す。

シルミオンの指導者の軍は踵を返して逃走した。一方、ディオゲネスは麾下の軍勢を集め、かなりの数でシルミオンへ進撃する。

これは亡くなった指導者の妻を恐怖させ、混乱させた。しかしディオゲネスは大層な約束をして彼女を落ち着かせる。ディオゲネスは彼女に、自分を迎え入れてシルミオンを皇帝に明け渡し、降伏するよう説得したのであった。彼女はビュザンティオンへ送られて帝都の要人の一人と結婚させられている。ディオゲネスの方は、新たに征服した土地の統治官に任命されたのであった。

45.
皇帝はコンスタンティノープル市民に豊富に水を供給するために、ウァレンティニアヌス1世(時代のウァレンス)の水道橋を修復した。

アバスギアを統治するギオルギがローマとの約定を破って国境地帯に侵入すると、皇帝は全軍で遠征を行う。後方にはパトリキオスのニケフォロス・クシフィアスとバルダス・フォーカスの息子であるニケフォロスを残した。

彼らは遠征から外されたことに不満の声をあげ、ロダントスのカッパドキアや周辺地域の兵を集められるだけ集めて反乱を起こす。このことが皇帝に報告されると、不安と苦悩が陣営内を襲った。アバスギアと反乱軍に挟撃されることを恐れたためである。クシフィアスの支持者がそういった効果的な作戦をアバスギアの支配者に伝えたという噂が広まっていたのであった。皇帝軍は最悪の運命に見舞われるかもしれなかった。

皇帝は書状をしたため、クシフィアスとフォーカスの双方へ送る。その際、使者には書状を受け取る者に、もう一方にも書状を出したことを気取られないように、細心の注意を払うよう命じた。使者は命令を果たした。使者が別々に書状を届けた時、フォーカスはすぐにそれをクシフィアスに読ませたが、クシフィアスは自分の(受け取った)書状を隠し、書状を受け取っていたことを否定する。

そしてクシフィアスは相談を持ちかけてフォーカスを招いたが、やって来たフォーカスは、男たちに殺されてしまう。男たちはまさにそのために待ち伏せていたのである。反乱軍の連合はすぐに崩壊した。

皇帝はフォーカスの死を知ると、ダミアノス・ダラセノスの息子 テオフュラクトスを派遣する。テオフュラクトスはクシフィアスを捕らえて鎖で拘束し、帝都にいるプロトノタリオス(テマ財務官)のヨハネスの下へ移送した。ヨハネスは、クシフィアスをアンティゴノス島で剃髪させている。

ひとたび反乱軍への懸念から解放されると皇帝はアバスギア人に攻撃を仕掛けた。多くのローマ人が戦死したが、両軍は撤退し、勝負はつかなかった。

そして、創世紀元6531年、第6インディクティオの年(1022年)の9月11日、二度目の戦いが起こる。リパリテスはアバスギアの全ての指導者たちと共に戦死する。リパリテスはギオルギの総司令官であった。ギオルギはイベリア内陸の山へと逃亡したが、皇帝に和平の使節を送ってきた。そして領土を放棄して皇帝を喜ばせ、自身の息子であるパンクラティオス(バグラト)を人質に出している。

皇帝はギオルギをマギストロスの爵位へと進め、帰還した。クシフィアスとフォーカスの反乱に加わった他の者たちは資産を没収されて投獄される。例外的にパトリキオスのフェルセスは処刑された。彼が最初に反乱軍に加わったからである。

皇帝は(反乱の起こった地方の)近隣の四人の統治官たちの副官を殺し、手ずから帝室の宦官の一人の首を刎ねた。さらにクシフィアスのために皇帝を毒殺しようとした帝室の侍従はライオンに与えられている。

46.
皇帝の妹 アンナはロシアにおいて夫のウラジーミルに先立って薨去した。

その後、ウラジーミルの親族であるクリュソケイルなる男が、800人の仲間を連れてコンスタンティノープルへとやって来た。表向きは傭兵となることを装っていた。皇帝は彼に武器を置くよう命じ、その後で彼を受け入れるつもりであったが、ルーシ人たちにそのつもりはなく、プロポンティスを抜けて航行した。

クリュソケイルはアビュドスに至ると、海岸警備を任としていた長官に戦いを挑んで簡単に打ち破ってしまう。彼はレムノスへと進んだが、そこで和平の申し出によって欺かれ、テマ・キビュライオタイの海軍、サモスの長官、オクリダのダヴィド、そしてテッサロニケのドゥクス ニケフォロス・カヴァシラスによって全員殺されたのであった。

47.
シケリア(シチリア)への遠征は、皇帝の悲願であった。そこで皇帝は最も信頼する宦官の一人であるオレステスに大軍をつけて前線へ送ろうとした。しかし、彼は運命のいたずらによって出発できなかった。創世紀元6534年、第9インディクティオの年(1025年)の12月、オレステスは突然、病に倒れ、亡くなったのである。そして、その数日前、総主教のエウスタティオスも亡くなってしまった。

エウスタティオスは、十二大祭の一つである大祭の儀式を執り行っている時に、歳のせいや病のせいもあって、聖なる賜物がいつもよりゆっくりと入ってきたところから、祈りが終わるまでの間、立ったままでいることができなかったという。総主教はいつも休むのに使っている玉座を持ってこさせ、そこに座って聖なる賜物の入場を待った。

座っている間、彼は寝入ってしまい恐ろしい光景を目にした。それは夢ではなく、現実の光景である。彼は司祭の服をまとった野獣を見た。野獣たちは体は人間であったが、頭は獣の形をしている。その間、助祭は聖なる賜物の存在を総主教に警告していたが、総主教はその敬意を払うべき光景を見逃したために、厳しい叱責を受けて心痛を得ることになる。

エウスタティオスは、恐ろしい姿をした11人の司祭たちが聖なる賜物の後に続いてやって来たが、その者たちの入場は助祭の警告によって遮られたと主張した。

獣たちは、ロバ、ライオン、ヒョウ、そして我々が猫と呼んでいるイエネコ、オオカミ、クマ、さらに同じような獣たちであったと、彼は言ったのであった。

(その話は)そういったところである。

皇帝はストゥディオス修道院のヘグメノスの地位にあった修道士 アレクシオスをエウスタティオスの後任の総主教に任命した。彼は(聖遺物である)洗礼者ヨハネの首を持って皇帝を訪ねる。皇帝はアレクシオスを総主教の座に就けるのに、プロトノタリオスのヨハネスを付き添わせた。ヨハネスは公務における側近として雇われていたのである。

その晩、皇帝は崩御した。70歳であった。皇帝は50年の間、全てを統治した(実際には976年、満18歳の時に皇帝となり、49年の治世を経て、1025年に満67歳で崩御している)。皇帝は帝位継承者としていた弟(コンスタンティノス)に、ヘブドモンに隣接する神学者である福音史家ヨハネの教会に自分を埋葬するように頼んでおり、(コンスタンティノスは)その通りにしている。