スキュリツェス年代記(『歴史概観』)
ヨハネス1世ツィミスケス

【ヨハネス1世ツィミスケス 位969-976】

1.
ニケフォロス2世弑逆後、ヨハネス1世ツィミスケスは、ロマノス2世の息子であるバシレイオス(2世)とコンスタンティノス(8世)を共同皇帝として、ともにローマ帝国統治の責任を引き受けている。バシレイオス2世は7歳で、コンスタンティノス8世は5歳であった。(ヨハネス即位時、実際にはバシレイオス2世は11歳、コンスタンティノス8世は9歳)

ヨハネス1世は、(ニケフォロス2世を弑した)夜、直ちにパラコイモメノス(寝室管理長官)のバシレイオス(・レカペノス)を呼び寄せると、彼を政権内で協力者とする。

レカペノスにとって、ニケフォロス2世が帝位を得たことは、大きな出来事であった。プロエドロス(という非皇族最高)の爵位を与えられたからである。その地位は、ニケフォロス2世が初めて置いた以前には存在しなかったものである。

ヨハネス1世がレカペノスを協力者としたのは、彼がその父 ロマノス1世の時代、次いでその義理の兄弟 コンスタンティノス7世ポルフュロゲネトスの時代と長年、帝国の事務に携わっていたからであった。

ヨハネス1世は、幾度もハガレノイ(イスラム教徒)に対する遠征を起こしたが、困難な状況に自身を適応させることに非常に長けていた。皇帝は速やかに問題を解決して、依然としてニケフォロス2世を支持していた全ての者を追放する。

(ニケフォロス2世の弟で)クロパラテスの爵位にあるレオンはレスボス島へ追放し、その息子でべステスの爵位にあるニケフォロスはインブロス島へ追放した。カルディアとコロネイアのドゥクス(方面軍総司令官)であった(レオンのもう一人の息子)バルダスには辞令を出し、その任を解いてアメセイアへと身柄を移す。

さらに、その他の文武の職にある者を解任し、自分の配下や自身の支持者を任命していった。

皇帝は、ニケフォロス2世によって追放されていた者の内、とりわけ、ニケフォロス2世による法案への署名を拒んで追放された主教の復帰を許している。法案は、教会を規制し屈辱を与えるものであった。この(法案についての)話は、既に(ニケフォロス2世の記事の中で)述べた通りである。

2.
こうした措置の後、同じ夜には皇帝は、わずかばかりの者のみを伴って、なんの懸念も持たずハギア・ソフィアに赴いた。総主教から帝冠を受けるつもりだったのである。

ところが、ヨハネス1世が教会に入ろうとするのを、総主教 ポリュエウクトスは許さなかった。

ポリュエウクトスは言う。

「つい今し方、自分の血族を弑し、その湯気の立たんばかりの血を手から滴らせている者など、神の教会に立ち入るにふさわしくない。改悛を行動で示し、その後で主の家の内へ入る赦しを得るべきである。」

と。

ヨハネス1世は贖罪すべきことを即座に受け入れ、その全てを実行する旨を素直に表明した。

しかしながら、ヨハネス1世は、ニケフォロス2世を弑したのは自分ではなく、皇后 テオファノの扇動の下にアバランテスとアズュポテオドロスが成したことであると進んで正当化した。これを聞くと、総主教はテオファノに宮殿からの放逐と、島への追放を言い渡す。

ニケフォロス2世を弑逆した者は追放され、またニケフォロス2世が教会側に投げかけようとして、教会を混乱に陥れた法案は破棄された。

ヨハネス1世は直ちに二人の男をコンスタンティノープルから追放し、さらにテオファノをプロコンネソスへ放逐している。

その後、テオファノはそこを脱出し、密かにハギア・ソフィアに逃げ込んだ。パラコイモメノスのバシレイオス(・レカペノス)は彼女をそこから追い出し、テマ・アルメニアコンにある、皇帝によって最近設立されたダミデイア修道院へと追放する。追放の際、彼女は、皇帝とバシレイオス・レカペノスを激しく責め立て、レカペノスのこめかみに拳の跡を残した。[テオファノはレカペノスを「スキタイ人」「バルバロイ」と呼んだ。]

同時にテオファノの母も追放された。彼女の追放先はマンティネイオンである。

(ニケフォロス2世による)法案は、持ち出されて破り捨てられた。教会は以前のような自由を謳歌する。

3.
ひとたびこれらの措置が講じられると、ヨハネス2世はその罪を償うために貧しい者に一個人として所有しているものを分け与えると約束した。そうした後、ポリュエウクトスは、ヨハネス1世に教会への立ち入りを許している。主の降誕祭において、彼は[ハギア・ソフィアに]入り、帝冠を受けた。

帝国は、東も西も、相当に乱れていた。

ハガレノイから奪ったキリキアやフェニキア、そしてコエレ・シリアの諸都市は、反乱を考えていた。なぜなら、ニケフォロス2世には、それらを順次守り固めて、その安全を保つ時間がなかったからである。

5年におよぶ飢饉はローマの各地を悩ませ、目下、街々を手酷く痛めつけていた。その間に、ルーシ人をブルガリア人に対してけしかける軽率な計画は、今や帝国にとって非常に危険な脅威へと変わってしまっていた。

皇帝は(帝国の)このような病を治して将来への懸念を払拭できるだろう方策について慎重に考慮し、気を配っている。

一方で、トマスと名付けられた徳の高い修道士が、オロンテス河畔のアンティオキアの総主教に任命された。[ここには、総主教がいなかったのである。]

この者は、ヨハネス1世の皇帝即位を予言し彼に、

「お急ぎになりませんように。神があなたを帝位の高みへと引き上げてくださいます。しかし、愚かしくも帝位の獲得を急ぎ、自らの魂を破滅させるようなことがあってはいけませんから、注意しなくてはなりません。」

と忠告した修道士であった。

トマスはまた、マニ教徒たちが東方全土を荒らし、その惨めな宗教を広めることによってその地を腐敗させているが、彼らを西へ移動させ僻地の荒野に定住させるべきだと要請している。

これは、後に実行された。マニ教徒らはフィリップウポリスに移住させられている。

ヨハネス1世の即位から35日後、帝都ではポリュエウクトスがこの世を去り、修道士 バシレイオス・スカマンドレノスが後継の総主教に就任することとなっている。彼は、完全な徳を体現する人物であった。

4.
アンティオキアや先に挙げたそのほかの諸都市の(ローマ帝国による)占領は、世界中のサラセン人(イスラム教徒)、そして彼らの宗教に属する他の国々の者にとっての屈辱となった。それは(具体的には)エジプト人・ペルシャ人・アラブ人、エラム人、ならびにアラビア・フェリクスやサバの住民たちである。

彼らは約定を結んで同盟し、各国から大軍を集めて、それをカルタゴ人(ファーティマ朝)に任せた。彼らの指揮官は、ゾーハルという者で剛健で陸海の作戦に事細かに通じている軍事的能力がある人物だった。

ひとたび全軍が招集されると、彼らはローマ軍に向かって進軍した。戦士の数は10万に達している。彼らはダフネの地を通ってアンティオキアに接近し、活発な包囲攻撃を仕掛ける。しかし、城内は果敢に抵抗し、さらに士気も高かったため、包囲は長引いた。

諸国の者の集結を知らされた皇帝は、すぐにメソポタミアの司令官に書状を出して、その軍をまとめて、包囲されている人々の救援に赴くように命じる。

皇帝はまた、自らの個人的な宦官であるパトリキオスの爵位にあるニコラスを総司令官として(アンティオキアへ)派遣した。彼はたまたま他の軍と一緒になり、(アンティオキアで)無数のバルバロイと戦って、決定的に追い散らし、一度の戦いで散り散りにさせる。こうして、アンティオキアにはローマの支配の下、平安が戻ったのであった。

5.
ルーシ人がどのようにブルガリアを占領し、ペタルの二人の息子 ボリスとロマンを捕虜として拘束したかについては、既に述べた通りである。

ルーシ人は今や故郷への帰還を全く望んでいなかった。彼らはその地の豊かさに魅了され、皇帝ニケフォロス2世と締結した協定を全く意に介さなかった。その国に留まって、その土地を支配することが自分たちにとって利益になるだろうと考えたのである。

カロキュロスが

「もし、あなた方ルーシ人が私をローマ人の皇帝として認めるなら、私はブルガリアから引き上げ、あなた方と永遠の平和を築くだろう。」

と発言すると、これにルーシ人たちは一層、力づけられた。

(またさらにカロキュロスは、)

「ルーシ人に繰り返し約束した貢納金を支払い、ルーシ人との同盟と友好関係を生涯、保つだろう。」

(とも言った。)

これらの言葉に喜び、ルーシ人たちは、ブルガリアを(自分たちの)領土として扱った。そして皇帝が使節を派遣して、ニケフォロス2世の時に保証した全ての義務を果たすと約束しても、ルーシ人はこれを受け入れなかった。ルーシ人らは野蛮で傲慢さにあふれた返答をする。ここに至って皇帝はこの状況を軍事的に解決することを余儀なくされたのであった。

皇帝はすぐに書状によって、東方の軍に西方へ渡るように命じ、その司令官として将軍の地位にあったマギストロスの爵位にあるバルダス・スクレロスを任命する。[スクレロスの姉は、まだツィミスケスが民間人だった時に彼と正式に結婚している]。皇帝は春の初めに自ら出撃しようとしていた。

ルーシ人とその族長 スヴャトスラフは、ローマ軍が渡って来たことを知ると、ブルガリア人と共同戦線を張る。ブルガリア人は既に、ルーシの臣下であり、西方のパンノニアに定住するペチェネグ人とトルコ人がルーシの同盟者とされていた。

全軍が集結した時、その戦力は3万8千を数えた。

ルーシの軍はハイモス[山脈](バルカン山脈)を横切ると、トラキア全土を焼き払い、蹂躙する。そして、アルカディオポリスの城壁の前に野営し、会戦を待っていた。

しかし、マギストロスのバルダス・スクレロスは自軍の兵員がいかに不足しているか分かると、軍略によって敵に打ち勝とうと決意する。戦術と用兵で大きな数の差を覆して優位を得ること――スクレロスは実際にそれをやってのけた。

スクレロスとその軍は城壁の内に閉じこもり、敵が何度も出てきて戦うように誘いかけて何をしようとも、気にもとめなかった。スクレロスは留まりつづけ、自分が(敵を)恐れているように見せる。そして、敵が好きなようにするのを見ていた。この振る舞いはバルバロイから軽蔑された。本当にスクレロスが恐れのためにローマ軍部隊を城内に閉じ込め、敢えて出てこないのだと考えたからである。

彼らは警戒もせず散らばり始めた。陣内の防備を怠りはじめ、適切な警備兵を置くことにも不注意になる。とるべき警戒態勢もとらずに酒を飲み、野蛮な踊りに笛を吹きシンバルを叩いて、酔いどれで夜を過ごした。

バルダス(・スクレロス)は好機を捉える。

彼は敵をどのように攻撃すべきか慎重に検討し、(攻撃の)日時を決めると、夜、とある適当な場所に伏兵を置き、罠を仕掛けた。

そして、スクレロスは、パトリキオスのヨハネス・アラカッセウスを小規模な分遣隊とともに派遣する。アラカッセウスは、前進して敵を偵察するように命じられていた。彼はどこにいようと緊密に[司令官と]連絡を取り、逐次報告しなくてはならない。

アラカッセウスは、敵に遭遇した際には、攻撃し、打撃を受けた場合はすぐに背を向け、逃げ出すような素振りを(敵に)見せることとされていた。全速力で逃げ出すのではなく、穏やかに隊列を乱すことなく、手綱を緩め(速度を上げ)なくてはならない。そして可能な限り、[兵士らは]向き直って敵に当たる手筈であった。

彼らへの指令は、伏兵と罠の中にうまく[敵が]入るまで作戦を繰り返すことであり、うまく誘い込んだ時点で、散らばって一目散に夜陰に紛れることになっていた。この時、バルバロイの軍は三つの部隊で構成されていた。まず3分の1はブルガリア人とルーシ人から成る部隊、そして、トルコ人のみの部隊、さらに3分の1はペチェネグ人のみの部隊である。

(いよいよ作戦が始まり)進撃したヨハネス(・アラカッセウス)は、ペチェネグ人と遭遇するに至る。アラカッセウスは(スクレロスに)命じられた通り逃げ出す振りをした。しかし、その退却は全くゆっくりしたものである。

ペチェネグ人の部隊がアラカッセウスの部隊を全滅させてやろうと、隊列を乱しながら追撃してくる。しかし、この時ローマ軍は整然と後退し、今や自分たちを守り始めた。そして伏兵のいる所まで近づき、その真っ只中に入ると、手綱を緩めながら一目散に逃げ去る。むやみやたらに追ってくるペチェネグ人らの隊列は延びきっていた。

そこで、マギストロス(スクレロス)は突如として全軍で姿を現す。驚いたペチェネグ人は、追撃を止めた。しかしこれは逃げるためではなく、踏みとどまって、これから降りかかることに備えるためであった。

マギストロスとともにあった者は、激しくペチェネグ人らを攻撃する。この時、残りの軍も整然と付き従って隊列に並び、同様に攻撃した。結局、スキタイ人(ペチェネグ人)らの勇猛さも地に落ちる。

ローマ軍は完全に分かれ、ペチェネグ人は罠にはまった。(ローマ軍の)両翼は再び合流したが、それは、敵を完全に包囲したことを意味した。短い抵抗の後、敵は降伏するが、そのほとんどが殺されたのであった。

6.
こうしてバルダス(・スクレロス)は敵を破った。この時、スクレロスは捕虜から、残りのペチェネグ人らが好機を待っており、懲りもせず戦列を組んでいると聞いた。スクレロスは直ちに自ら指揮を執る。

はじめ、ペチェネグ人らの残党が[他の]ペチェネグ人の不幸を知った時、その惨劇の様子に士気は砕けた。しかし、逃げ散っていた者たちは、互いに集まって再びまとまる。

それからペチェネグ人らはローマ軍を攻撃し始めた。騎兵が突撃の先頭を切り、歩兵が後に続く。最初の騎兵隊による猛攻撃の勢いは、ローマ軍に遮られた。ローマ軍は対抗できないほど強盛に見えた。騎兵隊は引き返し、歩兵隊を押し戻す。ペチェネグ人らは元いた所まで戻り、態勢を立て直してローマ軍の来襲を待った。

抜きん出た体格の勇敢なスキタイ人が、馬に跨って戦列を鼓舞していたマギストロスその人に飛びかかり、兜の上から剣で斬撃を加えるまで、しばらく戦況はどう転ぶか分からなかった。剣はしかし、滑ってしまい、攻撃は失敗に終わる。そこで、マギストロスは敵の兜の上から剣で斬撃を加える。スクレロスの腕力と(剣の)鋼の強度は非常に強く、そのスキタイ人を真っ二つにするのに十分だった。

マギストロスの兄弟でパトリキオスのコンスタンティノスが助けに来て、別のスキタイ人の頭に攻撃を加えようとした。このスキタイ人は、コンスタンティノスの来援にもかかわらず無謀にも突出して来ていたのである。スキタイ人が体を反らしたので、コンスタンティノスは、標的を逃した。攻撃は馬の首に当たり、喉の所からその頭を切り放している。スキタイ人は落馬した。コンスタンティノスは馬から降り、スキタイ人のあごひげを掴んでその首を掻き切ったのであった。

この一件がローマ軍を鼓舞し、さらに勇気づける一方で、スキタイ人には恐怖が充満した。彼らは急速に消沈し、酷い混乱の中で背を向けてみっともなく逃げ去っている。

ローマ軍はスキタイ人を追撃し、野を死体で覆ったが、より多くの者は生け捕りにされた。その数は戦死した者や負傷者より多い。ごく一部の生き残り以外はみな、負傷していた。夜の帳が下りなければ、(スキタイ人は)誰も危険から逃れられなかっただろう。ローマ軍はそこで追撃を止めている。

幾万ものバルバロイの内、生き残ったのはわずかである。一方、ローマ軍は、戦闘で倒れたのは25名だったが、ほとんど誰もが負傷していたのであった。

7.
スクレロスはまだ、スキタイ人との戦いを完遂しておらず、ローマ軍は戦争での血の跡を洗い流してもいなかったが、皇帝からの書状が届き、その御前へと召還された。

スクレロスは到着すると、十分な軍勢でアジアへ渡るように命じられる。待ち受けている戦いのためであった。

アメセイアに留まるよう申し渡されていたバルダス・フォーカスが逃亡したのである。彼は関係者、友人、知人らを伴っており、カッパドキアのカエサレイアに向かうことを彼らと約束していた。

そこでバルダス・フォーカスらは、少なからず軍を集め、テオドロスとニケフォロスの指揮下においた。二人はパトリキオスのテオドロス・パルサクティノスの息子である。また今一人、パトリキオスのシュメオン・アンペラスもいた。

そしてバルダス・フォーカスは、帝冠とそのほか帝位を象徴する物を帯びて、皇帝に反旗を翻す。

彼の父であるクロパラテスのレオンは、既にある程度の支持者を得ていた。あるいは、贈り物によって、あるいは栄誉や土地を与える約束で支持を取り付けたのである。この約束について、アビュドスの主教がレオンの代理人を努めていた。

レオン自身は密かに息子 ニケフォロスとトラキア地方へ移動するつもりであった。

皇帝はこれを知ると、クロパラテスを裁判官に引き渡した。[(アビュドスの)主教が逮捕され、提示された多くの証拠に反論できなかったため全てが明るみに出たのである]。裁判官らは、クロパラテスのレオンとその息子 ニケフォロスは死ぬべきであるという意見で一致した。

皇帝は、元来、穏やかな性格で、両名に永久追放と摘眼刑を課しながらも密かに執行人に彼らの目をどんな形であれ、傷つけないように命じたと言われている。彼らを盲目にする振りをしただけで、実際には失明させなかった。

しかし執行人たちは皇帝から指示を受けたという事実を隠すことになっており、さらに、あたかも同情して視力という贈り物をしたかのように、その行為を自分たちの(意思による)ものとすることになっていた。以上がクロパラテスの問題の結末である。

スクレロスはアジアへ渡り、ドリュレイオンへやって来た。まずは、利益を約束することでフォーカスとその仲間に計画をやめるよう説得できるか試してみることにする。

実際、スクレロスは、同胞の血によって手を汚すことが無いようにその権限で何でもするよう皇帝から命じられていた。

しかし、これが無駄な努力であると気が付いた時、スクレロスは行動の時が来たと判断する。[反乱軍は、スクレロスからの申し出をかつてなく傲慢に、そして無礼に扱ったのであった。]

スクレロスは軍を動かしてカエサレイアへ進軍する。

フォーカスの協力者はこれに気付いた時、あやふやな将来への希望を捨て、利益を得る方を選んだ。夜になると彼らは、皇帝から差し出された贈り物を受け取り、スクレロスの下へ身を投じたのである。

スコライ軍団の長官 ディオゲネスが最初に投降して来た。[反乱軍全体を扇動していた]アンペラスとテオドロスの息子らが残りの全ての者を連れて後に続き、フォーカスとその従者は置き去りにされるほどだった。

見捨てられ、支持もなく、フォーカスは自身に反乱を起こすよう唆しておきながら裏切った者たちを恨み、哀しみに沈んだ。

[夜がやってきて]フォーカスは眠気に襲われる。彼は眠り、自身に不義理をはたらいた者に怒り、そして苛立ち、神に、

「『主よ、私と争う者と争い……』と私は(第三十四)聖詠の(この)続きを歌おうとしたのだ。だが、『それ以上は歌えない、スクレロスがお前に先んじて続きを歌ってしまったからだ。』という声が私には聞こえた。」

と小言を言った。

フォーカスは立ち上がり、望みが残されていないことを覚って震えた。彼は馬に跨がると、自身とともにある人々と一緒に(カッパドキアの)テュロポイオンの要塞へと逃亡する。

このことを知らされたマギストロスのバルダス・スクレロスは、駿足の騎兵を配備した。フォーカスに追いすがり、彼が要塞に入る前に捕まえるためである。

ちょうどフォーカスが要塞の麓まで近づいたその時、スクレロスの配備した騎兵らは、フォーカスを猛追し平原で追いついた。

他の者より大胆で勇敢な追跡者の一人 コンスタンティノスは、カロンとあだ名されていたが、仲間に先駆けて全速力でフォーカスへと襲いかかる。フォーカスは後方で配下を守っており、勇敢にも降りかかる全てに立ち向かう覚悟ができていた。

カロンは遠くからフォーカスに気付き、聞き苦しく下品な罵声を浴びせはじめ、心根の卑しい軟弱者と呼ばわる。そして、フォーカスに反乱の報いを甘んじて受けるべきだと詰め寄った。フォーカスは罵声を聞いた時、誰が話しているのかには気付かなかったが、手綱を引いて彼の方へ向き直ると、

「匹夫よ、お前は人の世の無常を知るべきだ。人に気まぐれに罵詈雑言を浴びせかけるものではない。むしろ、お前は私の不運を気の毒に思い、憐れむべきだ。私の父はクロパラテスだった。祖父はカエサルの地位にあった。叔父は皇帝だ。そして私はかつてはドゥクスであり、かの地で最も高い地位の人間の一人だった。今や私は大いなる不幸と不名誉を背負い奈落に落ちた。」

と言った。

カロンが言う。「奸物め、善悪の判断がつかない子供なら、そんなことを言っても許されるだろう。だが、(大の大人である)お前がそんなおとぎ話で私を欺くものではない。」

と。そして馬に拍車をかけて速度をあげる。

フォーカスは鞍に吊るしてあった棍棒を手にすると、正面切ってカロンと対峙し、兜の上から打撃を加える。打撃は彼を即死させた。兜は打撃の力に耐えきれなかったのである。フォーカスは手綱を取り、目的地を目指した。

馬を駆って追跡してきた残りの者たちは、カロンが死んでいる所までやってくる。彼らは(カロンが受けたであろう)攻撃の圧倒的な力に驚き、みなフォーカスを追うのを止めた。誰も敢えてそれ以上進もうとはしなかったのである。

もはや命の危険がなくなったフォーカスは、要塞に入った。その後、スクレロスがやって来る。彼はフォーカスと頻りに連絡を取り、親族として気にかけている旨、はっきりと書き送った。[事実、スクレロスの兄弟 コンスタンティノスは、バルダス・フォーカスの姉妹 ソフィアと結婚していた。]

スクレロスは、フォーカスに自ら出頭して皇帝に接近し、その慈悲を受けるように忠告する。フォーカスは、悪いようにはしないと保証する旨の誓約を受け入れると、自らの身と誓約をスクレロスの手に委ねた。

悪いことに、皇帝はフォーカスを修道士にしてキオス島へと追放したのであった。

それはともかく、皇帝はスクレロスと軽装兵の部隊に至急もう一度、西方に渡るよう命じる。

8.
ヨハネス1世は、テオドラを自身の后とした。彼女はロマノス2世の妹で、コンスタンティノス7世ポルフュロゲネトスの娘である。こうして皇帝の権力をバシレイオス1世の家系の内に留めおいたことは市民を大いに喜ばせた。

9.
治世の二年目、ヨハネス1世はルーシに対して遠征しようとしていたので、兵士らに褒賞を与えてその心を掴んだ。また、軍事面の手腕と経験で知られる司令官らを任命している。その他、軍が一切の不足にあえぐことが全く無いように慎重に気を配った。

ヨハネス1世はまた、レオンという者の取り次ぎによって艦隊にも関心を持つ。レオンはその時、ドゥルンガリオス・トゥー・プロイムー(中央艦隊長官)の地位にあり、後にはプロトベスティアリオス(衣服管理長官)になった。古い艦艇は修理され、新しく建造されたものは、海上を行くに相応しい艦隊に配備される。

ヨハネス1世は、全てが満足のいくものとなると、春の初めには神に献納を行って市民に別れを告げ、帝都を出発した。

ライデストスに至った時、皇帝は二名のスキタイ人の使者に会う。両名は使者の任を全うしようとしているように見えたが、その実、ローマの内情を密かに探りにきたのであった。

スキタイ人の使者たちが、自分たちが不当な扱いを受けていると不平不満を言うのに応えて、皇帝は使者たちに野営地全体を通って隊列を視察するように命じた。皇帝は、使者らがここにいる理由について欺かれてはいなかった。使者たちが全体を回り、全てを目の当たりにした時、皇帝は彼らに申し渡す。

「よくまとまった規律あるローマ皇帝の軍が、そちらとの戦争のために鍛え抜かれてきたことを、おまえたちの司令官に伝えよ。」

と。

皇帝はこのようにして使者たちを去らせると、続いてある程度の人数[歩兵5,000と騎兵4,000]の機動力の高い兵士らを連れて行く。そして、パラコイモメノス バシレイオスの指揮下に置いた残りの全軍に、ゆっくりとした速度で後に続くように命じた。

ヨハネス1世自らは、ハイモス山脈を横切り、不意をついて敵領へ前進して、ブルガリア王の宮殿がある大ペルストラバス(大プレスラフ)の街のそばに野営する。

スキタイ人は突然のことに唖然として動けなくなってしまう。この災難を呼び込んだ原因であり張本人であったカロキュロスはたまたまそこに居たが、彼はラッパの音を聞くことにも耐えられなかった。皇帝自ら指揮を執るために親征してきているのを知った時、カロキュロスは密かにその街を去り、ルーシの陣地へ逃げ込んでいる。

ルーシ勢は皇帝の姿を目の当たりにしてその到着を知った時、少なからず動揺したが、態勢を立て直した。その際、スヴャトスラフは兵を鼓舞するために演説したが、そうした状況のために大げさな言い回しをしている。そしてローマの陣営の前に野営した。

その間、皇帝とともにあった軍は街の前の平原に現れ、突然、完全に不意をついた形で敵に襲いかかる。皇帝軍は、街の外で訓練に勤しむ重武装した8500の者たちを驚かせた。彼らはしばらく抵抗したが、やがて打ち破られ、向きを変えて逃げ出す。ある者は無様に殺され、ある者は安全な街の中へと入った。

こうしたことが起こっている間、城内のスキタイ人らは、予期せぬローマ軍の到達と、続いて起こった(ローマ軍と)自軍との交戦を目にする。城内の者はそれぞれ何でもできることをして、武器なら何でも手にとって救援に飛び出した。ローマ軍は前進してくる彼らに遭遇する。混乱し、酷くばらばらだった彼らをローマ軍は殲滅した。

敵はわずかな時間さえ抵抗することができず、踵を返して逃げていく。しかし、ローマ騎兵の別働隊は、逃げる者らの先回りをして街へつながる道を遮断した。平原の上を散らばって逃げていた彼らをローマ騎兵が追い越す。彼らは地平全てが死体で覆われるまで打ち破られ、さらに多くの者が捕虜にされた。

プレスラフの守備軍の総司令官 スファンゲロスは、[スキタイの軍の中でスヴャトスラフに次ぐ地位にあったが、]今や街を心配し始める。それは無理もないことであり、彼は城門を閉ざし、閂をかけて守りに入った。そしてスファンゲロスは城壁に上がり、石を含めたあらゆる飛び道具で、攻め寄せるローマ軍を攻撃する。

夜の到来とともに包囲は緩められた。しかし朝にはプロエドロスの爵位にある[パラコイモメノス]バシレイオスが後続を率いてやって来た。その到着は皇帝を喜ばせる。彼はスキタイ人に見えるよう丘に上がった。その間、同じ所に集まった軍が、街を包囲した。スキタイ人に、焦って破滅に向かわず、頑なな抵抗をやめるよう長々と勧告する。ところが彼らは説得されず、城壁を降りなかった

義憤に駆られたローマ軍は包囲を強める。守備兵が矢を射掛け、城壁にかけたはしごを傾けてくるのを力づくで押し戻した。

一人の勇敢な兵士が、右手に握った剣を高く掲げ、盾を頭上にかざし、はしごの一つを最初に登った。そして矢玉をその盾で払い除け、攻撃してくる者、邪魔者を剣で追い払い、胸壁を越えて侵入する。そこでも人々を追い散らし、後に続く者たちのために道を切り開いた。

一人が同様に、次に別の者が、そして多くの者が後に続く。ローマ軍が隊列を整えると、スキタイ人らは制圧され、胸壁から身を投げ始めた。

他の多くのローマ人も最初の者と全く同じ熱意を持って、別の場所から城壁の上へとはしごを登っていく。ローマ人たちがたやすくスキタイ人を避けて城門へ至ったので、彼らは混乱した。城門は開け放たれ、軍が入城する。こうして、その街は占領されたのであった。

裏路地に沿って逃げたスキタイ人は捕らえられ、また殺された。女と子供は捕虜となる。

ブルガリアの王 ボリスは、その妻や子供たちとともに連行された。ボリスはまだ王のしるしを身に着けていた。彼らは皇帝の下へと連れて行かれる。皇帝は寛大に彼らを迎え入れ、ボリスをブルガリア人の皇帝と呼んだ。そしてローマ側が捕らえた全てのブルガリア人を解放し、彼らをどこへでも自由に立ち去らせると、

「余はブルガリア人を奴隷にするために来たのではなく、むしろ自由にするために来たのだ。」

と述べた。

ヨハネス1世が敵と見なし、対立者として扱うつもりだったのは、ルーシ人だけだったのである。

10.
スキタイ人の中でも不撓不屈の者たち8,000名が、その街の宮殿内の要塞を占領する。戦利品を求めて宮殿内を探索するローマ兵を、しばらくの間、彼らは誰にもそれと気付かれることなく捕らえ、殺すことができた。

皇帝はこのことを知った時、かなりの部隊を差し向ける。しかし、皇帝が派遣した者たちは気が進まず、実際、攻撃を試みるのをためらった。それは、ルーシ人に対する恐れからではなく、その場所が守り固められ、難攻不落だったからである。

皇帝はすぐに困難を克服した。彼は武器を掴んで歩き出すと、誰よりも前に出る。

これを見た兵士たちはみな武器を取り、皇帝に追いつこうとした。雄叫びを上げて彼らは要塞を攻撃する。ルーシ人たちは攻撃に果敢に抵抗した。しかし、ローマ兵は多くの場所に火をかけ、守備兵を制圧した。

炎の熱とローマ兵の強さに抗うことができず、ルーシ人たちは、そそり立つ防壁の下へ飛び降り、逃げ出す。炎の中で、またそのほか防壁を飛び降りる際に多くの命が失われた。残りは剣の餌食になるか、捕虜となっている。

こうして街は占領された。抵抗も丸二日は続かなかった。占領後、皇帝は街を再建する。十分な守備兵を駐屯させ、相応の必要な物資を配給した。 聖なる復活の日を祝った際、ヨハネス1世は、自らの名から採って、街をヨハノポリスと改名した。そして翌日には、ドロストロンへ出発する。ドロストロンは、ドリストラとしても知られる。

11.
スヴャトスラフはペルストラバス(プレスラフ)が陥落したと聞き、[驚くことではなかったが]いたく悩んだ。しかし、この出来事も彼の傲慢さを少しも抑えられなかった。彼は仲間を呼び集めると、自分たちがますます意気盛んであるところを直ちに示すよう求めた。死力を尽くせるよう努め、少しでも疑わしいところのあるブルガリア人[およそ300人]は殺し、ローマに反攻をかけ始める。

皇帝は進路上にある都市を占領し、統治官を置いた。多くの要塞や建物を掠め取って、兵士らに委ね戦利品を鹵獲させ、さらに進軍する。

斥候により、一部のスキタイ人が接近中であるとの報がもたらされると、皇帝は選抜隊を派遣した。ミステイア出身のテオドロスに指揮を執らせ、先鋒とし、敵の主力を監視して皇帝にその様子を知らせるように命じる。接近したら、少し戦って敵の力を試すことになっていた。皇帝自らは後から戦いにやって来るのである。

テオドロスと選抜隊の者たちは敵と接触すると、激しい攻撃を始めた。しかし、ルーシ人たちは伏兵を恐れて、もうそれ以上は進まない。ルーシ人らは多くが傷つき、さらに一部は斃れた。そして隊列を乱し近場の山や深く暗い森へ入る。

山や森が彼らを隠した。山を通ってルーシ人たちは無事にドリストラに至った。ルーシ側はその数7,000だったが、一方で彼らを攻撃して敗走させたテオドロスらの部隊のローマ人は300名であった。

スキタイ人はスヴャトスラフの周りに再集結すると、ともに出撃しドリストロンの12ミリオン(マイル)先に全軍をもって布陣する。スキタイ人33万は、自信を持っており、首を長くして皇帝の来攻を待った。

先の戦いでの勝利に歓喜していたローマ人らは、大会戦を心待ちにし、自分たちのそばには神がいると知っていた。神は、 穢れた手の君主らをお救いになるのは望まれず、いつも不正義の犠牲になる者をお救いになるのである。このようにローマ人は前向きで果敢であった。[それは極めて勇気ある者だけでなく、気の弱い者もそうであった。]みな戦いに向けて遮二無二に食事を平らげた。

互いに相手の軍が見える所までくると、皇帝もスヴャトスラフもそれぞれ、自分たちの将兵らを奮い立たせる言葉で鼓舞し、相応しい言い回しで演説を行った。

ラッパが開戦の合図となり、両軍は互いに同じ熱気をもってぶつかる。ローマ軍の突撃には、相当な勢いがあったので最初の衝突で、多くのバルバロイを討ち取り、その隊列を打ち崩した。ところが、敵の一部は少しも退かず、ローマ軍を前にわずかな敗走も見せなかった。

何が起こったのか――
スキタイ人が態勢を立て直して再びローマ軍に挑み、怒号を浴びせたのである。

しばらくは互角の戦いであった。しかし、その日の夕方に近づいた頃、ローマ人たちは互いに気力を振り絞り、励まし合ってその意志を強固にした。そしてローマ軍はスキタイ軍の左翼へ突撃すると、その圧倒的な力によって多くを討ち取った。

ルーシ人たちは今や、潰える危険のある箇所に軍を集中させた。皇帝はそばにあった者たちを増援として派遣したが、その後に彼自らの姿もあった。皇帝のしるしがはっきりと掲げられていた。皇帝は槍を構え、馬を駆り、頻りに大声を上げて軍を集結させる。

激しい戦闘が続き、幾度も運命が逆転した。敵と味方の間で優位が十二回も入れ替わったと言われている。

そして、決して頑強な抵抗が無かったわけではないがルーシ勢は崩れ、立ちはだかる(ローマ軍の)脅威の前に秩序なく敗走し、平原で散り散りになった。

ローマ人らは追撃し追いついて彼らを討ち取った。多くが戦死し、さらに多くが捕虜となる。危険を脱することに成功した者たちは、ドロストロンにたどり着いて逃げ込んだ。

12.
皇帝は聖ゲオルギオスに勝利のための捧げ物をする。聖ゲオルギオスは輝かしい勝利の殉教者である。[なぜなら、彼の祭日(4月23日)に皇帝が敵に突撃したからである]。そして翌日、皇帝は自らドロストロン[ドリストラ]へ向けて出発した。ドロストロンへ到着すると、皇帝は堅牢な陣地を構築する。

ヨハネス1世は、まだ街を包囲しなかった。警戒を布いていない川からルーシ人たちが船で脱出するおそれがあったからである。皇帝は、陣内に留まって、ローマ艦隊を待つ。

一方、スヴャトスラフは、生け捕りにしたブルガリア人たち[およそ2万人]が暴動を起こすかも知れなかったので、彼らに鉄の足枷とそのほかの拘束具を付けさせた。その上で、包囲を見越して準備を行う。

ひとたび艦隊が到着すると、皇帝は城壁への攻撃を試みた。

(城内からの)頻繁なスキタイ人らの出撃は撃退される。ところがある日、夕方近くになり夕食のために警戒が緩んだ際に、バルバロイの騎兵と歩兵が二手に分かれ、二か所の城門からどっと押し寄せてきた。

(ローマ軍は)東側はストラトペダルケス(司令長官) ペトロスがトラキア人の軍とマケドニア人の軍とともに守備を任せられており、西側はバルダス・スクレロスが軍とともに守備を任せられていた。

戦闘隊形をとったスキタイ人がやってくる。これは彼らが馬に乗った姿を見せた最初だった。以前の戦いにおいて彼らは徒歩だったのである。ローマ人は彼らの突撃に抵抗し、意気盛んに反撃した。しばらく戦いは互角だったが、やがてローマ人たちがその優れた特性を発揮して、バルバロイを押し戻し、城内に閉じこもらせる。

バルバロイは戦闘で多くの死者を出したが、特に騎兵の戦死者が多かった。しかし、ローマ側は、三頭の馬を失った以外は、一人も傷ついていない。

このように打ち破られ、城内に閉じ込められたので、バルバロイは夜が来ても眠らなかった。彼らは死者のために一晩中荒々しく、むさ苦しく嘆いたのだった。それを聞いた人にとって、その声は、人間の悲しみと追悼というよりは、むしろ野獣のうなりや咆吼のように聞こえたという。

夜が明けると、各要塞を守るために派遣されていた者たちは、ドロストロンへ呼び戻される。招集がかかると彼らは急いで戻ってきた。

今や皇帝は全軍を集め、街の前面の平原を前進させてバルバロイたちを戦いへと駆り立てようとしていた。しかし、バルバロイは出てこなかったので、陣地に戻って時を待つことにする。

コンスタンティア(コンスタンツァ)やダニューブ川の対岸に築かれた要塞から、代表者たちが皇帝の下へとやって来た。彼らは、自分たちの身を委ねて拠点を引き渡す代わりに、罪に対する恩赦を求める。皇帝は快く彼らを迎え、各要塞を抑える将を派遣し、そこを守るのに十分な軍を付けた。

やがて夕方となると、城門は全て開け放たれ、ルーシ人が[前回よりも多数で]ローマ人に襲いかかった。夜だったためにローマ人は大いに驚く。はじめはルーシ人らが優勢であるように見えた、だが少し後にはローマ人らが優勢となっていた。

その後、奮戦していたスファンゲロスが敗れると、その喪失によってルーシ人らはたじろぎ、勢いが弱まる。けれども彼らは退かなかった。一晩中そして、翌日の真昼まで守り抜いたのである。

その時点で皇帝は、別働隊を出していた。バルバロイの城内への後退を遮るためである。ひとたびこれに気付くとルーシ人らは向きを変えて逃げ出した。彼らは城内への道が絶たれているのを見つけて平原を逃げて行ったが、捕らえられて殺される。

夜が来るとスヴャトスラフは、城壁の周囲に深い堀を巡らせた。ローマ軍が攻撃の際にたやすく城壁に近づくのを防ぐためである。とはいえ、そのように街を守ったとしても厳しい包囲が予測されることをスヴャトスラフは知っていた。

(守備)軍の大半は負傷しており、飢えが彼らを悩ませていた。既に物資を消費し尽くしてしまっていたからである。外からのあらゆる救援はローマ人らに妨害された。

そこでスヴャトスラフは、新月の暗い夜に二千人の者たちをドラゴン船に乗せ、糧秣を徴発しに行かせる。空から大雨が降り、激しく雹がたたき付け、辺り一面に雷鳴が轟き、すさまじい稲光が走る夜であった。

各自が、必要な物資にできる物を、穀物、雑穀、その他、何でもかき集めた。その後、ルーシ人らは船で川をさかのぼってドロストロンへ戻る。彼らは上流へと航行する間、多くの(ローマ軍の)当番兵を目にする。

(当番兵らは)ある者は馬に水をやり、ある者はまぐさを刈り、また他の者は、木を集めていた。ルーシ人らは船から降り、静かに森を抜けると、当番兵に襲いかかる。当番兵はルーシ人らの存在に気付きもしなかったために何も警戒していなかった。多くが殺され、残りの者は近場の茂みを抜けざるを得なかった。

バルバロイは船をうまく操り、順風に乗ってドロストロンへと戻る。

これを聞いて皇帝は大いに苛立った。とりわけ、艦隊の司令官たちに激怒する。ドロストロンからバルバロイが出航したことに気付かなかったからである。もし、もう一度このような失敗を犯したら死を与えると、皇帝は司令官たちを脅した。

皇帝は毎日、休みなく戦い、包囲に丸六十五日を費やした時、街を封鎖し食糧不足に陥らせなくてはならないと考えた。そのために皇帝は全ての道を溝を掘って遮断し、そこに警備兵を置く。(城内の)誰にも補給物資の探索をさせないためである。そして皇帝は待つことにして腰を落ち着かせる。

これがドロストロンの状況であった。

13.
クロパラテスのレオンとその息子ニケフォロスは引き離されたようであったが、既に述べたようにその目は傷つけられていなかった。レオンらは今ひとたび帝位簒奪を企てる。

彼らは、帝都の守備兵と宮殿の衛兵を買収した。そして予定していた準備が全て整うと、借りた船に乗り、追放先の島から出航する。レオンらは帝都対岸のペラミュスと呼ばれている土地に至り、そこから最初の夜明けにビュザンティオンに入る。

ところが共謀者の一人がレオンに帝都のある状況を告げた。艦隊の司令官が主司祭のバシレイオスとともに宮殿を守っていて、クロパラテスとその息子を捕らえるために部隊を出したというのである。このことを知るとレオンらは、ハギア・ソフィアへ逃げ込んだ。しかし、彼らは教会から引きずり出されプロテ島へ送られ、その地で目をくりぬかれた。

当時、ある記録すべきことが起こった。一人の元老院議員の庭にプロコンネソスの大理石でできた飾り板が転がっているのが見つかったのである。より美しい面の方には、二人の人物の姿が描がれていた。一人は男、もう一人は女である。飾り板の上の縁には、次のような語句が刻まれていた。

「キリストの友 ヨハネス、テオドラ両陛下万歳!」

一部の人々は実際の姿が(飾り板に)正確に描写されているのを見て驚く。しかし他の者は、それを人を欺いてたらしこむ、いかがわしい物であると考えた。土地の所有者はこの術策で、あるいは皇帝に気に入られようとしたのかもしれない。(これについて)あれこれ言われているが真実については、何とも言えないように思う。

14.
スキタイ人らは、城内の糧食の欠乏に悩まされ、外からの攻城兵器、とりわけ、ロマノス・クルクアスの息子でマギストロスのヨハネスが詰めて守っていた一角から苦しめられていた。そこの投石機が大きな損害を城内に与えていたのである。

そこでスキタイ人は、最も勇ましい重武装した男たちを選び、軽歩兵と合わせて投石機に差し向けた。投石機を無力化できるか見るためである。

クルクアスはこれを嗅ぎつけると、最も強い者を連れてともに救援に駆けつけた。スキタイ人らの真っ只中で、矢玉に傷ついて馬が倒れたためクルクアスは落馬して殺され、ばらばらに切り刻まれる。ローマ軍は突撃してルーシ人と戦い、投石機が損害を被るのを防いだ。彼らはスキタイ人を追い返し、城内へ押し込める。

7月20日、かなりの数のルーシ人らが打って出てローマ軍と交戦する。

彼らを鼓舞し、戦いへと駆り立てるスキタイ人の間で非常に著名な者があった。名をイクモロスと言い、殺されたスファンゲロスに次いで最も栄誉ある者である。その栄誉は彼が高貴な血統の生まれであるために有していたものではなく、単に彼が好まれていたから有していたものでもない。彼はひとえにその優秀さによって尊敬されていたのである。

クレタの首長 クルペスの息子アネマスは、皇帝の護衛の一人であった。アネマスはイクモロスが乱戦の中で勇敢に戦い、他の者にも同じように奮戦するように鼓舞し、彼らを駆り立てローマ軍を混乱に叩き落とすのを目の当たりにする。しかしその時、アネマスはイクモロスの力量にうろたえず、彼の力強さも恐れなかった。

彼の内なる心は燃えていた。そしてアネマスは馬を回し、太ももに下げていた剣を引き抜き、圧倒的な力を見せるスキタイ人らに突撃する。アネマスは、剣でイクモロスを左肩の鎖骨の上から切りつけ、彼の首を斬った。頭部を右腕とともに無理やりに地面へと切り落とすような有様であった。

そのスキタイ人は突っ伏して横たわっていたが、アネマスの方はといえば無傷で自陣へ戻っている。この手柄に大歓声が上がり、ローマ人らは勝利に喝采する。スキタイ人らは全くみっともないうめき声をあげた。彼らの抵抗は弱まる。

再度ローマ軍が襲いかかった時、スキタイ人らは敗走させられ、無様に街への逃げ道を探した。その日、多くのルーシ人が戦死する。隘路に閉じ込められて、他の者の足に踏み潰され、また、ローマ人に殺されたのである。夜がやって来なければスヴャトスラフ自身も捕らえられていただろう。

危機を脱した者たちは守備についていたが、その際、イクモロスの死を悼む大きな嘆き声が上がった。

ローマ人はバルバロイの死体から戦利品を奪う際に、死体の中に男装した女性が横たわっているのを見つける。男たちとともにローマ人と戦った女たちであった。

15.
戦況はバルバロイに不利になっていく。しかも味方からの支援も全く望めなかった。彼らの同胞は遠く離れていたからである。しかも、近隣のバルバロイの国はローマを恐れ救援を拒絶していた。彼らは必要な物資も不足しており、その上、ローマ艦隊が川岸を厳重に警戒していたために、どこからも補給を得られなかった。

しかしローマ人には毎日あらゆる物資が無尽蔵に湧き出る泉から来るかのようにもたらされ、その間、騎兵隊と歩兵隊は増強すらされた。

また先述の通り水路が厳重な警戒下にあったことから、[バルバロイは]船に乗って逃げることもできない。

軍議が開かれた。ある者は夜陰に乗じて密かに(ドロストロンから)離脱すべきという意見であり、別の者は、退却するより他はなく、ローマ人から誓約とその保証を得てから故地へ向かうべきという意見であった。他にも意見があり、それぞれが状況に相応しいと思うことを述べる。

しかし、誰もが迷いなく戦争の終結を願っていた一方で、スヴャトスラフはむしろ、ローマ人ともう一会戦したいと望んでいた。そして、よく戦って敵に打ち勝つか、それとも負けるかのどちらかであると――つまり、屈辱的で不名誉な生よりも、誇り高く喜ばしい死を望んだのである。

命永らえることは彼らにとって生きにくいことである。なぜなら、もし、逃げることに安全を見出すなら、それまで彼らに大きな畏怖を抱いてきた近隣の民より軽蔑されることになるからである。

その日、スヴャトスラフの意見が通った。命と全軍が極めて大きな危険にさらされることに誰もが同意した。

そこで翌日、彼らは全軍で街から打って出る。城門を閉じて誰も戻って街に避難できないようにした。そして、ローマ軍へ突撃する。

バルバロイが勇敢に戦う激しい戦いが起こった。

[重装備で、真っ昼間が近づいていたので、]酷い炎天下で、渇きに苦しみ、ローマ軍は退き始める。皇帝はこれに気付くと、従者とともに救援に駆けつけ、自ら乱戦の中に身を置いて、太陽と渇きに苦しむ兵士らにワインと水で満たされた革袋を配るよう命じた。これで彼らは、灼熱の太陽と渇きに打ち勝つことができた。

そして彼らは自らを引き締め、スキタイ人に猛烈な勢いで突撃する。しかし、敵はその衝撃に勇敢に耐えた。そして皇帝がその場所の狭さと、その地の利によって敵が抵抗できたことに気付くまで、戦いの決着は着かなかった。ローマ軍がその剛勇にふさわしい働きを示せないほど、(その場所は)窮屈だったのである。

そこで皇帝は、指揮官に平地へ退くよう命じ、街から引き上げる。そうして逃げ出す素振りを見せたのだった。

その際、急がず、それでいて時間をかけず、さらに一気に退くことになっていた。そして、追撃してくる者を引きつけ街からある程度離したら、突如として向きを変え、手綱を緩めて馬を疾駆させ、敵を攻撃する手筈になっている。

ローマ人らは命じられた通りに行動した。ルーシ人はローマ人らの後退を退却だと思い、お互いを駆り立てて大声を上げながら追撃してくる。すぐに激しい戦いが起こる。その最中、司令官であるミステイアのテオドロスが落馬する。馬が槍で傷つけられたのである。

ルーシ人が彼を討ち取ろうとしたので、ローマ人はそれを止めようとした。そのため激しい戦いがテオドロスの周辺で起こる。実際、テオドロスは落馬すると、一人のスキタイ人をベルトを掴んで、まるで小さな盾であるかのように振り回し、自身を狙う得物を避けた。

テオドロスはじりじりと、ローマ人のいる所まで下がった。結局、ローマ人はスキタイ人に襲いかかって押し戻し、テオドロスを危難から救ったのである。

その後、両軍は互いに戦いを中断する。戦闘は全く未決着のままであった。

16.
皇帝は、スキタイ人が以前より一層粘り強く戦っていることに気付く。彼は、戦いにどれほどの時間がかかっているか気にかけており、また、戦いがうまく運ばない哀れなローマ人を気の毒に思った。そこで一騎打ちで戦闘の決着を着けることを思いつく。

実際に皇帝は、スヴャトスラフに使者を送り、一騎打ちを申し込み、使者に、

「殺戮を競ったり、兵力をちびちび削ったりするくらいなら一人の死で決着がつく方が良かろう。勝った者が総取りするのだ。」

と伝えさせる。

しかし、[スキタイ人は]申し入れを受け入れなかった。スヴャトスラフは、嘲るように

「余はヨハネスと違って自分の面倒くらいは自分で見られる。もしヨハネスが生きるのに疲れたというなら、他に千ほどもくたばる方法はある。どれでも選べばよかろう。」

と答えた。そして彼はそのふてぶてしさのまま、意気盛んに戦いの準備すら始めた。

そのため、皇帝は申し合わせて一騎打ちに至るという計画は断念し、バルバロイに対して街の出入りを遮断するため、あらゆる措置を講じる。そして、マギストロスのバルダス・スクレロスと正規軍にこの作戦に専念するよう命じた。

さらに、皇帝は、ロマノス1世の孫で共同皇帝 コンスタンティノス・レカペノスの息子であるパトリキオスのロマノスとストラトペダルケスのペトロスに軍を預け、敵を攻撃するよう命じる。

これらの者は突撃して激しく戦う。しかし、スキタイ人は頑強な抵抗を示し、戦闘には幾度もの転機があった。実際、戦況はしばらく予断を許さなかった。

クレタの首長の息子 アネマスは馬を巡らし拍車をかけて前進した時、急に意を決してすぐにスヴャトスラフがいた所までやって来る。彼は道を切り開き、敵の隊列を抜け、スキタイ人の頭の真ん中に剣で斬撃を加えてその者を馬から振り落とした。しかしそれは身につけていた兜のために致命的な斬撃にはならない。

アネマスは今や、四方八方から猛攻を受け、討たれた。おびただしい攻撃の餌食になったのである。それは壮絶な戦死であった。彼は敵にさえ大いに賞賛された。

17.
ローマ軍はその時、神秘的な加護の恩恵を受けたと言われている。南で起こった暴風が、スキタイ人たちの顔面へ吹き込み、彼らが望みのままに戦うおうとするのを妨げたのであった。一人の男が白馬に跨がって全ローマ軍の前に現れ、前方へ突進して敵の戦列を潰走させ、混乱に陥れる。後にも先にもこの男を知る者はいなかった。

ローマ人たちは、彼をテオドロスという名の[二つの]輝かしい勝利をもたらした殉教者だと言った。皇帝がいつもこれらの殉教者[のイコン]を味方としてまた守護者として敵に対して用いてきたからである。そして、我々がいつもこの指揮官[聖テオドロス]を記念して祝う、まさにその日になされた戦いで起こったことでもあった。

ビュザンティオンでは、信頼できる女性がその出現は神秘の力によるものであると確認した。彼女は、聖テオドロスが出現した戦いの前日に夢を見る。(その中で)彼女は神の御母の御前にあった。そして神の御母は一人の兵士に、

「汝テオドロスよ、私と汝の[友である]ヨハネスが苦しんでいる。早く救いにお行きなさい。」

と仰せになるのを聞いたのであった。彼女は日の出の頃、これを隣人に話す。夢とはそういったものであった。

ともかくスキタイ人は追い返された。そして城門がスクレロスによって塞がれているのを見て、平原の上に散らばる。彼らの一部は互いに踏み潰されて死んだが、さらに多くがローマ人に殺され、そしてほとんど全てが負傷した。

殉教者(テオドロス)を讃え、彼による時宜を得た加護に報いるため、皇帝はテオドロスの聖なる肉体が横たわっている教会を取り壊し、寄進された麗しい土地に新たに大きくてこの上なく美しい教会を建てた。[その場所の]名前はエウカネイアからテオドロポリスへと改められている。

18.
スヴャトスラフは直ちにあらゆる方策を試みたが、毎回失敗した。自分に残された望みがないことに思い至り、講和することを考える。彼は使節を皇帝に送り、ローマの友人、そして盟友になれるよう保証を求めた。つまり、スヴャトスラフとその臣下が安全に故地へ戻ることを許され、スキタイ人が誰でも望み通り自由に交易のために[帝国を]訪れることができるという保証である。

皇帝は使節を迎え入れ、

「干戈より恩義で敵を制すのがローマの慣わしである。」

との言葉を繰り返して、全ての申し入れに同意した。

約定を締結する際、スヴャトスラフは皇帝との会談を望んで、認められる。(スヴャトスラフは、皇帝との)会見のために訪れた際、互いに何でも気ままに話して、別れた。

皇帝はまた、スヴャトスラフの要請で以下のことも認めている。

ペチェネグ人にも使節を出し、味方・同盟者として引き入れること。同盟者(ペチェネグ)はブルガリアを襲うためにダニューブ川を渡ってはならず、ルーシ人が無事に故地へ戻るために同盟者(ペチェネグ)の領土を通過するのを認めること。

(ペチェネグへの使者となる)この任に当たったのは、エウカイタの主教 テオフィロスであった。ペチェネグ人は、使節を迎え入れた時、ルーシ人の自由な通過を認めなかった以外は全ての条件に同意する。

ひとたびルーシ人が川へ出ると、皇帝は川沿いの砦や街に注意を向け、そしてローマ領へ戻っていった。

帝都のシノドの首座主教(総主教)と名のある市民たちは、賛歌と凱歌に包まれる中、冠を持って皇帝を迎えた。彼らは、四頭立ての最も壮麗な馬車を用意し、そこにその凱旋式のために皇帝をいざなう。

しかし皇帝は尊大であるよりも謙虚な姿を示すことを望み、差し出された冠を受ける一方で、凱旋の行進では(馬車に乗るのではなく)白馬に跨った。皇帝は、ブルガリア王のしるしを首都の守護聖人である神の御母が描かれたイコンとともに例の馬車に置き、先行させるよう命じる。[イコンは、ブルガリア王のしるしの上に置かれた。]

広場に至り、尽きない喝采を受けた時、皇帝は市民たちの見守る中、神の御母とその御子に感謝の言葉を捧げ、ボリスからブルガリア王のしるしである金の王冠、亜麻で織られた頭飾り、緋色の長靴を剥奪した。皇帝は、そこからハギア・ソフィアへ進みブルガリアの王冠を神へ献呈する。続いてボリスをマギストロスへと進め、その後、宮殿へ向かったのであった。

スヴャトスラフは故地へと進み、ペチェネグ人の土地を通過する際に、彼を狙った伏兵にかかる。スヴャトスラフとその全軍は完全に葬り去られた。ローマと約定を結んだために、スヴャトスラフと一緒にいたペチェネグ人も怒っていたのである。

19.
皇帝は、勝利について救世主キリストへ感謝し、その念から、新たにカルケ門の上に教会を再建し始めた。その威容と美しさのためには何物も惜しまなかった。皇帝はまた、全納税者にカプニコン(かまど税)と呼ばれる税を免除している。さらに、金貨と銅貨に救世主の像を刻み、片面に以前にはなかった「イエス・キリスト、王の王」というローマの語句を刻むよう命じた。以降の皇帝もこれを受け継ぐ。

総主教バシレイオスに対する非難が起こり、シノドによって廃された。後任にはストゥディオス修道院のアントニオスが任命されている。

20.
第3インディクティオの年の8月(975年8月)、彗星が現れ「あごひげのある者」と呼ばれ、第4インディクティオの年の10月(975年10月)まで見えた。それは皇帝の崩御と、そして取り返しのつかない損害が内乱を通じてローマの地に降りかかる前兆であった。

21.
前述のように、皇帝ニケフォロス2世によって占領され、ローマの支配下に入った街々は、今や思うままに振る舞いローマの統治を脱した。そのため皇帝は彼らへの対処に乗り出し、遠くダマスクスへ前進する。

22.
それらの一部を皇帝は説得や交渉によって、その他は兵馬と暴力によって取り戻す。そして、全てを恭順させると帝都へ向けて戻っていく。

ポダンドスを通り、他の地域を抜け、アナザルボスまできた時、皇帝は目に止まった所を視察して、そこの家産が富裕であるのに気付く。どう見てもそこは豊かであった。

皇帝はそこの人間であろう者たちに尋ね、相手から、それらの(家産)全てがパラコイモメノス バシレイオスのものであると知る。

(その者は、)

「ここの領地とあちらの領地は最近、ニケフォロス帝によってローマ領に加えられました。あちらはスコライ軍団長官によって、隣のものは、然々の者によって、後方のものはあなた様によって、これらの領地全てがバシレイオス(・レカペノス)に与えられました。」

(と言ったのである。)

にも関わらず、これらの(土地の)取得について国の財務に記録らしきものは見られなかった。皇帝は酷く戸惑い、大きくため息をつくと、

「おお、紳士よ。国費が費やされ、ローマ軍が窮乏し、皇帝が国境を越えて辛苦に耐えたというのに、その成果が一人の財産に変わるというなら、これはなんと恐ろしいことだ。宦官め!」

と、このように語った。

そして居合わせた者の一人は、皇帝がバシレイオス(・レカペノス)について言ったこと、皇帝が激怒したことを(バシレイオス・レカペノスに)伝える。そのため今度は、バシレイオス(・レカペノス)が皇帝を除く機会を探していた。

やがて、レカペノスは皇帝の酌人を甘言と贈り物で説き伏せる。彼は少しの毒物を調合した。致死性の高いものではなく、すぐに効力をあらわすものでもないが、それを飲んだ者の体力を徐々に蝕んでいくものである。この毒はワインに入れられて皇帝に出された。

皇帝はそれを飲み、徐々に体を蝕まれ、英気を失っていく。ついには、腫れ物が肩に現れ、目から多量に出血する。皇帝は首都に戻って、そしてこの世を去った。治世は6年数か月と少しであった。皇帝は生前、ロマノス2世の息子たちであるバシレイオス(2世)とコンスタンティノス(8世)を後継としている。

{ヨハネス1世は以下のような人であった。

顔は白く、血色が良かった。髪は金髪だが細く、それを額に垂らしている。目は生き生きとしていて澄んでおり、鼻は細く、よく整っていた。口ひげは赤く両側に長くのびていたが、一方であごひげはふつうの長さと厚みであった。

背は高くなかったが、胸と背中は広い。非常に力強く、手の器用さと腕力は及ぶ者が無いほどである。

英雄の気概を持ち、恐れを知らず勇敢であり、小さな体で神がかった度胸を示す。一人で全軍に突進するのをためらわず、よく多くの者を討ち取ってから自陣へ戻ってきたものである。

跳躍、ハンドボール、槍投げ、アーチェリーで当時のあらゆる人を凌駕していた。四頭の馬を併走させ、片側の端の馬に乗って馳せて鳥のように空中を飛び、最後は(反対側の端の)四頭目に跨がることができた。放った矢を輪を通して、印を付けておいた所に命中させることもできた。革のボールをガラスの容器に入れ、馬で素早く駆けてきてガラス容器を動かすことなく傷つけずにボールを棒で打って空中へ飛ばすこともできた。

人に贈り物をするのが好きで、それも大盤振る舞いをする。パラコイモメノス バシレイオスが制止しない限り、何かしら訪ねてきた者は、誰であれ手ぶらで帰ることはなかった。時折、酒量が度を超したり、また激しく肉体の快楽に熱中したりと、この種の過ちを犯すこともあった。

45歳の時にその治世が始まり、満50歳で崩御している。

信頼できるところによると、セバステイアの主教が、バシレイオス2世の統治は1月11日に始まったと述べている。}