スキュリツェス年代記(『歴史概観』)
コンスタンティノス7世ポルフュロゲネトス
少年期

【コンスタンティノス7世ポルフュロゲネトス少年期 913-920】

1.
アレクサンドロスは既に述べたような状態で崩御し、レオン6世の息子で当時7歳であったコンスタンティノスに帝権が渡る。しかしその帝権は、上述の摂政(総主教ニコラオス、マギストロスの爵位にあるステファノス、同じくマギストロスのヨハネス・エラダス、ライクトール〈元老院議長〉のヨハネス、バジリツェス、ガブリエロプロス)によって行使された。総主教ニコラオスが摂政の一人として権力を握り、他の摂政と国事を取り仕切る。

2.
そのように政府と帝国は摂政によって統治されていた。しかし、既に述べた通り、アンドロニコスの息子でドメスティコス・トーン・スコローン(スコライ軍団長官。帝国陸軍総司令官)のコンスタンティノス・ドゥーカスは、非常に強い権力を帯びており、帝都の友人や親族から手紙で

―帝国には頭がありません。国政の運営はまずいもので、深刻な危難に陥る重大な局面を迎えています―

と唆される。手紙はドゥーカスが賢明で勇気ある者、栄光あるローマ帝国を良く統治できるただ一人の者であるので、帰還して欲しい旨、要請するものであった。そして、元老院と帝都の市民がドゥーカスを支持しているので、できる限り急いで来るようにと付け加えてあった。総主教ニコラオスはそうした手紙に気付いており、また賛意を示していたと言われている。

なぜこんなことになったかと言えば、アレクサンドロスの遺言がまだ公開されておらず、その中でニコラオスを幼帝の摂政に指名していることを(ニコラオス自身も)知らなかったからである。

アルタバスドスはその能力によって職に就き、後には大教会(ハギア・ソフィア)の聖職者の首席となった。彼は有名な肖像画家アンドレアスの父である。

今やコンスタンティノス(・ドゥーカス)は皇帝たることを夢見ており、常にその方向を目指していた。その他の志を持っていなかったのである。受け取った手紙に容易に説得され、ドゥーカスはすぐに選り抜きの大軍と共に帝都へ到着した。深夜、彼はアクロポリスのそばにあるプロトベスティアリオス・ミカエルのくぐり門を抜けて都へ入る。そしてドゥーカスは義父でありマギストロスの爵位にあるグレゴリオス・イベリツェスの家に赴き、そこで共にある者たちと夜を過ごした。

アセクレティス(尚書官)のニケタスはコンスタンティノスの到着に気付くとすぐに、パトリキオスの爵位を持つコンスタンティノス・エラディコスに助言し、彼を連れてドゥーカスのそばに留まらせる。エラディコスは偶然にも修道士であった。議論が起こる。その後、夜が明ける前に彼らは松明を持ち、多くの兵士たちや群衆と共にヒッポドロームの入口へと赴き、コンスタンティノス(・ドゥーカス)を皇帝であると宣言する。しかし、ヒッポドローム(大競馬場)の内にある市民は激しく抵抗して門を開けなかった。

コンスタンティノスの騎兵隊長は己の勇猛さを恃んでおり、開門を引き受けて力強く攻撃する。その実、攻撃は乱暴なものだった。しかし、彼は何者かによって両側の門扉の隙間から槍で貫かれてしまう。彼は即死したが、コンスタンティノス(・ドゥーカス)は後退しているにも関わらず、皇帝になりたいという野望に酔いしれており、もはや明敏な思考を持ち合わせてはいなかった。ドゥーカスは馬にまたがりヒッポドローム目指して進む。騎兵隊長の死は、ドゥーカスにとっての凶兆かもしれなかった。しかしそれも彼の明白な意志を曲げることはできなかったのである。ドゥーカスはヒッポドロームからの途上で喝采を受け、カルケ門と呼ばれるところまで至り、そこを抜けてエクスクビテス軍団(中央軍の軍団の一つ)の兵舎にやって来た。

摂政の一人でマギストロスのヨハネス・エラダスは、この状況下でヘタイレイア軍団(皇帝の護衛軍)と帝国艦隊の漕ぎ手から最良の者たちを選ぶ。そしてそれぞれに手にできるものを何でも持たせてドゥーカスに差し向けた。彼らはドゥーカスの分隊に接近して交戦する。双方に大虐殺が起こった。ドゥーカスの息子のグレゴリオスも、甥のミカエルも同じく戦死する。そしてコンスタンティノス(・ドゥーカス)を大いに悩ませたアルメニア人のクルティキオスも同じであった。

ドゥーカスは自軍を鼓舞し、力づけようとして前方へ急いだ。そのため最前線に出ようと駆り立てた馬が敷石で脚を滑らせる。乗り手は地面に投げ出された。他の者たちがみな散らばってしまったため、ドゥーカスは一人でそこに横たわっていたが、何者かが剣で彼の首を掻き切り、それを携えて皇帝コンスタンティノス7世の下へと馳せ参じる。

ドゥーカスがこうした運命に見舞われるだろうことは摂政らには既に分かっていた。これは全く違った理由のためである。

カルディアに徴税官を務める、とあるニコラオスという者があったが、彼は収入をいくらか費やしても借金を返済するには金が足りなかった。彼はシリアへ逃亡し、我らの神聖なる教えを棄てて、代わりに占星術を始める。ニコラオスは黒い板に伝言を書いてロゴテテース(国務長官)のトマスに送った。板を洗うと文字が現れる。

「その派手な鳥 ドゥーカスを恐れてはならない。彼は軽々しく反旗を翻すが、すぐに除かれるだろう。」

とあった。

こうして反乱が終わると、コンスタンティノス(・ドゥーカス)の義父であるマギストロスのグレゴリオスは、パトリキオスのレオン・コイロスファクテスと共にすぐに神の叡智の教会(ハギア・ソフィア)へと逃げ込んだ。摂政らは彼らをそこから引きずり出してストゥディオス修道院で剃髪させ、修道士としている。パトリキオスのエラディコスは雄牛の腱で容赦なく鞭打たれ都の中心部を引き回されてダルマトス修道院に幽閉された。

パトリキオスのレオン・カタカリツェスとアロトラスの息子アベッサロンは盲目にされて追放される。首都長官フィロテオスはヒッポドロームの折り返し地点でエウランピオスの息子コンスタンティノスと他の者たちの首を共に刎ねた。アセクレティスのニケタスとコンスタンティノス・リプスは懸命な捜索にも関わらず見つけることはできなかった。勇敢さで有名だったパトリキオスのアイギデスと、その他のお世辞にも有能とは言えない指揮官たちは、クリュソポリスの雌牛の像からレウカティオンと呼ばれる地に至るまでの道中で串刺しにされる。

もし裁判官の一部が果敢に意見を述べ、先述の摂政らの不当な処置を抑えなかったら、他にも多くの元老院議員が理由もなく、情け容赦もなく破滅していただろう。(裁判官らは)言った。

「我らが皇帝はこどもで、何が起こったかをご存知ありません。あなたがたは、陛下の指示もないのにあえてそのような事をするのですか?」

と。

摂政らはドゥーカスの妻を剃髪させ、パフラゴニアにある彼女の所領へと追いやり、その息子ステファノスを去勢している。

3.
こういったことが都で起こっていた間、ブルガリアの支配者シメオンは大軍でローマ領へ侵攻して、帝都に迫り、ブラケルナイと黄金門の間に線状に塹壕を掘った。都をすぐにでもたやすく手に入れてやろうというシメオンの望みは高まった。けれども大勢が手に手に投石器や投矢器を持って守る城壁がいかに頑強なものであるかシメオンは気付く。彼は望みを捨て、ヘブドモンへと退くと和平条約締結を要請してきた。

摂政らはシメオンの要請を好意的に受け取る。すぐにシメオンは和平交渉のため、麾下のマギストロス テオドルを派遣する。テオドルの来訪の際には長い議論があり、総主教と摂政らは、皇帝と共にブラケルナイ宮殿へやって来た。

人質にふさわしい者たちが連れて来られると、シメオンは宮殿へ招き入れられ、皇帝との晩餐に臨む。シメオンは祈っている総主教の前で跪いた。そして、(総主教は)そのバルバロイの頭に冠の代わりに(すり替えた)修道士のカウルを戴せたという。和平条約は結ばれていなかったが、食事の後、シメオンとその子らは自国へ戻った。彼らは進物に満足する。問題はこういう経緯をたどったのであった。

4.
皇帝の母(ゾエ)はアレクサンドロスによって宮殿を追われていた。皇帝コンスタンティノス7世は母を求め、絶えず不満をこぼす。そのため、摂政らは、自分たちの妥当な判断を曲げて皇帝の母を連れ戻した。

ひとたび戻ると彼女は政府の実権を握り、パラコイモメノス(寝室管理長官)のコンスタンティノスやアナスタシオスとコンスタンティノスのゴンギュリオス兄弟両名と協定を結び、自身の協力者とした。ヨハネス・エラダスの助言によってアレクサンドロスに近しい者たちは罷免された。ライクトールのヨハネスやガブリエロプロス、バシリツェス、その他の者たちがそれである。

アウグスタ ゾエはドミニコスをヘタイレイア軍団の長官に任命した。彼はやり手であり、ゾエの言いなりであった。総主教を宮殿から追い出したのは、ドミニコスの助言によるものである。

マギストロスのヨハネス・エルダスは協定から去った。病死したためである。

今やパラコイモメノスのコンスタンティノスは己の手に政府の全権を集中させることを望むようになった。反対する者は誰もいない。そこで彼はアウグスタにヘタイレイア軍団の長官を讒言する。

「彼は兄弟のために帝位を掠め取ろうとしている。」

と言ったのである。

アウグスタはパラコイモメノス(の言葉)に納得し、パトリキオスの爵位をドミニコスに授与し、その後、彼が通例となっている祝福の言葉を受けにやって来た場で、蟄居を命じた。

ドミニコスの代わりとしてヨハネス・ガリダスがヘタイレイア軍団の長官に任命された。そして新参者の宦官ダミアノスはドゥルンガリオス・テース・ビグラス(ビグラ軍団長官。帝国中央軍の一軍団ビグラ軍団の長官)となった。

5.
アウグスタはシメオンの侵入を食い止める方策について高官に諮問する。シメオンはトラキア地方を荒らし回り、略奪を働いていたのである。ヨハネス・ボガスは

「もし、パトリキオスの爵位を頂けるならペチェネグ族を侵入者に差し向けましょう。」

と言った。

彼は望んだものを得ると贈り物を携えてペチェネグ族の下へ赴く。約定を結んで人質を取り、都に戻った。ペチェネグ族はドナウ川を渡ってブルガリアと戦うことに同意したのである。

その頃、「支配者の中の支配者」の息子でかの有名な(アルメニアの)アショット2世が臣従先を変えてきた。彼は鉄棒を両手に持ってその手の力で曲げてねじることができたという。彼の手の力は鉄の力に勝っていたのである。女皇は彼を手厚くもてなした。けれど結局は彼の帰国を手配している。

6.
長引くアドリアノープルの包囲は何ももたらさなかった。その後、アルメニアの種族のパンクラトゥカスがその街の防衛を任される。彼は金で篭絡されシメオンの手に街を渡した。しかし、程なくしてパトリキオスの爵位を持つ首席書記官のバシレイオスとニケタス・ヘラディコスがアウグスタにより派遣されて、黄金と多くの進物でその街をまた買い戻すことに成功した。

7.
その年、テュロスのアミール ダミアノスは多くの軍艦と大軍を引き連れてローマの支配地へ攻撃を仕掛ける。彼はストロベロスに到達し、激しい包囲攻撃を行った。もし彼が病死しなかったら、その街を奪っていただろう。すぐにサラセン人は得るところなく引き上げた。

8.
皇太后ゾエは打ち続くシメオンの猛襲に目をつぶることはできなかった。シメオンの侵攻に片を付けることを望んだのである。ゾエと元老院は共に、サラセン人と約定を結んで東方の全軍を西方へ移すことで事態は有利に運ぶだろうし、その上で東西の軍を合わせてブルガリア人と戦えば、彼らは全滅するだろうとの結論に達した。この計画は承認される。パトリキオスのラデノスとミカエル・トクサラスがシリアに派遣され、サラセン人と合意するに至った。この成果に胸を撫でおろした皇太后は、常例の俸給を軍に配分するよう命じる。

彼女は軍を、当時ドメスティコス・トーン・スコローンであったマギストロスのレオン・フォーカスに預け、ブルガリア人を討つよう命じた。テマの全軍と中央軍はディアバシスで合流した。ディアバシスの平原は広く、軍を集結させるのに適していたのである。宮殿の首司祭は聖遺物である聖十字架と共に送り出された。皆それを崇めずにはいられず、互いのために死ぬことを誓った。誓い終わると、全軍はブルガリア人に反撃すべく出撃する。

ヨハネス・グラプソンは、中央軍のエクスクビテス軍団を指揮した。好戦的な人物であり、戦闘ではよくその勇敢さで名を馳せていた。オルビアノス・マルレスは熟練の戦士でありヒカナトイ軍団を率いる。アルギュロスの息子ロマノスとレオン、さらにバルダス・フォーカスがその他の部隊を率いた。マギストロスのメリアス率いるアルメニア人とそのほか多くのテマの司令官が行動を共にしていた。パトリキオスのコンスタンティノス・リプスもこれに同道する。恐らくドメスティコス・トーン・スコローンのレオンの参謀だっただろう。

第5インディクティオの年の8月6日(917年8月)、ローマ人とブルガリア人はアケルスの要塞付近で交戦した。ブルガリア人はすっかり逃げ出し、多くが討ち取られる。

ドメスティコス(・トーン・スコローン)は大汗をかき、めまいがしていたので、馬を降りて小川で汗を洗い流し、元気を取り戻した。ところが彼の馬は手綱から自由になり、乗り手もいないままに戦列を突き抜けて暴走する。この馬は有名だった。そのため兵士らはそれを見てドメスティコスが戦死したものと思い込む。彼らは恐慌状態となった。戦意を喪失し追撃を止め、事実、一部の者たちは引き返したのである。

シメオンはとある高台からこれを見ていた。彼の後退は無秩序なものではなかったのである。直ちにシメオンはブルガリア人をローマ人に差し向けた。ローマ人の士気はすでに述べたように砕けている。ローマ人はブルガリア人の突然の襲来に驚愕した。全軍が逃げだす。凄惨な逃走となった。あるいは僚友の足に踏みつぶされ、あるいは敵に討たれる。ドメスティコスのレオンはメセンブリアへ逃げて無事だった。

戦死した一般兵だけでなく、部隊を預かる多くの司令官や高官も最期を迎える。コンスタンティノス・リプスは討たれ、エクスクビテス軍団の司令官でマギストロスのヨハネス・グラプソンも同様であった。

9.
政府はパトリキオスで当時ドゥルンガリオス・トゥー・プロイムー(中央艦隊長官)であったロマノス・レカペノスを派遣する。そして海岸線を航行してレオンを救援し、ボガスがローマの同盟者としたペチェネグを渡航させるよう命令を出した。

ところがロマノスとボガスから異議が唱えられる。ペチェネグはローマとブルガリアが互いに争うのを見て自国に戻ってしまったので、彼らからの救援を受けられなくなり意味を無くしたというのである。

他の者によれば、ローマの瓦解はそうではなく別の理由によって起こったという。

フォーカスがシメオンを敗走させ、そのあとを追っていた時、突然フォーカスの耳にドゥルンガリオス(のロマノス)が帝位簒奪を図って全艦隊でその場から離れたという報告が入った。フォーカスはこの報告に驚愕する。彼もまた帝位を得る機会を窺っていたからであった。フォーカスは追撃を止め、帰陣する。何が起こっているか知るためだっただろう。ドメスティコス(・トーン・スコローンのフォーカス)が逃走した軍中では様々な噂が飛び交い、(シメオンに)追撃をかけていた他の者たちは意気消沈して、同じように陣へと戻った。シメオンは戦闘の状況が良く見える場所にいたが、ローマ軍が逃げているのを見ると、全軍を戦いに投入し、後退していた者たちを反転させたという。

これが(敗戦の理由を説明する)もう一つの話である。

どちらかが本当の話だが、ローマ人は敗れ、結果は上述の通りとなった。

敗北の後、戦闘で生き残った人々が帰還したところで、ロマノスとボガスについての件で調査が行われる。

状況はドゥルンガリオスに不利に見えた。裁判官らは有罪の判決を下し、彼の両目をくりぬくべきだと非難する。ドゥルンガリオスが怠慢あるいは悪意を持ってペチェネグを渡航させず、また敗れて帰還する者たちを迎えにいかなかったというのである。

摂政の一人でマギストロスのステファノスと女皇に対して大きな影響力を持つパトリキオスのコンスタンティノス・ゴンギュレスがドゥルンガリオスの代弁者として介入していなければ、彼はそういう処罰に大いに苦しんだであろう。

勝利に得意になり尊大な様子でシメオンは全軍を率いて帝都に迫った。

ドメスティコス(・トーン・スコローン)のレオン・フォーカスとコンスタンティノス・ドゥーカスの息子でヘタイレイア軍団の長官 ニコラオスは、シメオンになんとか対抗できるできるだけの軍と共に再度、出撃しなければならなかった。彼らはカタシュルタイという場所で糧秣調達のために派遣されていたブルガリア人と遭遇し、衝突して容易く敗走させる。別の分遣隊がほぼすぐにローマ軍に襲い掛かったが、彼らはその攻撃に容易くそして勇敢に良く耐えた。続いて激しく長い戦いが起こり、ブルガリア人は敗れる。しかし、ドゥーカスの息子のニコラオスは雄々しく戦って討ち取られた。ローマ人の勝利は彼のおかげである。

それが戦の結末であった。

10.
都では物事がうまく運んでいなかった。権勢ある多くの人々は常軌を逸しており、支配者の地位を掠め取る意欲に燃えていた。主犯はフォーカスである。彼はパラコイモメノス コンスタンティノスの義理の兄弟であった。コンスタンティノスの姉妹と結婚していたのである。コンスタンティノスは最も権力のある宦官の一人であり、当時、宮廷を牛耳っていた。レオン・フォーカスは彼に絶大な信頼を置いており、そのために帝位簒奪は容易だと考えていた。そのため、フォーカスは広く吹聴する。秘密裏に帝位簒奪を話すのではなく、至って公然と話したのである。まるで、帝位が(自分の)一族の遺産であり、遺産が先祖から彼の下へと降りて来るかのようであった。いよいよフォーカスはすぐにでも正統な後継者の地位につけると考えるようになる。

けれども皇帝コンスタンティノス7世の傅役であるテオドロスは、その男の野心が制御不能となることを恐れていた。そして皇帝に何かしら危害が及ぶのを懸念して皇帝に提案を行う。父帝に仕えていたドゥルンガリオス・トゥー・プロイムーのロマノスがいつでも皇帝に仕えることに望みを持っていたので、彼を皇帝の味方に付けようというのである。ロマノスは皇帝と共にあって守り、必要とあらば皇帝側で戦って、進んで助力するはずであった。

こうした目的で最初に提案が行われたとき、ロマノスは拒否している。テオドロスの補佐役は繰り返し提案したが、まだロマノスは拒否した。そこで皇帝自ら書状をしたためると緋色の文字で署名してロマノスに送る。書状を手にするとロマノスは折れ、出来る限りの範囲でパラコイモメノス コンスタンティノスとその関係者らの企てを食い止めることを引き受けた。

交渉や合意はそういう方法でなされた。そしてその噂が市場や大通り、脇道で起こった。パラコイモメノスが自分に対して計画されていることに対して不慣れな人ではなかったのは確かである。しかし、彼は計画に何も備えなかったし、自分に敢えて歯向かう動きがあるとは決して思わなかったのである。そのため彼は水夫たちにいつも通り俸給を配るために宮殿を出てきた。

滞りなく出航するロマノスを励ましている間にパラコイモメノス コンスタンティノスは罠に嵌る。ロマノスはへつらうような態度で彼を出迎え、命じられたことを実行する準備がすっかり出来ているということを知らせた。そして穏やかに、徐々にパラコイモメノスを罠へと導く。パラコイモメノスは計画に気付かず、策や疑いもなく会話し、ロマノスに近づきさえした。そして帝国の船を漕ぐのに優れた者、任に忠実な者があるかどうか尋ねる。

ロマノスは

「おります。すぐ近くにおります。」

と言った。そしてうなずくと、美丈夫たちに近づくよう命じる。コンスタンティノスは彼らを見て、優れた者たちであると認めて立ち去ろうとした。ところが彼らが旗艦と並んでやって来ると、ロマノスは前を歩いていたコンスタンティノスを掴んで一言だけ、

「連れていけ。」

と言ったのである。

任務のために訓練された者たちがコンスタンティノスを連れて旗艦に乗り、彼を拘禁する間、ロマノスはじっとたたずんでいた。コンスタンティノスの供の者たちは誰も敢えて助けに来ようとはしない。彼らはすぐに散らばってしまった。

その知らせが広まると都中が混乱を来した。(人々は)政変が起こったと考える。その考えは浅慮なものではない。

皇太后ゾエにその知らせが届いたが、彼女も高官たちも共になすすべを知らなかった。そして彼女はパトリキオスのニコラオスと主だった元老院議員を呼び寄せる。意見の一致をみると、皇太后はロマノスに代表を送った。事を起こした理由を知るためである。

使者たちが現場に到着して船を係留し、パラコイモメノスの拘束について調査していたところ、未熟者の船員たちが立ち上がって、使者たちを石で追い払った。

翌朝早くに皇太后はブコレオン宮に出て、息子を呼び寄せると、その従者に反乱の起こった経緯を尋ねる。誰も何も答えなかったが、皇帝の傅役は

「この反乱は、レオン・フォーカスが軍を破滅させ、パラコイモメノス コンスタンティノスが宮廷と皇太后陛下を滅ぼそうとしたので起こったのです。」

と言った。

11.
皇帝は母から政府の実権を引き継ぐつもりで総主教ニコラオスとマギストロスのステファノスを連れて宮殿へ戻った。翌日、彼らはアウグスタを宮殿から追い出すためにヨハネス・トゥバケスを遣わす。けれどもアウグスタは泣き叫んで息子に取りすがり、母親というものに対して自然に浮かび上がる感情に訴えかけて哀れみを誘って皇帝を動かした。皇帝は、

「母上が私と居られるようにして欲しい。」

と言い、ヨハネスらはすぐにその通りにする。

皇帝は、反乱を起こすおそれのあるレオン・フォーカスに替えて、ヨハネス・ガリダスをドメスティコス・トーン・スコローンに任命した。ヨハネス・ガリダスの要請で、ガリダスの息子 シュメオンとガリダスの妻の兄弟であるテオドロス・ズフィネゼルがヘタイレイア軍団の司令官とされる。皇帝の誓いに欺かれて、レオン(・フォーカス)は自邸に引き下がったが、その後、レオンの親族はすぐに宮廷から追放された。

彼はこれを知ると悲しみと恐れで滅入ってしまい、すぐに海軍の拠点へと馬を巡らせると、ドゥルンガリオス・トゥー・プロイムーのロマノスから被った無道と恥辱について報告する。直ちに彼らは手を結び、互いに誓いを立てて結束するとこどもたちの間で結婚の約束を取り交わした。けれど、心の内を公にはしなかった。

ロマノスは宮廷で起こったことについて弁明し、暴動にも反乱にも荷担しないことを誓う。ロマノスは、

「皇帝に危害が及ばないよう、自分はその安全と不安を気づかってフォーカスの攻撃にあらかじめ対処したのです。そういう理由で私は宮廷に赴き、皇帝の護衛を用意したいと考えております。」

と言った。

ところが総主教ニコラオスはロマノスのことも彼の言葉も信用していなかった。そこで、傅役のテオドロスはロマノスに至急、全艦隊を率いてブコレオン宮殿の港に入るよう要請する。ロマノスが行動を引き延ばし、入港を避けようとする間、秘密の計画を実行するよう彼を励ます人々は、不本意であろうとも傅役の指示の下に行動するようロマノスを説得した。そして実際に生神女福音祭の正にその日に帆を上げた中央艦隊が戦闘隊形をとってブコレオンへと到着する。ロマノスと姻戚関係にあるパトリキオスのニケタスが宮殿に入って総主教を追い出す一方、マギストロスのステファノスは即座に宮殿を退去した。

皇帝の側近くにある者たちは生命を吹き込む聖なる遺物である聖十字架をロマノスの下へと送る。そして最も厳かな誓いと(違背に対する)地獄に落ちるような呪いと共に皇帝に危害を加えないことを約束させると、ロマノスがわずかな者たちと宮殿に入るのを許した。皇帝の前に参上したロマノスは頭を下げる。皇帝は彼を迎え、灯台の教会へと案内した。約束が取り交わされた後、ロマノスはヘタイレイア軍団の司令官に任命されている。

すぐに書状がレオン・フォーカスへと送られた。長い間、フォーカスのために準備が進められてきているので、警戒されるようなことをせず、あるいは勇気を失わず、隠れた陰謀にも加わらないで少しばかり自分の領地でじっと耐えているように説くものである。

パラコイモメノスのコンスタンティノスは同じような書状を書くことを強要された。フォーカスはこれらの書状を受け取るとカッパドキアの自邸に静かに引きこもる。

13.
その後まもなくレオン・フォーカスは親族や麾下の軍から反乱を起こすよう唆される。彼はパラコイモメノスのコンスタンティノスやコンスタンティノスとアナスタシオスのゴンギュリオス兄弟、マレリアのコンスタンティノスを自軍に呼び寄せた。

レオンは皇帝コンスタンティノス7世のために兵を挙げたと彼らの前で宣言する。けれどもロマノスはフォーカスの述べた意図を否定する金印勅書を出し、それは、皇帝の署名と印判によって裁可された。

これらの書状はいかがわしい女の手によってレオンの陣に届けられる。後になって女がその役割を担うために皇帝のお召しを受けた者であったことが分かる。他の書状はミカエルという名の聖職者と共に訪れた。ミカエルは栄典と贈り物をフォーカス軍の部隊長やフォーカス軍の者に与える契約を携えていた。そこにはフォーカス軍の者を暴動へと駆り立てようという意図がある。しかし、彼はフォーカスに捕らえられてしまい、無残にもむち打たれて、その耳を削がれる。けれども女は拘束を免れ、その手にあった声明文をフォーカス軍に広めた。

ヒカナトイ軍団(中央軍の軍団の一つ)の司令官ミカエル・バリュスの息子コンスタンティノスがまずレオンを見限り、ロマノスの下へと奔る。バランテスとアツモロスが彼に続いた。二人とも要塞を任されていた。

一方、レオン・フォーカスはクリュソポリスに到達する。雌牛の石像を戴いた円柱のところからボスポロス海峡を挟んだ(帝都の)対岸に軍を勢揃いさせて都の市民を脅かした。

ロマノスは首席書記官のシュメオンをガレー船で反乱軍の下へと派遣する。彼には皇帝が裁可したレオン宛の金印勅書を委ねてあった。シュメオンにはできる限り敵の大軍と連絡を取るように指示がされている。

書状の内容は次のようなものだった。

―我らが皇帝陛下は手近にロマノスのように優秀で忠良な守護者がいないことをお気付きになった。ロマノスこそ神自身に次ぐ守護者である。我らは父の代わりに我らの身を守る任務を彼に委ねたのである。そして、彼が父親のような慈悲を見せたように、我らも彼を親たる者として受け入れた。

レオン・フォーカスはどうだったかと言えば、いつも我々の統治に挑み掛かってきた。その機会を手ぐすね引いて待っていて、今や覆い隠していた敵意をむき出しにしている。

フォーカスはもはやドメスティコス(・トーン・スコローン)ではないが、それは我々の望むところであった。彼は我らに臣従しようとは思っておらず、背信者、簒奪者となっている。帝国の政権を奪い取るために我々の意思表示に逆らって今回の反乱を引き起こした。こうしたことをふまえて諸君らは我が軍で義務を果たすつもりはあるか?

代々の統治者たる我らを認めて、この厳しい簒奪の企みから離れるつもりはあるか?―

シュメオンは敵陣に至り、フォーカス軍に金印勅書を公表した。フォーカス軍の者たちはその意図を理解したので皆、「皇帝の父」ロマノスの側につくことにする。

初めフォーカスは金印勅書が流布するのを妨げようとした。けれど、それに失敗すると、軍が徐々に離脱しているのを見て絶望の淵に沈み、逃亡して身の安全を図る。

彼は信の置けるわずかな司令官らと共にアテオという要塞までやってきたが、入城を拒絶され、オエレオンという村へ移った。そこでレオンはミカエル・バリュスに捕らえられる。バリュスは自身を支える多くの者を引き連れていた。ヨハネス・トゥバケスとレオン・パスティラスがレオンを帝都へと引き立てる。そこでレオンは彼らの非難を受け、盲目にされた。

ある者はこれをロマノスが密かに指示したものであると言う。しかし、ロマノスに近い筋はこれを否定し、捕縛者が自分たちの権限に沿って手を下したのだと主張している。

ロマノスは実際にうろたえた。レオン・フォーカスへの処断が自らの意に反していたのである。これがレオンの反乱の結末である。

14.
他にもロマノスに対する陰謀があった。それはかのコンスタンティノス・クテマティノス、ダヴィド・クムリアノス、そしてマンガナのクラトール(管理官)ミカエルが主導するものである。彼らは何人かの若者を武装させ、ロマノスが狩りに出かけた際に手を下すよう指示した。

ところがこの話は露見し、首謀者は拘束されて両目を奪われ、都の中心を引き回されることになる。レオン・フォーカスもラバに乗せられて、この不名誉な行列に加えられた。

皇太后ゾエもロマノスの命を狙う陰謀を企てたとして罪に問われる。ゾエは宮殿を逐われ、聖エウフェミア修道院で剃髪させられた。

パトリキオスのテオフュラクトスと皇帝の傅役テオドロス、その兄シュメオンは都から追放されテマ・オプシキオンで暮らすように命じられる。ロマノスに対して行動を起こす疑いを持たれたためである。ドゥルンガリオス・テース・ビグラスのヨハネス・クルクアスはこれらの者への追放刑を実施し、突然、彼らを拘束して船で対岸へと移送した。

9月24日、ロマノスはカイサル(副帝)に昇格し、12月には皇帝コンスタンティノス7世の要請によって総主教ニコラオスからその額に帝冠を受けている。