輔祭レオン『歴史』 969-976
(ヨハネス1世の治世)

第5巻

5.
名高き大アンティオキアはローマ人に占領され、略奪を受ける。アンティオキア占領の報に皇帝(ニケフォロス2世)は喜び、神に感謝を捧げた。たまたま大天使を記念する奉仕が行われる時期に当たっており、その間、とある隠修士が皇帝に書状を渡し、すぐに立ち去ったと言われる。皇帝はそれを広げて中身を読んだ。

その文章は以下である。

――陛下、以下は神の御意志によって虫けらのごとき私に啓示されたものです。陛下は今しも過ぎゆく9月から3か月後にこの世から去られます――

皇帝は八方手を尽くして捜させたが隠修士は見つからなかった。

そして皇帝は落胆し憂鬱な気分に陥る。それからというもの全く寝台で寝る気がしなくなった。床に豹革と緋色の毛布を広げ、そこで眠ることにし、おじの外套で体を覆う。おじは修道士のミカエルで姓をマレイノスといった。主の祭日がやってきた日にはこうしたものの上に寝ることを習慣にする。そして皇帝はキリストの汚れ無き聖体を拝領することを望んだ。

こうした日々が流れる中、皇帝ニケフォロス2世の父であるカイサルのバルダスが世を去る。若年より戦列にあって年を経て、戦争では英雄のような手柄を立てて自ら数々の勝利の栄冠を手にし、90年以上の年月を生きたのであった。

皇帝は身罷った父を弔い、その遺体を宮殿から父の屋敷へと護送して棺の中に安置する。その屋敷は街の南側、海に続く通りの急坂に面しており、ソフィア港が広がる場所にあった。

数日後、皇后のテオファノが内密に皇帝に近づく。皇帝は父を亡くした悲しみが落ち着いたところであった。皇后はいたって言葉巧みに話し、マギストロスのツィミスケスとあだ名されるヨハネスに成り代わって、ひたすら頼み込んだ。心の底から哀願し、適当と思われる口実をつけて提案して言う。

「陛下、あなたは相応しい調和と平静で全てを司っておいでです。あなたご自身が物事の正確な基準であり、思慮分別の最も高潔な鑑でいらっしゃいます。なぜ、陛下は見損なっていらっしゃるのですか? 先祖以来の輝かしい血統をもった甥御を。彼は勇敢で剛毅です。戦で名をあげ、無敵の人です。それが快楽に溺れ、放蕩に過ごし、無為な存在になっております。彼は激しく血が騒いでおり、人生の盛りにあります。

もしも同じようにお考えなら、彼にすぐに滞在先を離れて私たちの下へ来るように、高貴な家の妻を娶るように、お命じください。ご存知のように、彼の前の正妻は苦しみながら、四肢が衰えて既に亡くなっています。

陛下、正しい忠告をする者をお受け入れください。戦争での勇敢な働きで誰からも讃えられているあなたの家族たる者が、口さがない者たちの嘲笑や皮肉に晒されるようなことをお許しにならないでください。」

と。

6.
こうした言葉で懇願すると、ほとんど皇帝は欺かれた。皇帝は彼女の美しさにすっかり参ってしまっていたので、必要以上の好意を寄せたのである。彼女は皇帝にヨハネスを呼び戻してすぐにビュザンティオンに来させるよう説得した。

帝都に着くとヨハネスは皇帝の前に現れる。毎日、宮殿を訪れるよう命じられていたので、まず帰宅し、その後は皇帝の宮廷を訪れるのを欠かさなかった。

彼は生来、向こう見ずで誰よりも大胆で、異常な努力を試みることにかけてはこの上なく冒険的だったので、皇后が用意したとある抜け道から潜入する方法を見つける。皇后と話して立案した皇帝ニケフォロス2世を宮廷から除く計画のためであった。

それ以降、ヨハネスは屈強な戦士たちを間をあけながら皇后の下へ送り込み続け、彼女はその者たちを迎えて自分の側近くの秘密の部屋に留める。陰謀によって邪悪な行いを思い立ち、恐るべき悪行を成そうと力を尽くし、奸悪な罪を犯そうと熱をあげている間、彼らはまたいつものように会い、権力の座から皇帝ニケフォロス2世を力ずくで引きずり下ろすことに決めたのであった。その後、ヨハネスは家に戻り、ミカエル・ブルツェスとレオン・ペディアシモスを呼び出して、彼らと密室で皇帝ニケフォロス2世の弑逆を企み始める。12月10日のことであった。

夜になって晩課の賛美歌の時間に、宮廷のある司祭が皇帝に書き付けを手渡したという。そこにはこのように書かれていた。

――陛下に申し上げます。恐るべき死が今夜、陛下に用意されております。嘘ではありません。皇后の部屋の捜索をお命じください。武装した男たちが捕まるでしょう。その者共は陛下の弑逆を企んでおります――

と。

皇帝は書き付けを読むと侍従のミカエルに命じて慎重に陰謀に荷担している男たちを捜索するように命じる。ところが皇后に敬意を払ってのことか、先延ばしにしたためか、あるいは神の怒りによって惑わされたためか、ミカエルは弑逆者の一団が待機している部屋を捜索しないまま済ませた。

すでに夜の帳が降りたので、皇后はいつものように皇帝の部屋へ入る。そして最近ミュシアからやって来た少女のことを話して言った。

「私は彼女たちの世話について指示するためにここを離れ、そのあと戻ってきます。ですから今は寝室に鍵をかけないでください。戻ってきたときに鍵をかけますから。」

と。

こうした言葉と共に彼女は去る。

夜の間中、皇帝はいつものように神に祈り、熱心に聖書を読み込んだ。眠りを余儀なくされると皇帝は、神人両性を備えたキリスト、神の御母、洗礼者ヨハネを描いたイコンの前に豹皮と緋色の毛布を敷き、床の上に横になる。

7.
一方、皇后によって導き入れられていたヨハネスの家臣たちは部屋を出て、剣をとって主君の到着を待っていた。そして宮殿の上の階の高欄から厳重に監視している。時計はちょうど夜の五刻をさしていた。空は激しい北風に覆われ雪が激しく降っている。

やがてヨハネスが共謀者たちと到着した。小船で岸伝いに進み、古くからブコレオンと呼ばれている所――石像が雄牛を捕らえている場所で降りる。口笛を吹くと、上の高欄から身を乗り出していた家臣たちが気付く。それは殺人者への合図だった。家臣たちは綱に繋がれているかごを降ろして、まずは共謀者全員を一度に一人ずつ引き上げていき、それからヨハネス自身を引き上げる。こうして気付かれることなく上に上がると、ヨハネスたちは剣を引き抜いて皇帝の寝室へと入った。

寝台に近づくともぬけの殻である。誰も寝ていないことに気付くと、彼らは恐怖ですくんで、高欄から海へ身を投げようとした。しかし、皇后の部屋付きの姦物が案内し、寝ている皇帝を指さす。ヨハネスたちは皇帝を取り囲み、襲いかかって足で蹴飛ばした。ニケフォロス2世が起こされて片肘をついたとき、バランテスと称されるレオンは剣で手荒に皇帝を打ち据えた。剣は眉とまぶたにぶち当たり骨を裂いたが、脳は傷付けられていなかった。皇帝は傷の激痛に大声で叫ぶ。

「神の御母よ、お助けあれ!」

皇帝は隈無く血で覆われ朱に染まった。ヨハネスは皇帝の寝台に座り、皇帝を自分の下へ引きずり出すよう命じる。引きずり出された皇帝は弱って床に倒れていた。皇帝は跪くことさえできない。剣で打ち据えられて、その強大な力を奪われていたのである。

「お前は最高に恩知らずで悪意ある暴君だ。お前はローマを支配することができたが、その力は私のおかげで手にしたものではなかったか? どうしてお前はその親切を無視した。どうして妬みと底意地の悪い狂気に取り憑かれた。どうしてためらいもなくおまえの支援者たる私から軍の指揮権を奪ったのだ? 教えてくれ。

それと引き替えにお前は私を罷免した。田舎で農民と無為な時間を送らせようとした。何の権利もない異邦人のようにだ。私がお前より勇敢で意気盛んであろうともお前はそうした。敵軍は私を恐れている。しかも今、私の手からお前を救える者は誰もいない。

ここで弁解できることがあるなら言ってみろ。」

8.
守る者もなく、既に意識が遠のいていた皇帝は神の御母に助けを求め続ける。しかしヨハネスは皇帝のあごひげを掴んで容赦なく引っ張り、共謀者たちは残虐に皇帝の顎を剣の柄で砕いた。ぐらついた歯は揺さぶられ殴られて顎の骨からこぼれる。共謀者たちが皇帝を苦しめると、ヨハネスは皇帝の胸を蹴飛ばし、自らの剣をかざして皇帝の脳天にまっすぐに突き通して、他の者にもその人を攻撃するように命じた。彼らは容赦なく皇帝に斬りかかる。そしてその一人がアクーフィオンという武器で背後から胸まで刺し貫いた。

これは鷺のくちばしによく似た長い鉄の武器である。とはいえ天は鳥にまっすぐなくちばしを授けたので、その形状はくちばしとは異なっていた。アクーフィオンは緩やかな弧を描いて広がっていき、鋭い先端で終わる。

それが皇帝ニケフォロス2世の人生の最期であった。享年57、帝権を握ることわずか6年と4か月であった。

ニケフォロス2世は勇敢さと体力において疑いなく同世代のあらゆる者を凌いでおり、戦争において極めて経験豊富で精力的である。あらゆる仕事において頑固一徹で肉体的快楽に動揺したり、腑抜けになったりしなかった。肝がすわっていて、国政に非凡な才を発揮し、最も高潔な裁判官にして揺るぎない立法者であって、こうした問題に生涯全てをかけるあらゆる人々に劣らない。厳格で祈りの時も神に向かい夜通し立ち続けて行う苦行でも直立不動で、賛美歌を歌う時にもその心は揺るぎなく、日常のことに惑わされなかった。

多くの人はニケフォロス2世の欠点だと考えたことだが、彼は誰もが妥協することなく美徳を守り、潔癖なまでの正義を保つことを望んでいたのである。そのためこうした目標を追求することに厳しく、悪事を働く者に容赦がなく過酷で、無節操に生きていたい人々を悩ませた。

もし、悪しき定めがニケフォロス2世の栄華を妬むことなく、突然にその命を奪っていなかったなら、ローマ帝国は以前にも増してより大きな栄光を手にしただろうと言っておこう。

けれども神の御意志は人々の残酷で傲慢な精神を厭われる。その測りがたい判断で人生の航路を都合良く操って、そうしたことを打ち減らして妨げ、何も出来ないようになされるのであった。

9.
ヨハネスは神をも畏れぬ、この罪深く忌まわしい行為の後、宮殿の見事な広間へ赴く。そこはクリュソトリクリノスと呼ばれる部屋である。足には緋色の長靴を履き、玉座に座った。そして国政に注意を傾ける。国政を掌握するためであり、皇帝の親族が自分に背かないようにするためである。

ニケフォロス2世の護衛が聞きつけた時には、弑逆は成り、手遅れだった。彼らはまだ皇帝が生きていると信じて皇帝を守ろうと駆けつけ、鉄扉を全力でこじ開けようとしたのである。しかしヨハネスはニケフォロス2世の首を持って来させ、窓越しにそれをニケフォロス2世の護衛たちへ見せるよう命じた。アツュポテオドロスと言う名の男がやってきて(ニケフォロス2世)の首をかき斬り、いきり立つ者たちにそれを見せる。恐るべき信じがたい光景を目の当たりにすると彼らはその手から剣を取り落とし、節を曲げて、ヨハネスをローマ人の皇帝と称した。

ニケフォロス2世の体は雪の中、一日中、外に横たえられている。12月11日の土曜日のことであった。夜遅くになってやっとヨハネスは葬儀のためにニケフォロス2世の遺体を運び出すように命じている。即席の木の棺に急いで遺体を収めると、深夜、聖使徒教会に運び、神聖にして名高いコンスタンティヌス大帝が横たわって眠るこの場所にある皇帝の石棺の中に埋葬した。

しかし正義は卑劣な男たちの残虐な行為を肯定しない。後に全員に報いがやって来た。弑逆に密かに関わった者は皆、財産を没収されて困窮し、惨めな状況でこの世を去ることになっている。

皇帝ニケフォロス2世の業績と人生と死については十分に述べたと思う。私は、物語に過度の時間を費やし、それを長く引き伸ばすことは、偶然の出来事さえも調べずにはおけない人たちのやることで、過度に詳細で冗長な作家の特徴であると信じている。

従って私はここでニケフォロス2世とその業績については終えようと考えた。そして生きる上で役に立つ記憶に留めるべき業績が忘却の彼方に消え去ってしまわないように、力の及ぶ限りヨハネスの成しえたことを語ろうと思う。彼はツィミスケスとあだ名された。それはアルメニアの方言による名前であり、ギリシャ語にすれば「ムザキツェス」となる。とても背が低かったためにこの名を得たのであった。

第6巻

1.
既に述べたような形で皇帝ニケフォロスが弑逆された後、ツィミスケスとあだ名されるヨハネスは帝国を統治するようになる。

創世紀元6478年、第13インディクティオの年の12月11日土曜日(969年12月11日)の夜明け、第四更のちょうど初め、選り抜きの軍団が街の大通りを抜け、ヨハネスを先帝ロマノス2世の息子と共にローマ人の皇帝として歓呼した。

彼らの後にバシレイオス(・レカペノス)が続く。皇帝ロマノス1世がスキタイ人の女性との間に儲けた庶出の息子で、プロエドロスという極めて高い爵位を有する人物であった。プロエドロスの位は皇帝ニケフォロス2世が彼に与えるために創設したものである。プロエドロス バシレイオスはたまたま宦官であったが、それでもなお並外れて精力的で、切れ者であり、臨機応変の才の持ち主であった。バシレイオス・レカペノスはヨハネスに好感を持っていたので彼と共謀し、初め病気のふりをしていたが、後には本当に病臥することになったのであった。彼は夜の内にニケフォロスの弑逆を知ると、勇敢な若者たちの集団からなる先述の軍団の者たちの後に続き、ヨハネスを尊厳者、ローマ人の皇帝と称する。その後、彼は宮殿に戻ってパラコイモメノスの位を拝し、国政を司るヨハネスを輔けた。

ヨハネスとパラコイモメノスはいかなる方針が良いか相談すると、直ちに

――反逆や略奪は禁ずる。何人たりともそのような企てをする者は首から上が無くなる危難に陥るであろう――

という命令と布告を都全域に発している。この布告はビュザンティオンの住民たちをすっかり震え上がらせた。敢えて問題を起こすような者はおらず、布告に歯向かう者もいなかった。通常、このような場合には、ニケフォロス2世が皇帝を称した時のように、民衆の中でも怠け者で貧しい者たちが財貨を略奪し、家々を破壊し、あまつさえ時には同胞である市民を手にかけることすらあった。だが、ヨハネス1世の布告は、そうしたことを予期し、一般市民らの抑えがたい衝動を押さえ込んだのである。

2.
状況はどう転ぶかわからなかった。ニケフォロス2世の弟でクロパラテスの爵位にあるレオンが自邸で眠っていたのである。

レオン・フォーカスは莫大な金を持っていた。兄が弑されたという報に接した時、市民の支持を勝ち得るため彼はその金をばらまくべきだった。簒奪者への復讐を勧めるべきだった。レオンにその考えがあれば、血を見ずにすぐにでもヨハネス1世を宮殿から追い出せただろう。彼らにはニケフォロス2世から与えられた官職があったし、戦闘準備の整ったレオン麾下の者たちの軍がビュザンティオンの都にあったからである。レオンが抵抗と反撃を望めば、誰もが味方になっただろう。しかし不幸にも動転した彼はそういったことを考えもせず、急げるだけ急いで神の叡智の教会(ハギア・ソフィア)へ入った。国内の情勢は運となりゆきに委ねられたのである。いずれにせよ、日の光が地平を照らす前にヨハネス1世はニケフォロス2世が任命した者を罷免した上で、自身の手の者を政府の最も重要な役職に就けた。(その役職は)プライトール(法務官)、ドゥルンガリオス・トゥー・プロイムー(中央艦隊司令官)、ドゥルンガリオス・テース・ビグラス(中央軍の軍団一つ、ビグラ軍団の長官)、「夜警長官」と呼ばれる役職である。

ヨハネス1世は罷免した者たちとニケフォロス2世の親族をそれぞれの所領に蟄居させた。身の安全を保証した上でニケフォロス2世の弟でクロパラテスのレオンとその息子でパトリキオスの爵位にあるニケフォロスはレスボス島にあるメテュムナへと追放する。さらに全地域の統治官を罷免して麾下の者と交替させた。

同時にクロパラテスのレオンの息子であるバルダスの指揮権も剥奪されている。彼はパトリキオスの位にあり、ドゥクス(方面軍司令官)としてカルディアの境界にあったが、これをアマセイアへと追放したのであった。ヨハネス1世はあらゆる疑わしい要素を排除して宮殿で時を過ごす。帝国の統治を引き受けた時、彼は45歳であった。

3.
ヨハネス1世の容貌は次のようであった。色白で血色が良く、金髪で前髪は薄い。両目は雄々しく輝き、鼻は薄く均整がとれていた。顔の上部のひげは赤く、横長に流れている。適度な長さと大きさのあごひげに満遍なく覆われていた。胸と背中は広かったが、背は低い。

その強さは凄まじく、その手は至って器用で圧倒的な腕力を備えていた。彼にはまた英雄の気概があり、恐れを知らず、冷静沈着である。小さな体で自然の摂理を超越しているかのような勇気を見せた。一人で敵の全軍に挑むことを恐れず、多くを殺してから無傷の内に恐るべき速さで自軍の密集陣へと戻ってくるのである。

彼は跳躍、球技、槍投げ、弓矢において同世代のあらゆる者たちを凌いでいた。乗り手を乗せて四頭の馬を併走させ、一方から鳥のように飛んで最後の馬に跨がることができたと言われている。矢を放つ時、輪の中を通せるほど狙いがしっかり定まっていた。その腕前はホメロスによって讃えられた(12本の)斧の頭(にある穴)を射通した島民(オデュッセウス)を凌いでいた。ガラスの器に革のボールを置いて馬を駆り立て、器を動かさず、また傷付けもせず、壊しもせずに棒でボールを飛ばすことができた。

彼は非常に気前が良い。そのためがっかりして去るような誓願者はいなかった。誰にでも親切でやさしく、預言書に記されているような善行によって恩恵を与えた。パラコイモメノスのバシレイオスが制止しなければ、ヨハネス1世は同胞のために尽くそうとする衝動に突き動かされ、貧窮者への贈与で帝国の国庫を空にしてしまっただろう。

ヨハネス1世には、酒量が度を越したり、肉体的な快楽に溺れるといった過ちもあった。

4.
こうして帝国と帝権を7日の間に獲得すると、ヨハネス1世は通例通りに総主教から帝冠を受けるため、神の叡智の聖なる大教会(ハギア・ソフィア)へ赴く。政権が大きく変わるといった場合には多くの混乱や騒乱の火の手があがるのが普通であるのに、この時はどういうわけか秩序と深い静寂が人々を制し、皇帝ニケフォロス2世とその護衛の一人が殺されただけであった。他には誰も平手打ちすら受けなかったのである。誰も考えもしなかった事態であった。

新たにローマの支配に乗り出す人々は、その教会の説教壇に上り、現に総主教の地位にある者から祝福を受けて、戴冠するのが慣例である。当時、総主教の地位を占めていたポリュエウクトスは年を重ねてなお熱い精神の持ち主であり、皇帝に対して

「アウグスタ(テオファノ)を宮殿から追放し、皇帝ニケフォロス2世を弑逆した者が誰であろうとその者を指弾し、ニケフォロス2世の布告によって不当に廃止された権利をシノド(教会会議)に戻すまで教会に立ち入ることはできない。」

と宣告した。

ニケフォロス2世は自身の考える方法によって最善の教会運営を取り戻すか、教会の問題について自身が権限を持つことを望んでいた。また越権行為によって教会運営において自身の承認無く何らかの行動をとることを禁じる布告を作成するよう高位の聖職者たちに強制していたのである。

ポリュエウクトスはこういった条件を皇帝に提案した。提案が通らないのであれば、皇帝が聖域に立ち入るのは受け入れられない話であった。この最後通牒を受けて皇帝は宮殿からアウグスタを排除してプロテ島へと追放し、ニケフォロスの布告をシノドへ返還させている。そしてレオン・バランテスを指弾し、他の者はニケフォロス2世の弑逆者ではなく、弑逆計画者でもないことを誓った。

こうしてヨハネス1世は聖なる教会に立ち入ることを許され、ポリュエウクトスから帝冠を受けると、宮殿に戻って多くの兵士や民衆から歓呼を受けたのである。

5.
その後、ヨハネス1世は代々の遺産を半分に分けるために休暇と余暇を利用する。先祖によって多くのものが遺されていたのである。ヨハネス1世は名門の出で、父方の系統は高貴であり、母の系統から見れば皇帝ニケフォロス2世の甥にあたる。また帝国から土地を与えられてもいた。数々の勝利によって豊かになっていたのである。

ヨハネス1世はその半分を近隣の農民に分け与え、残りをビュザンティオンの対岸にある癩病患者の病院に与えた。古い建物に聖なる病である癩病で苦しむ人々のために新しい建物を付け加えて(受け入れられる)患者の数を増やしたのである。そして患者たちを訪ね、黄金を与えた。ヨハネス1世は非常に繊細な審美眼の持ち主であったにもかかわらず、病気に襲われた彼らの潰瘍を生じた四肢になるべく眉をひそめないようにした。ヨハネス1世は身体的苦痛を被っている者たちを非常に情け深く思いやった。彼らに会う際には皇帝としての尊厳の重さとその身に緋衣をまとう華々しさを良しとしなかった。

皇帝はまたテマ・アルメニアコンの租税と賦役を免除している。皇帝がそこの出身だったからである。

元老院議員と高貴で名高い市民らが皇帝から俸給を受ける際には、皇帝は自然とその気前の良さと情の深さによって俸給を受けるべき者には誰でもその額を増やした。

6.
皇帝ニケフォロス2世が占領したオロンテス河畔の大アンティオキアは、総主教を失っていた。かつてハガレノイ(アラブ人)の支配者が使徒に連なる神の啓示を受けた総主教クリストフォロスを槍でその胸を突いて殺したのである。救世主キリストを信仰していることを罪とされたのであった。ヨハネス1世はこの街に花婿を見つけることが極めて大事と考え、この高い聖職者の地位にふさわしいものを探し出すことに熱意を傾ける。考え込むうちにコロネイアのテオドロスのことが思い浮かんだ。この者は幼い頃から孤独と瞑想の生活を選び、苦行によって自らの肉体を制御した人物である。その体を苦しめるために鉄を身につけており、それをぼろぼろの毛編みの修道服をまとって隠し、服は細切れになって役に立たなくなるまで脱がなかった。

この修道士はまずニケフォロス2世、次いでヨハネス1世の皇帝即位を予言したと言われる。その頃、テオドロスはビュザンティオンにいた。そこでヨハネス1世はテオドロスを総主教ポリュエウクトスと総主教と共に寝起きする主教らの下へと連れて来て鑑定させた。世俗的な教育はいまひとつであったが、我らが神の学問については完全に通暁していたことが明らかになったので、ヨハネス1世はテオドロスをアンティオキアの総主教に任じる。

ポリュエウクトスはテオドロスが選任された数日後にこの世を去った。彼は神の知識と人間の知恵、磨き抜いた学識と同様に、その徳行の追憶を教会に遺している。ポリュエウクトスが総主教として13年の間、教会を導き、安らかな眠りについた後、皇帝ヨハネス1世は徳目と品格において多くの者を凌ぐような人物を総主教の座につけたいと切望していた。そこで翌日、主教らと元老院議員らを宮廷に招いて、以下のように述べる。

7.
「余はただ一つの権威を認識している。それは至上にして第一のものである。それは目に見えない世界と目に見える世界の体制を無から生み出した。

しかし、下界であるこの世において、この地球上においては二つの権威があることを知っている。聖なるものと皇帝の統治である。創造主は前者には我々の精神についての責務を、そして後者には我々の物質を導く責務を与え給うた。故にこれら精神と物質には欠陥がなく、全てが保たれ、損なわれてもいない。

従って教会を導く者がその人生を全うした以上、あらゆる人々の上にある神に関わる聖職を任じるのは、見逃すもののない神の目の仕事である。神は人類が考えを巡らせる前に既に人類の行く末をご存知なのである。余は自らこの者を教会の玉座に進めることとした。この者があらゆる美徳に恵まれた者であることには疑う余地がないと昔から思っていた。この者は神より先見の明を授かっている。その生涯を薄暗い曲がり角で過ごすことはあるまい。この者は神の啓示の声から、将来起こる多くの出来事を余に告げたのだから。」

皇帝はこのように語り、集まっていた者たちの中から修道士バシレイオスを連れ出す。彼は幼少期から孤独な生活を選び、オリュンポス山の斜面で苦しい修行を行い、多くの偉業を成し遂げた。

皇帝はバシレイオスに総主教庁へ来るように命じる。翌日――教父らが聖なるイコンの崇拝について正統派の信条を確認したのと同じ日曜日――バシレイオスは高位の聖職者たちとともに聖油の塗布を受け、全地総主教を称した。

8.
多くの懸念によって皇帝ヨハネス1世は頭を悩ませていた。真っ先に注意を払わなければならないような疑念に襲われていたのである。とはいえ(その解決に当たって皇帝は)正しい道を外れてはいない。

食料不足と深刻化する飢饉によってローマ帝国は三年に渡って荒廃していた。楽観視しえないルーシの侵入もあり、ローマが占領したばかりのシリアのアンティオキアにはカルタゴ人とアラブ人の攻撃もあった。

皇帝はあらかじめ市場から食料を集めて被害の拡大を防ぎ、輸入によってうち続く深刻な飢饉に終止符を打つ。東方では軍を揃えてパトリキオスのニコラオスに指揮を執らせてハガレノイの攻撃を防いだ。ニコラオスは皇帝のお抱えの宦官で百戦錬磨の人であった。

ルーシ軍の指導者スヴャトスラフとは交渉を行うことにした。皇帝は大使を派遣してスヴャトスラフに伝えさせる。

「ミュシア人(ブルガリア人)を攻撃するために皇帝ニケフォロスが約束した金を受け取るべきである。自らの領土とキンメリア人のボスポロス(ケルチ)に戻り、ミュシア(モエシア)を放棄すべきである。そこはローマ人のものであり、古くからマケドニアの一部だったのだから。」

ミュシア人というのはクトリグル、ハザール、クマンの移住者たちのことである。彼らは元々の居住地からヨーロッパへとさまよい入り、ポゴナトスとあだ名されるコンスタンス2世がローマ皇帝だった時代にミュシアの地を占領して住み着いたと言われる。彼らはブルガロスという族長の名前からその地をブルガリアと呼ぶようになった。

ミュシア人については大体以下のような話も残っている。ローマ皇帝ユスティニアノス2世はレオンティオスによって鼻を削がれケルソンに追放されていたのだが、なんとか謀を巡らして追放先から逃れた。その際、マイオティス(アゾフ海)にやって来てミュシア人と協約を結ぶ。協約ではミュシア人がユスティニアノス2世を帝国に戻すことができれば莫大な褒賞が得られることになっていた。ミュシア人はユスティニアノス2世に従い、歓迎される。ユスティニアノス2世は帝国の支配権とイストロス(ドナウ川)に面したマケドニアの地を取り戻した。その地へ移動した後、ミュシア人は絶えずローマ人に対して戦争を仕掛け、ローマ人を捕虜にしている。常に戦争を望み、トラキア地方を襲った。ローマ人が逆襲すると、ミュシア人はその力に抗うことができず、難攻の地で戦うべく深い茂みへと入る。こうしてその時から数々の戦争が起こり、勇敢な将軍たちが殺され、皇帝ニケフォロス1世は戦闘でミュシア人に討ち取られたのであった。

ミュシア人を破ったのはコンスタンティノス5世コプロニュモス、その孫で女帝エイレーネーの子 コンスタンティノス6世、そして当今のヨハネス1世だけだと言われる。ヨハネス1世は武力でミュシア人の街を従えた。ミュシア人の地でミュシア人に打ち勝ったローマ人は他には記録されていない。以上のような話である。

10.
スヴャトスラフはミュシア人に対する勝利によって大いに増長した。野蛮な傲慢さを見せて傍若無人に己を誇った。彼は今やしっかりとミュシアの地を確保していたのである。

人々はスヴャトスラフが武力でフィリップポリスを奪い取った際、残虐にも街の2万人の者たちを杭にしばりつけ晒したという。彼はこのようにしてあらゆる敵を恐怖させ合意を取り付けるのである。スヴャトスラフは生来の残虐さでミュシア人を恐怖に叩き落し、打ちのめして服属させたので、ローマの使節に尊大で不遜な返答を寄越した。

――莫大な金額の見返り、そして戦争で得た街と捕虜の身代金の支払いがない限り、この豊かな土地の権利は放棄しない。もしローマ人が支払いをしないのであれば、もはやヨーロッパはお前たちのものではなくなる。そこから引き上げてアジアへ移るべきである。どんな状況であれタウリスキタイ(ルーシ)がローマと合意すると思ってはならない――

皇帝ヨハネス1世はスキタイ人からのこうした返答を受けて、先の使者を通じて次のように返す。

――我らは和平について全てを導く神によるものと信じており、キリスト教の伝統を誇りに思っている。故に神が仲立ちし、父祖よりそのままに受け継いだ和平を破ることが正しいとは思わない。

従って我らは貴殿に対し、引き延ばすことなく躊躇うことなく直ちにその地から離れるよう忠告する。その地は断じて貴殿のものではない。貴殿がこの意義ある忠告に従わないのであれば、古くに定められた約定を破るのは我らではなく貴殿だということは明らかである。

我らはキリストを、不死の神を信じているので以下の返答が高慢なものとならない事を望むが、貴殿がその地を離れないのであれば、否が応でも我々によってそこから追い払われることになるだろう。

貴殿は父イーゴリの間違いをよく知っているはずだ。誓い交わした約定を軽んじて大軍と幾千の小船を浮かべて帝都を襲おうとしたが、10隻ばかりの船でキンメリアのボスポロスに引き返すことになった。彼を襲った災難の運び手は彼本人である。イーゴリが後にゲルマン人への遠征で捕らえられ、木の幹にきつく縛られて二つに引き裂かれたときのような悲劇的な最期だけは容赦しよう。

余は貴殿に降りかかる恐ろしい運命を告げておく。もし貴殿に対してローマ軍を差し向けさせようというのなら、貴殿も故国には帰れないだろう。貴殿は味方全軍とともに殺され、生け贄に聖なる火を運ぶ司祭すらスキタイの地には戻れないだろう――

スヴャトスラフはこの返答に激怒する。我を忘れて怒り狂い以下のように返した。

――ローマ人の皇帝が我らに向かってくるのは不要不急のことと見受ける。それゆえ、この地に来る皇帝は疲れる(までこの地で戦う)ことはないだろう。すぐに我々がビュザンティオンの門前に布陣することになるからである。頑強な柵が街を取り囲むであろう。皇帝が敢えてそんな大きな戦いをするというなら、我らは打って出た皇帝に勇敢に相まみえるであろう。

我らは日々の暮らしのために手働きする者ではなく、武器をとって敵と戦う血に飢えた戦士であると皇帝に知らしめることになるだろう。にもかかわらず皇帝は無知にもルーシの兵士たちを甘やかされた女のようなものだと信じ込んでいる。我らがお化けを怖がる乳児であるかのように、こんな脅しで怖がらせようとしている――

11.
スキタイ人のこうした常軌を逸した言葉を聞いて皇帝はスキタイ人の攻撃を予期し、帝都へのスヴャトスラフの攻撃を阻止しようとしたのであろう、すぐさま最大限の熱意を持って戦争に備えることに決めた。こうして皇帝は直ちに勇敢で屈強な者たちの部隊を選抜すると、彼らを「不死部隊」と称して、近侍するよう命じた。

皇帝はマギストロスのバルダスとパトリキオスのペトロスを選抜する。バルダスは姓をスクレロスといい、皇帝の亡くなった妻マリアの兄弟であり、精力的で強健な人物である。ペトロスはその生来の剛勇と英雄的な功績によって皇帝ニケフォロス2世からストラトペダルケス(司令長官)に任命されていた。かつてスキタイ人がトラキアを襲った際、ペトロスは宦官であるにもかかわらず麾下の部隊と共にスキタイ人と激戦を交わしたと言われる。

スキタイ人の指揮官は大男で、すっかり鎧に身を包んで戦場へ乗りだし、長槍を振り回して自分との戦いを望む者に挑み掛かっていた。ペトロスは驚くべき勇気と気迫に満ちており、拍車をかけて急激に馬を駆り立て、槍を激しく振り回すとそれを両手でスキタイ人の胸に突き出す。その力は凄まじかった。槍がまっすぐ突き抜けて穴を開け、スキタイ人の背中まで突き出るほどだった。鎖帷子の胸当てはそれを阻むことができなかったのである。大男は声もなく地面にたたきつけられ、スキタイ人らは敗走へ移った。目にしたこともない未知の光景に驚愕したのである。

皇帝はこれらの将軍らに命じた。皇帝の軍を率いてミュシアに隣接する地域に進軍すること。そこで冬を過ごして軍を調練し、スキタイ人の急襲からその地をわずかな損害も蒙らないように用心深く見守ること。そして、二か国語を話せる者にスキタイ人の服を着せて敵の陣と住居へ送り込み、敵の計画を突きとめてそれを皇帝に伝えること。

皇帝からこれらの命令を受けると彼らはヨーロッパへと渡った。

12.
スクレロスとペトロスが西方へ渡ったという報せを受けて、タウリスキタイは軍の一部を分ける。その軍に大勢のフン族(※ここではマジャール人を指す。)とミュシア人を加え、ローマ人に差し向けた。

マギストロスのバルダスはルーシ軍の接近を知った。彼は勇敢で意気盛んな男であったが、ちょうど怒りとわき上がる力に駆り立てられて共にあった選り抜きの男たちを集め、敵との戦闘へと駆り立てる。

バルダスはヨハネス・アラカス(アラカッセウス)を斥候として派遣する。敵の規模を見積もり、どこに布陣して何をしているかスキタイ人を偵察するためである。アラカスはバルダスが戦闘に備えて軍を整え配備できるように、できる限り速やかにあらゆる報告を送った。ヨハネス・アラカスは付き従う選り抜きの者らとスキタイ人めがけて素早く馬を走らせる。翌日、使いを出してマギストロスに軍と共に来るよう促した。スキタイ人が遠方ではなく近くに布陣したからである。

伝言を受けてバルダスは軍を三隊に分けて展開させた。そして一隊には先陣にあって自分に付き従うよう命じ、他の隊には両側の茂みで待機するよう命じる。両側の隊は、戦闘へと誘うラッパの音が聞こえたら待ち伏せの場所から躍り出ることになっていた。隊長らにこうした命を下した後、バルダスはスキタイ人めがけて真っ直ぐ進み、勇敢に戦う。

敵軍は数で勝っており3万を超えていた。マギストロス麾下の者は伏兵まで含めても1万に届かなかった。

戦闘が始まると最強の男たちは両側面を襲う。ここで自身の勇敢さと体格を誇るスキタイ人の一人が部隊を離れて馬を駆り、バルダスに攻め掛かって来たという。剣をバルダスの兜へ打ち下ろしたが、兜の抵抗によって剣はそれ、その攻撃は無駄となった。

バルダスの弟でパトリキオスのコンスタンティノスはちょうどひげが伸び始めたところであったが、見事な体格で力は及ぶ者が無く、向かうところ敵無しといったところであった。彼が剣を抜き(兄バルダスの下へと)馳せ参じ、例のスキタイ人に打ち掛かる。しかし、スキタイ人はコンスタンティノスの攻撃に気付いて馬の尻の方へとのけぞって攻撃をかわした。攻撃を受けたスキタイ人の馬の首は切り離される。スキタイ人は馬もろとも倒れ込み、コンスタンティノスに討ち取られた。

13.
戦闘はこうした経過をたどり、戦況はどっちつかずのまま幾度も移り変わった。そのためバルダスは戦闘への参加を呼びかける合図を命じ、戦鼓が打ち鳴らされ続ける。その合図で待ち伏せていた軍が立ち上がり、スキタイ人の後に現れた。彼らは恐怖に駆られて敗走へと移る。

その敗走はまだ全軍に及んではいない。非凡な一人のスキタイ人が戦場を駆け巡り、勇敢に戦うよう仲間たちを督戦していた。彼は抜きんでた体格で、その鎧はきらめいている。バルダス・スクレロスは馬を駆ってそのスキタイ人の頭を打ち据えた。バルダスの剣は腰当てまで切り下ろす。兜も胸甲もバルダスの腕力や剣の斬撃に耐えきれなかったのである。彼が真っ二つになって地面にたたきつけられるとローマ人は歓喜の叫びをあげ、ますます勇猛果敢になった。一方、スキタイ人は見たこともない異常な攻撃に恐怖し、悲嘆に暮れてその密集体形を崩し、敗走へと移る。ローマ人は夜遅くまで彼らを追撃し、情け容赦なく虐殺した。

55人のローマ人がこの戦闘で斃れた。多くが負傷し、ほとんどの馬が殺されている。一方、2万人のスキタイ人が討ち取られたという。以上が今回のローマ人によるスキタイ人との戦いの最終的な結果である。

それから皇帝ヨハネス1世は軍に命じた。

「ヘレスポントス経由でアジアからヨーロッパへ渡り、トラキアとマケドニア地方で越冬せよ。兵たちは遠征の期間中、訓練を受けておらず敵との戦いに向いていないだろうから、日々武器をとって修練に努めて春を待つように。」

と。

陰鬱な冬の気配の中に春の兆しが見え始め、世界に晴天が続くようになると、皇帝は自軍を率いてタウリスキタイ人の下へと向かう。全軍をもって彼らを攻撃するためであった。

第7巻

1.
皇帝ヨハネス1世がルーシに対するこうした行動に忙殺されている間、クロパラテスのレオンの息子で皇帝ニケフォロス2世の甥に当たるドゥクスのバルダスが密かに反乱を起こし、追放先のアマセイアから逃亡した。彼に味方したのはいずれもパトリキオスで姓を出身の街パルサクタからパルサクティノスといったテオドロス、バルダス、ニケフォロスの兄弟である。ドゥクスのバルダスの従兄弟であった。

ドゥクスは夜中密かにアマセイアを脱出した後、あらかじめ手筈を整えていた何頭かの駅馬でカイサレイアに到着する。

彼は数日そこに野営した。毎日、親族や友人らが到着する。バルダスは反乱を望む愚か者たちを大勢集めた。この者らは新たな状況を喜び、夢と栄達の望み、尊貴の地位、そして配られる金に目がくらんだのである。

反乱は上述のパルサクティノス家の者の支援を受けた。彼らは非常に熱心に軍を集めている。またシュメオンも反乱を支援した。ブドウ園の耕作者で、その仕事からアンペラス(ブドウ園園丁)とあだ名される者で、よくわからない卑賤の出である。しかしアンペラスは力と逞しさに恵まれた者たちの間でも誰にも引けを取らない人物であった。

バルダスは自身の周りに軍が集結し、その軍が完璧な密集隊形に整列して敵と激戦を戦えるようになったのを見届けると、暗い色の長靴を脱ぎ捨て、すぐに緋色のものに取り換える。そして反乱軍によって公にローマ人の皇帝と宣言された。

彼はまた金の分配と尊貴の地位を約束し、皇帝がいつも気前よく支持者に与えるようなタクシアルコス(部隊長)の位や将軍の地位、名誉ある役職を指名し始める。

反乱軍はバルダスの父でクロパラテスのレオンからも支援を受けた。レオンはレスボス島で監視下に置かれていた。

レオンは島を離れるとアビュドスの主教ステファノスを通してマケドニア人に金と名誉を約束し、彼らにバルダスを迎えるよう促す。そして皇帝ヨハネス1世を宮殿から追放する計画に参加し協力するよう説得した。

2.
この反乱の報を皇帝は深刻に受け止めた。それはもっともなことであり、極めて迅速に主教ステファノスをアビュドスから連れてこさせ、法廷へ送っている。調査が行われ、計画が白日の下に晒されると、ステファノスとニケフォロスには死刑が宣告された。皇帝は慈悲の心に揺り動かされ彼らを処刑しなかった。レスボス島へ送って両目をくり抜かせたのである。

これがその時クロパラテスが企みをもってヨーロッパへ渡った結果であった。彼は自ら刑を受ける(状況に陥る)ことになったのである。そして皇帝を引きずりおろす陰謀に熱を上げていた彼の友人たちの家産を奪う結果となったのであった。

ところがバルダスはと言えば、ひとたび加わった反乱に執着して心変わりせず、周囲に集まった大軍に喜び、その大軍を誇った。そして自らが間もなく帝国を占有する夢を見る。こうしてバルダスはアジアを荒らし、自らに降らなかった人々の家々を焼き払い、誰の咎めを受けることもなく略奪した。

やがて皇帝は以下のような書状をバルダスに宛ててしたためた。

――我らはこのごろ東方で反乱が起こったことを聞いて、このように思った。これは貴殿が率先して起こした結果ではないだろう。むしろ神の狂気に打たれた貴殿の支持者の愚かしく野蛮な性質によるものであろうと。

貴殿の支持者は、反乱に取り掛かり無礼にもローマ皇帝に対して敵意を示せば、赦免の見込みはないと気付いているにもかかわらず、そうした危難に自ら飛び込むことを躊躇しない連中だったからである。かつて彼の者らは武力で鎮圧され刑吏に引き渡されたこともあった。

こちらとしては親族の血でアジアの地を汚したくはない。神の助けを賜り言わせて頂こう。我らは反逆者への報復を武力をもってなそうと思えば、すぐにでもその者らを惨たらしく虐殺するだろう。我らの攻撃の圧力に耐えるほど屈強で、恐れも、一散に逃げることも知らない者があろうか?

それ故に我らは破滅的な道よりも安全な道をとるように忠告する。赦免の可能性があるうちに武器を捨て、我らが帝国の威光に首を垂れよ。我らが証人であらせられる神はこのたびの無謀な試みに関して、貴殿に恩赦を与え、水に流してくださる。しかも貴殿の資産は手を付けられることなく侵害されることもなく残される。貴殿が中毒症状から立ち直り、その代わりに示される安全を得る機会を直ちに求めるよう勧める。

しかしもし、貴殿がいたずらに戦うことをあきらめず、反逆者の柱石となるなら、法の裁きによって死刑となる時、己の愚かしさを悔いることになるだろう――

3.
バルダス・フォーカスは書状を受け取った際、皇帝に返答しようともしなかった。それどころか皇帝を罵った。恥知らずの悪党、忌まわしき血族殺しと呼び、簒奪した帝位から退くよう言ったのである。なぜなら――彼は言う。

「祖父はカイサル、伯父は皇帝、私はそれを誇ることができた。帝権はむしろ私のものだ。絶えず見つめる正義の目をヨハネスは恐れず、床に眠る皇帝を羊のように弑したのである。

しかもあやふやで証拠のない根拠をもって父と最愛の兄弟から、すばらしい視力を奪い、二人を最悪の運命で苦しませている。

私は必ずや彼らに成り代わって正義の報復を行うであろう。気高き英雄的家族の破壊を企てた男から我が親族の血のため(シラ書で主がそうなさると言われているように)7倍にもして報いを受けさせるであろう。」

皇帝ヨハネス1世はこれらの戯言を聞くと、バルダスが度し難い程の悪徳に取りつかれ、彼に従う共謀者と共に容赦のない冷酷な略奪と殺戮へと突き進むことを願っているのだと悟った。

皇帝は決意する。もはや引き延ばしたり躊躇ったりはしないと。そうした不手際によって反乱軍に街々が包囲され、深刻な異常事態に陥る可能性があった。むしろそうした状況でできる限り激しく反撃し、逆賊に報復することにしたのである。

そこで皇帝はスクレロス姓のバルダスを呼んだ。極めて意気盛んで精力的な男である。その姉妹マリアは美貌と美徳に優れて恵まれており、かつてヨハネス1世と結婚していた。しかし、惜しくもマリアは既にみまかっていたのであった。バルダス・スクレロスはマギストロスの爵位にあり、トラキアで軍を率いている。既に述べたように、このほどスキタイ人を敗走させて勝利を収めた後、ルーシのローマ人に対する猛攻を見事に防いだのであった。皇帝はこの男を召還し、ストラテラタイ連隊(ヨハネス1世が創設した中央軍の軍団)の司令官に任命してアジアへと送り、反乱軍に差し向ける。さらに彼に、

「もし可能なら、どうしても必要な場合を除いてアジアの地を同胞の血で汚さず、反乱軍の人間を名誉の約束と、金銭の授与と、恩赦の保証で説得せよ。」

と命じた。

皇帝はまた彼に金印勅書を委ねる。そこには(反乱軍から政府軍に転向した者を)タクシアルコス(歩兵旅団長)や将軍、パトリキオスに任命する旨が書かれている。そしてスクレロスに賄賂を使って反乱軍の人間たちを心変わりさせ、簒奪者から離反させて皇帝への臣従を受け入れるよう命じた。

ボスポロス海峡を渡り、ドリュライオンに到着したストラテラテス(ストラテラタイ連隊司令官)スクレロスは軍を招集し、部隊編成を行い、日々の演習で鍛え上げる。集まった軍は敵と会戦に及んだとしても十分なほど既に非常に多かったので、義理の兄弟であるドゥクスのバルダス ――スクレロスの弟コンスタンティノスはバルダス・フォーカスの姉妹と結婚していた―― に次のように伝えた。

4.
――皇帝に厚かましく話すように貴殿は冒険的で物騒な計画を立てた。命取りになる簒奪を計画して同胞に対して武器を取っている。貴殿が率いるがさつな反乱軍の略奪で神聖な建物の構内が汚された。

パトリキオスよ、貴殿はいたずらに無敵の皇帝――眠れる獅子――を起こそうとしている。この男は戦場に現れればその令名だけで大軍を逃げ惑わせることを知っているだろう。どんな風に間違いだらけの人間から助言を受けて説得されれば、そんな破滅的な道に自ら飛び込めるというのだ?

もし貴殿が最良の忠告を行う義理の兄弟、友人の言葉として私の言葉を聞くというなら、こんな邪悪な簒奪劇とは縁を切って、代わりに安寧を得る機会を掴んでくれ。過ちについて赦しを得る方法を求めて欲しい。(今反乱を放棄すれば)皇帝や他の誰かの手によって貴殿が苦況に陥ることはないと私が保証する。しかもこの無謀な試みへの赦しは貴殿に付き従う部隊にも与えられる。悔悟の情を進んで示さない者たちに皇帝が向ける怒りを一身に集めるようなことは控えてくれ。正気に戻ってくれ。最後の命綱を離さないで欲しい。赦しを得る機会をもう求めないというのなら、いずれ自分自身の愚かしさを責めて大声で嘆き悲しむことになるだろう。赦される機会があるうちにその機会を活かして欲しい――

バルダス・フォーカスは書状の内容を読み終えると次のように返信する。

――私自身、古典を読んでいるので、その助言は見事で神聖なものと思えるが、それが役に立つのは状況に解決の余地があるときだけだ。状況が災難の瀬戸際にあり、運命が最悪の方向へ進んでいる時にはその忠告は全く価値がないと思う。

家族が不信心で呪わしいヨハネスに陥れられる運命となった。ヨハネスは眠れる獅子であった皇帝――我が伯父を弑している。我が伯父はヨハネスの恩人であったのにだ。しかも(ヨハネスは)私を無意味に追放し、無残にも冷酷に父と兄弟の目を理由もなく潰した。そうしたことを考えるにつけ人生には生きる価値はないと思う。

忌々しい敵に我が人生を委ねるよう勧めるような骨折りはやめてくれ。私を説得することはできない。

私は剣を帯びた者である。故にこの世を去った我が家族の者のために戦うだろう。

運命は両極の間を揺れ動くものだ。であれば二つの運命のうちどちらかの結果になる。私が皇帝としての栄光を手に入れて、まさに完璧な復讐を遂げるか、不運を受け入れるかのどちらかになる。そして私は忌まわしい暴君から解放されるだろう――

5.
この書状を受け取るとバルダス・スクレロスは失望した。フォーカスが狂ったかのように愚かしい行動を起こし、向こう見ずな計画を実行するのを忠告によって押しとどめようとしていたからである。そのためスクレロスはディポタモンへと進軍すべく、軍を騎兵隊と歩兵隊に編成する。

そこに到達すると、物乞いに変装させた間諜を直ちにバルダス・フォーカスの陣営に送り出した。フォーカス軍の指導者たちに皇帝の約束と反乱の試みの軽率さについて示すためである。そして反乱をすぐに止めず、皇帝に降伏しないのであればストラテラテス バルダスはフォーカス軍攻撃の機会をうかがい、その軍の人間を敵とみなすと伝えようというのであった。

フォーカス軍の指導者たちはこの言葉を聞くと成果のあやふやな暗い戦いよりも皇帝から与えられる栄誉の方が良いと考える。そして夜の帳が降りると同盟者とフォーカスを見限り、ストラテラテスの下へと投じた。そうした者の中でも著名だったのは、フォーカスの甥であるパトリキオスのアドラレストスとシュメオン・アンペラスである。

バルダス(・フォーカス)は彼らが何のためらいもなく自分を見捨て逃亡したことを知って煩悶したが、それは無理もないことであった。そして後に残る者たちに神と自分を裏切らないように求める。彼らは誓いの証人と監督者を立て、ひどく苦しい立場にある男に協力して力の限り戦わなくてはならなくなった。フォーカスはスクレロスについて、

「我らがのろまでまぬけなやり方でもしない限り、我らと接近戦を戦うことはできないだろう。」

と言った。

ところがこうした求めや懇請にも関わらず、フォーカス軍の者たちはストラテラテス スクレロスの側に付くために徐々にフォーカスの陣を抜け出していく。

夜中、反乱軍の仲間たちの逃亡にフォーカスは激しく動揺したという。彼は苦しみ、眠ることができずにダビデの言葉を繰り返しながら祈って、神の徳を讃えた。

「主よ、私を傷付ける者をお裁きあれ。」

(と唱えると)突然、空から声がして耳の辺りでうなる。ストラテラテス バルダス・スクレロスががすでに祈りの中で聖詠の同じ言葉をフォーカスに対して用いたので聖詠を続けないよう命じるものである。この声が三度、耳に響いた後、フォーカスはその奇妙な預言に驚いて、大きな恐怖を覚え、寝台から飛び起きて夜明けを待った。

6.
夜がすっかり明けるとフォーカスは自身の長靴をしっかりと見つめながら野営地の軍中を馬に乗って進んだ。そして見つめるにつれてそれが緋色でなくただの暗い色に見えるという奇妙な錯覚を覚える。フォーカスが家臣に

「なぜこんな間違いをしたのだ。皇帝の長靴と取り違えて余に普通の長靴を渡すなどと。」

と尋ねると家臣らは、

「長靴は緋色です。良くご覧ください。」

と促す。

彼は長靴に目を落とし、最初と同じように緋色であると思った。

フォーカスはこれを第2の凶兆だと考えた。その軍は一致しておらず反抗的であったので、できるだけ自分の身を守ろうと決める。そこで夜中、彼は信頼できる30名の者を連れて、密かに武装して陣を離れた。そしてアンティグスと呼ばれるテュランツの要塞への道をとる。物事がうまくいかない可能性を疑ってフォーカスはひよこ豆やあらゆる種類の飼葉を豊富に蓄え、その要塞を長期にわたって強化していた。

バルダス・フォーカスの軍が密集隊形を解いた場所は古くからバルダエッタと呼ばれている所である。ストラテラテス バルダス・スクレロスはフォーカスの逃亡を知ると馬に乗り、選りすぐりの者たちと彼を追った。

しかしフォーカスが既に要塞に逃げ込んでいることを知る。スクレロスはフォーカスを捕らえ損ねたのである。とはいえ、スクレロスは皇帝に命じられた通り、捕らえたフォーカスの仲間の反逆者らの目をくり抜いた。この不幸が哀れな男たちに降りかかったのはテュフロビバリアという場所である。

昔の人々が何かの閃きに動かされて、後に起こるの出来事にぴったりで相応しい地名を与えたことは驚くべきことのように思う。

バルダス(・フォーカス)の大叔父であるレオン・フォーカスが残酷にも目をくり抜かれた時、その刑を受けた場所の名前がオエレオン、方言でゴレオンと呼ばれたという。このように刑の場所は昔からそうした名前を付けられていたのである。そしてレオンが盲目にされた経緯を簡単に述べておくことは話の脱線ではないだろう。

7.
先頃、レオン6世が崩御すると、弟アレクサンドロスもそのすぐ後を追うこととなっている。その際、ローマ帝国はレオン6世の息子コンスタンティノス7世による不安定な統治に入った。コンスタンティノス7世はまだ乳母とアウグスタ ゾエの保護の下にあったのである。

ミュシア人の支配者シメオンは向こう見ずな男で、戦場において大胆不敵であり、ローマ人と戦うことを願って長い間うずうずしていた。彼は好機を捉えてはマケドニアとトラキアを荒らし回わっている。その上、スキタイ人のいつもの狂気によって得意になり、自分のことを皇帝と宣言するようにローマ人に命じたのであった。

ローマ人はこのスキタイ人のあからさまな思い上がりと無礼を我慢することはできず、彼と戦うことを決める。ローマ側はレオン・フォーカスを司令官に選んだ。彼は勇敢さと勝利の数々で他の者を圧倒しており、ドメスティコス・トーン・スコローン(帝国陸軍総司令官)とされていた。さらにロマノスを火を噴く船の提督に任命する。ローマ人はロマノスにドルンガリオス・トゥー・プロイムーの地位を与え、彼はこれを受諾したのであった。彼らは陸海からミュシア人を攻撃するために送り出される。

レオンはミュシアへの進軍を果たすと、目を瞠る戦果をあげ、数え切れないほどの敵を切り伏せたという。そのためシメオンは苦境に立たされて、成すべき事を見失い、こんなにも勇敢で向かうところ敵無しの男からどうやって逃れたものかわからなくなってしまっていた。

残りのミュシア人が疲弊しきって敗走へと移った時、ある報告が護衛によってレオンに伝えられたという。ドルンガリオスのロマノスが順風を受けて全速力で船を進め、帝位簒奪の野望を抱いてビュザンティオンの都へ戻ったというのである。レオンは凶報を受けて困惑し、密集隊形を解いてミュシア人に背を向けると、帝都へと急いだ。ロマノスの艦隊より早く帰還し、ローマの帝権を掴み取るためである。

シメオンはローマ人の不可解で奇妙な後退を目にして、何か策かあるのではないか、もし追撃すればミュシア人は壊滅するのではないかとしばし疑った。しかしローマ人があらん限りの速度で退却していると知ると、追撃をかけて情け容赦なく数え切れないほど大勢の者を殺戮する。

今日でもアンキアロス付近ではまだ骨の山を目にすることができる。その場所で退却するローマ軍が無様に切り伏せられたのである。

レオンのビュザンティオン到着は遅きに失し、当てが外れた。ロマノスが先に皇帝の宮殿に到着しバシレオパトル(皇帝の父)とされていたのである。レオンはアビュドスからアジアへと渡り、反乱に転じ、ロマノスと国に対して多くの問題を引き起こした。アジアの地を荒らし、その歳入を奪い去ったのである。ところがその強盗団が蹴散らされる段になると、レオンは考えを変えて逃亡に転じた。彼は捕らえられ、無惨にも両目をくり抜かれることとなったのである。

8.
これがレオンが盲目にされた経緯である。

バルダス・フォーカスは要塞へ急いでいた時、しんがりを努めていた。大胆不敵な追跡者の内の一人がフォーカスを攻撃しようと馬を駆って前進してくる。剣を振りかざして脅し文句をまくし立て、フォーカスに打ち掛かろうとした。

追跡者に降りかかった運命を憐れんだバルダス・フォーカスは、彼にできるだけすぐに退くように勧める。

「ともあれ、お前は運命が移ろいやすいあやふやなものであることに注意すべきだ。災難に苦しむ者に苦しみの上塗りをすべきではない。それはお前の命取りになる。」

だがその男はフォーカスの言葉をでたらめな戯言だと受け取ってさらに近づき、彼に打ち掛かろうとした。バルダスは脇につり下げていた棍棒を掴むと突然向き直り、男を兜の上から打ち据える。兜も頭もへし砕かれた。男は声もなく地面に投げ出される。こうしてフォーカスは無事に要塞にたどり着くことができたのである。

要塞を囲むとストラテラテスでマギストロスのバルダス・スクレロスは、バルダス・フォーカスに皇帝の温情を請い、要塞から出来るだけ早く出てくるように勧めた。

絶望的立場に立たされ、ひどい苦境にあったため、フォーカスは良く良く考えて、運を天に任せ、仮に自分と愛する者たちが恩赦を受けられるようであれば皇帝に降伏しようと決めた。そこで彼はすぐに(自分たちが)喜ばしくない運命に苦しまずに済むという誓約を求め、その誓約をスクレロスから得た後、妻子と共に要塞を出たのである。

フォーカスらを迎えるとスクレロスは彼らに危害を加えることなく、皇帝に事の次第を報告して、どうするべきか指示を仰いだ。

皇帝ヨハネス1世はバルダス・フォーカスを修道士として剃髪させ、妻子と共にキオス島へ追放するように申し渡した。そしてスクレロスには軍を率いてヘレスポントスからヨーロッパへ渡り、そこで陣を構築して越冬するように言い、もはやスキタイ人の野放図な傲慢に耐えることは出来ないので春になれば皇帝自らが選り抜きの護衛を引き連れてスキタイ人に対して遠征を行うだろうと告げた。

9.
既に述べたようにバルダス・フォーカスによる反乱の火の手に対して、皇帝はストラテラテスのバルダス・スクレロスをヨーロッパからアジアへと渡らせたが、そのことを聞いたスキタイ人はローマ人をひどく苦しめた。彼らは突然、侵入してマケドニアを略奪し荒らし回っている。それはマギストロスでクルクアス姓のヨハネスがそこの軍を指揮していた頃からのことである。スキタイ人はひどく怠けて、酒量を過ごし、未熟で馬鹿げたやり方で状況に対処していた。そのためルーシ人には傲慢で、ずぶとい心持ちが高ぶっていたのである。

うぬぼれが強く無礼で、どこまでも尊大なルーシ人に耐えかねた皇帝は全力を挙げ、接近戦で彼らを抑え、粉砕しようと考えた。

皇帝はギリシャ火を搭載した三段櫂船を脚荷と大量の穀物、軍馬の飼料などの積荷で安定させ、補給船で軍の武器を十分にアドリアノープルへ移送するよう命じる。ローマ人が戦っている間、どんな物資も欠乏しないようにである。

こうした準備が整う間、ヨハネス1世はテオドラと結婚した。彼女はコンスタンティノス7世ポルフュロゲネトスの娘である。その容貌が優れているわけでも体の均整が取れているわけもないが、思慮分別とあらゆる美徳でどんな女性にも勝っていた。

結婚式は宮殿において、皇帝の治世2年目の11月に行われている。

市民は大いに喜んだ。皇帝が臣民を慈悲深く公正に統治したからである。皇帝は優秀で支配者としての性質を備えていたにも関わらず、臣民に対して物腰柔らかに、また穏やかな姿勢を示し、求める人々に恩恵を施したので特に賞賛された。

皇帝は市民らを大盤振る舞いとヒッポドローム(大競馬場)での競技で楽しませ、ビュザンティオンで冬を越し、春を待つ。選り抜きの軍隊は日々、訓練を積んだ。訓練は完全武装して両方向に旋回するもので、また極めて勇敢な者が戦争のために練った軍事技術によるものである。

第8巻

1.
冬が春の晴天へと変わると皇帝は十字の軍旗を掲げてタウリスキタイ人に対して進軍する準備をした。皇帝は宮殿を離れ、崇拝するカルケ門の救世主クリストス教会を訪れて神に祈りを捧げている。皇帝はそこが狭い教会で15人も収容できず、通り道が曲がっていて立ち入りが困難で、まるで曲がりくねった迷路か隠れ家のようであることに気付いた。皇帝は直ちにそこをより立派に神聖さを思わせる様式で土台から立て直すことを命じる。そして自ら壁周りを設計したが、その熱意と指示の結果、今日見られるような美しさと大きさに仕上がったのであった。

その後、皇帝は神聖なる祝福された神の叡智の教会(ハギア・ソフィア)へ赴き、加護を賜るように祈る。軍の前に出て彼らを整列させると、祈りのこもった行列は崇敬するブラケルナイの聖母教会へ向かった。そこでふさわしい祈りとともに神をなだめた後、ボスポロスの入江に整然と停泊していたギリシャ火搭載の三段櫂船を視察するためにブラケルナイ宮殿を訪れる。ここは貨物船用の安全で穏やかな港で、橋が架けられた川の流れのあるところまでなだらかな(海岸線の)曲線が伸びていた。

船を漕ぐ様の経験豊かで整然とした様子と三段櫂船の競争を見ると皇帝は漕ぎ手と海軍兵に金を与えて報いる。三段櫂船は300隻余りあり、それと共に最近、俗語でガレーとか巡視艇と呼ばれる軽快な船があった。そして皇帝は彼らをイストロス(ドナウ川)へ派遣する。その水路を守るためであった。こうすることでスキタイ人はたとえ敗走に移っても故国へもキンメリアのボスポロスへも出航できなくなるのである。

イストロスはエデンの庭を源とする川の一本であるという。いわゆるピションと呼ばれる川である。それは東に源流があり、創造主の無限の大いなる叡智に隠れて流れ、ケルトの山々で再び湧き出す。流れはうねりながらヨーロッパを抜け、五つの河口へと分かれた後、エウクセイノスと呼ばれるポントス(黒海)へと注ぎ込む。けれども一部の人はピションがインドを分かつ川であるという。それは普通、ガンジスと呼ばれており、そこではエメラルドが見つかる。

2.
ともあれ、三段櫂船は以上のようにイストロスへと派遣された。皇帝ヨハネス1世はビュザンティオンを発った後、その全軍と共にアドリアノープルに到着する。街はアガメムノンの息子オレステスがその母クリュタイムネストラを討った後、流浪することになった際に建設したといわれており、最初は彼の名にちなんでオレスティアスと呼ばれていた。しかしスキタイ人と戦っていたハドリアヌス帝がその立地に惹かれて、街を堅固な防壁で囲い、ハドリアヌスの街(アドリアノープル)と名付けたという。

皇帝はそこに到着すると斥候からミュシアに続く険しく狭い道にスキタイ人の守備が布かれていないことを聞く。そこはひどく狭まっているためにクレイスライと呼ばれている。皇帝は艇長やタクシアルコス(歩兵部隊長)らを集め次のように語った。

「諸君、余は思っていた。前々からスキタイ人は自国への我らの到来を予期しており、全力を挙げて最も戦略的で狭く近づきにくい隘路を防壁や柵で塞ぐだろうから、我らが進軍するのは容易ではなかろうと。

だが聖なる復活祭の接近で、スキタイ人は街道を守り固めて我らの通過を妨げるのを思いとどまった。我らが華麗な装いと行列、華やかさと目を瞠る光景の広がる大祭への出席をあきらめて、戦争の艱難辛苦へと突き進むとは思っていなかったのだ。

事ここに至り、余は即座に好機をとらえることが最良の行動と思い、あらん限りの早さで自軍に戦支度をさせた。タウリスキタイ人が我らの接近に気付き、大挙して起伏の激しい所へ急ぐ前に隘路伝いに進むのだ。

神の助けをお借りして言おう。我らがまず危険な場所を突破し、スキタイ人の予期せぬ攻撃を仕掛けられれば、最初の攻撃でミュシア人の王宮を擁するプライストラバス(プレスラフ)の街を落とせるだろう。さらにそこから我らは、いとも容易く無礼なルーシを征服するだろう。」

と。

3.
これが皇帝の見解である。けれども司令官やタクシアルコスらには、こうした言葉は時宜を得ていない無謀なもので、意味もなく軽率であって、非常識な狂気じみたもののように思えた。身を潜められる洞窟だらけの険しい隘路から他国の領土へ進むようにローマ軍に勧めているのであるから。

そのために彼らがひどく長い間、沈黙を守っていると、皇帝は怒りを強めて再び語り始める。

「余は若くして戦いに身を投じ、自ら多くの成功と勝利の栄冠を手にしてきた。よく考えもせずに大胆で傲慢な方法で戦闘に臨めば、危険で破滅を招くような結果になることは、余自身も熟知している。一方で危難にあり、己が望み通りに行動出来る機会が得られないならば、まず今この時を捉えて、我ら自身の状況に気を配るべきであることには諸君らも同意するであろうと思う。諸君らは様々に変化し続ける戦いの命運について見事な経験を積んできたからである。

余がより良い行動指針を示して諸君らがそれに耳を傾け、一方でスキタイ人が未だ我らの接近に気付かないほど怠惰の中に身をおいているならば、その機を捉えようではないか。谷の通過に続いて勝利がやって来るだろう。

仮に敵が通過しようとしている我らに気付いて、反撃のため、隘路に戦列を展開すれば、状況は我らにとって思わしくない方へ向かい、ひどい苦境と困難に繋がるだろう。

それゆえ、諸君らは勇気を奮い起こし、かつて武力で敵を圧倒したローマ人であることを思い起こせ。一刻も早く後に続き、行動で諸君らの勇気を示すのだ。」

と。

4.
こうした演説をして、きらめく鎧に身を包んだ後、皇帝は気位の高い駻馬に跨がった。随分と長い槍を担ぎ、街道へと出る。その姿は鎧にしっかりと身を固めた「不死隊」と呼ばれる部隊の先頭にあった。

皇帝の後には勇敢な1万5千の重装歩兵部隊、そして1万3千の騎兵が続く。攻城戦用の機器、あらゆる種類の攻城兵器を輸送する補給部隊は、これら兵器を皇帝から任せられたプロエドロスのバシレイオス(・レカペノス)と共にゆっくりと後を追いかけた。誰にも気取られることなくこれら部隊に危険な難所を通過させると、皇帝はその猛烈な速度の進軍を止め、豊富な水が得られる川が両側を流れゆく安全な丘の上で騎兵と歩兵に休息を許す。

強烈な光が差し込むと直ちに皇帝は兵士らを起こし、厚みのある陣形をとらせてプライストラバスへと前進させた。ラッパが戦いの合図を鳴らし、シンバルが打たれ、太鼓がかき鳴らされる。山々に太鼓が響き渡り、呼応するように武器が音を立てる。馬はいななき、男たちは戦いのために似つかわしい雄叫びをあげて互いを鼓舞した。

タウリスキタイは一方で、統制の取れた軍が自分たちに近づくのを目の当たりにすると、予期せぬ情勢の変化に狼狽し恐怖に襲われる。

それでも彼らはすぐに武器をとり、非常に頑丈で、広範囲を保護するために足まで達する盾を担いだ。強力な密集隊形をとり、街の手前の騎兵に適した平原にいるローマ人目がけて前進する。野獣のように咆え、聞き慣れない叫びをあげ、この世のものとは思えない怒号を発した。ローマ人は彼らと打ち合い、勇敢に戦って、価値ある戦功をたてる。

戦闘はまったく双方互角であったが、ここにおいて皇帝は「不死隊」にスキタイ人の左翼に突撃するように命じた。彼らは前に槍を構え、激しく馬を駆り立てて、スキタイ人めがけて進む。

スキタイ人たちは馬上で戦う訓練をしておらず、騎馬での戦いに慣れていなかったため徒歩であった。それだけにローマ人の槍に持ちこたえることができず、敗走へと移り、街の防壁の中に閉じこもる。ローマ人は彼らを追撃し、情け容赦なく討ち取った。この攻撃で8500人のスキタイ人が討たれたという。

5.
生き残りは街に閉じこもり、胸壁の上から飛び道具を盛んに投げ付けた。

その時パトリキオスのカロキュレスはプライストラバスに留まっていたという。彼は既に述べたように、以前、ルーシ軍をミュシア人にけしかけた人物であった。カロキュレスは皇帝の到着を聞くと夜間、密かに街を出てスヴャトスラフの元へ赴く。皇帝のしるしは信じられないほど輝いていたので、カロキュレスが皇帝の姿を見落とすのは不可能だった。スヴャトスラフは今はドリストラと呼ばれているドリュストロン付近のある場所に麾下の全軍と共にある。そうやってカロキュレスは逃亡した。迫り来る夜の闇はローマ人に戦いを中断させる。

翌日、その日は聖大土曜日であり、主が受難に至る道にあって、機密制定の晩餐(最後の晩餐)の後、弟子たちに救済の御教えを授けた日であるが、後続の軍が攻城兵器と共に到着した。皇帝ヨハネス1世は早くに起きて部隊を完全な密集隊形に編成する。さらにラッパの合図で突撃を命じ、最初の攻撃で街を落とすことを望んで、守り固められた城壁を攻撃した。

ルーシ勢はと言えば、将軍の鼓舞を受けて胸壁の間から抵抗し、ローマ人の攻撃を避けて、投げ槍や飛び道具、拳大の石を投げ付ける。この将軍はスフェンゲロスという、全てを支配しているスヴャトスラフに続いて第三の地位にある者であった。

ローマ人は絶え間なく下から弓と投石機、投石具を撃って、強烈に圧力を加えることでスキタイ人が無傷で胸壁から身を乗り出すのを許さず、彼らを後退させる。皇帝はかなりの大声で叫んで、囲壁にはしごを掛けるよう命じ、一声で包囲攻撃に新たな勇気を与えた。誰もが皇帝の見ている前で勇敢に戦い、速やかにその働きにふさわしい褒賞を賜りたいと望んだのである。

6.
ローマ人が城壁にはしごを掛けたその時、ある勇敢な若者が剣を抜き、左手で盾を頭上に掲げ、上からのスキタイ人の攻撃をものともせず、はしごを登っていった。ちょうど顔に赤みがかった和毛を生やしはじめたところである。テマ・アナトリコンの生まれで、名をテオドシオス、姓をメソニュクテスと言った。

胸壁に近づくと彼は、スキタイ人を狙う。その者はメソニュクテスに対して身を乗り出して槍で自身を守っていた。メソニュクテスはその首筋へ打ちかかる。スキタイ人の首は兜もろとも刎ねられて城壁外の地面に転がった。ローマ人はこの新たな手柄を声高に喝采し、その多くがはしごを駆け上って、一番に駆け上った男の勇気を真似る。メソニュクテスは城壁に上って胸壁を制圧すると、至る所で大勢のルーシ勢の守備兵を討ち取り、城壁から真っ逆さまに放り投げた。

大勢が至る所から囲壁に上り、全力で敵を斬り捨てると、スキタイ人は胸壁を放棄し、堅固な防壁に囲われた王宮へと惨めに殺到した。そこにはミュシア人の宝物が保管されていたが、不用心にも門は開いたままになっていたのである。

この間、多くのローマ人は外から城壁を攻撃して門の蝶番と締めねじを砕いて壊し、街の中に入る。そしてスキタイ人に恐るべき虐殺を行った。

ミュシア人の王ボリスはその時、妻や幼子と共に捕らえられ、皇帝の御前へと引き立てられたという。ボリスの顔は赤みを帯びた毛に覆われていた。皇帝はボリスを丁重に扱い、ブルガリア人の支配者と呼んでいる。そして、

「余はスキタイ人の手でひどく苦しめられているミュシア人の復讐のためにやって来たのだ。」

と言った。

7.
ローマ人は街へ入ると道々へと散らばって敵を討ち、戦利品を運んでいく。そして多数のルーシ勢がひしめく王宮を攻撃した。王宮内のスキタイ人たちは激しく抵抗し、門をすり抜けたローマ人を討ち取る。150人以上の屈強な男たちが殺された。

皇帝はこの惨状を聞くと直ちに馬に跨がり、味方に総力をあげて戦うよう促す。けれども全くはかばかしい成果が得られなかったので、皇帝はむやみやたらと軽率に猛攻撃を仕掛けるのを押しとどめ、王宮の至る所へ炎の矢で火をつけるよう命じた。タウリスキタイ人はローマ人を待ち受けており、狭い門を抜けて入ってくるところを容易くその刃にかけたのである。

炎が燃えさかり、あっという間に土台を灰へと変えた。7千以上のルーシ人が外へ出て、開けた中庭に詰めかけ、攻撃側からその身を守る態勢を整える。これに対して皇帝は屈強な兵団と共にスクレロスを配した。スクレロスは付き従う最も勇敢な一隊でルーシ人を囲む。

ひとたび戦闘となるとルーシ人は敵に背を向けることなく勇敢に戦った。しかし、ローマ人はその勇気と戦争での経験によってルーシ人をみな射殺した。ミュシア人の多くもこの戦闘で斃れる。ミュシア人こそがスキタイ人のその地への到来の原因だったので、ミュシア人はスキタイ人に加わりローマ人に敵対していたのである。

スフェンゲロスはスヴャトスラフの下へと逃れた。わずかな者と敗走して無事にたどり着いたのだが、後述のようにやがて殺されている。こうしてプライストラバスは2日で陥落しローマ人に属することとなった。

8.
皇帝ヨハネス1世は軍にふさわしい褒賞を与え、休息をとらせて、主の聖なる復活を祝った。

それから皇帝はタウリスキタイの捕虜を選んで、彼らをスヴャトスラフの下へ行かせる。街の占領と仲間を討滅したことを報せ、躊躇無くすぐに二つの選択肢から一つを選ぶように伝えるためであった。

――武器をおき、より強大な力に屈して自らの軽率な行いについて赦しを請い、直ちにミュシア人の地から離れるか、あるいはそれを望まないのであれば、むしろいつもの傲慢さに流れて、進軍するローマ軍に抗い、総力をあげてその身を守ることになるかどちらかだ――

と。

スヴャトスラフにこうしたことを告げるよう、皇帝は捕虜たちに命じる。その後、その街で二、三日を過ごし、損害を受けた防備を修復して、十分な守備隊をおいた。さらに街を自身の名にちなんでヨハノポリスと名付けると、ドリュストロンへ向けて全軍と共に出立する。そこは諸皇帝の中でも名高いコンスタンティヌス帝によって建設された。コンスタンティヌス帝は現在見られる見事さと規模でそこを築いている。当時は帝が天の星の間に十字架の印を目にした頃で、また、敵対的姿勢を見せ、血道をあげて攻撃してくるスキタイ人を征服した頃であった。

途中、皇帝はプリスコバとディネイアという街を占領する。多くの街がスキタイ人に背いてローマの味方となった。

スヴャトスラフはプライストラバスでの悲劇を聞くと悩み苦しみ、悲嘆に暮れる。そしてこれをこれから先の凶兆であると考えた。けれどもスキタイ人たちに駆り立てられ、またミュシア人に対する勝利で得意になっており、簡単にローマ軍を打ち破れると思っていた。

9.
ミュシア人が同盟と自分に背き、皇帝の下へと奔るのを見ると、スヴャトスラフはミュシア人がローマ人に味方すれば、状況は良い方には運ばないだろうと良く良く考えた。そこで彼は名門の有力なミュシア人300名を選んで、彼らに残酷で容赦の無い運命を考え出す。彼ら全員の喉を掻き斬って殺したのであり、残りは鎖につないで牢に拘束したのであった。

そしてスヴャトスラフは6千人にのぼるタウリスキタイ軍を招集し、ローマ人に対して展開させる。

皇帝が慎重な速度でルーシ勢に接近する一方、ある大胆な者たちは匹夫の勇に駆られてルーシ軍を離れ、待ち伏せを仕掛けて前進してきた斥候を潜伏場所から攻撃して殺した。

皇帝は斥候らの遺体が小道の脇に投げ出されているのを見ると、同胞の死に怒り、実行犯を探し出すよう命じる。歩兵たちは躍起になって林や茂みを捜してこうした攻撃者を捕らえ、鎖につないで皇帝の御前へと引き立てた。皇帝は直ちに彼らを斬り殺すように命じる。命じられた者たちは躊躇無く剣で彼らをバラバラに切り刻んだ。

タウリスキタイ人は軍がドリュストロン――彼らはドリストラと呼び習わしていたが――の前面に集まると戦列を槍と盾で覆い、いわば自分たちを塔にして、敵を戦場に待ち受ける。

皇帝は戦馬車に乗せたローマ人を展開し、装甲騎兵を両翼に配備した。後方には弓兵と投擲兵をおき、彼らに絶え間なく狙撃し続けるよう命じる。

10.
両軍は遭遇するとたちまち激しい戦闘へと突入した。最初の攻撃の間、両者は互角に争う。

ルーシ人は獅子奮迅の勢いで戦った。常に敵に打ち勝つという名声を得ていながら、今、恥ずべきことにローマ人によって打ち負かされてその名声を失うことになりでもしたら、それは恐るべき衝撃的なことだと考えたからである。

ローマ人は一方で、恥と怒りに駆られていた。武力とその勇気であらゆる敵に打ち勝ってきた自分たちが、今や引き下がらざるを得なくなるのではないかと恐れたのである。戦いに不慣れであるかのように徒歩で戦う者に圧倒され、馬に乗ることを何も知らないかのように、偉大な栄光が一瞬で消えはしないかと恐れたのである。

そのため兵士らは勇敢に戦った。自分たちの名声について、心に懸念を抱いたのである。

まるで何かに取り憑かれたかのようにルーシ勢はいつもの獰猛さと激情でローマ人に突撃を掛けた。しかし、ローマ人は規律を保ち、実戦で磨かれた技量でルーシ人と相まみえようと突進する。大勢の者が互いに襲いかかった。戦いの行方は揺れ動き、午後遅くになるまで決着がつかない状態となっている。皇帝が騎兵隊を一斉にルーシに差し向け、ローマ人であるならば汝らは行動によってその武勇を示さねばならない、と叫んで男たちを鼓舞した時には日は既に暮れていた。

彼らは驚くべき攻撃で押し出る。ラッパが戦闘を合図し、一丸となったローマ人から怒号が上がった。スキタイ人はその攻撃に耐えることが出来ずに敗走へ移り、城へと急ぐ。この戦いで彼らは多くの仲間を失った。

ローマ人は凱歌をあげて皇帝を歓呼する。皇帝は地位と宴で彼らに報い、彼らを一層、戦いに熱中させた。

第9巻

1.
夜が明けるとすぐ、皇帝は次のような方法で野営地をしっかりした柵で強化した。

ドリュストロンから少し離れた平原に低い丘が盛り上がっている。皇帝は軍にそこへ天幕を張らせ、周囲全体に堀を掘るよう命じた。彼らは土塊を堀の際へ運んで野営地を囲むようにそこに積み上げる。土塊が十分に積み上がると、その頂上にしっかりと槍を立て、そこへ盾同士を隣り合わせて立てかける。軍が積み上がった土塊と堀とを壁として利用できるようにしたのであった。これで敵が陣営内を占めることはできない。しかも敵勢が堀へ近づくとその攻撃は妨害されることとなる。敵領にこのように陣地を築くのがローマ人の慣わしであった。こうして柵を強化すると、翌日、皇帝は軍を戦闘隊形に整列させ、城壁への攻撃を開始する。

スキタイ人は塔から身を乗り出して飛び道具や石、遠くまで飛ぶ武器をローマ軍に投げ付けた。ローマ軍は一方でスキタイ人の弓矢や投石から身を守る。両者の戦いはこうした小競り合いであった。

ローマ人は夕食のために柵に囲まれた陣地に戻る。しかしスキタイ人は日が沈んでくると要塞から馬に乗って出てきた。これが彼らが馬に乗って現れた最初である。彼らは馬に跨がって敵と戦うことに慣れておらず、騎兵無しで戦闘へ臨むことが常だった。

ローマ人は急いで鎧に身を固め、馬に跨がる。さらに槍――ローマ人は戦闘では非常に長いものを使っていた――をひっつかむと意気盛んに力強く敵に突撃をかけた。

スキタイ人は手綱で馬を操る術を心得てすらいなかったので、ローマ人に斬り伏せられて敗走へと移り、城壁の中に閉じこもることになる。

2.
それからローマ人の火を載せた三段櫂船と穀物輸送船が現れ、イストロスを進んでいった。ローマ人はこれを見て言い表せないほどの喜びに満たされる。けれどもスキタイ人は恐怖に取り憑かれた。ローマ人が運んだ「液体の火」を恐れたのである。なぜならスヴャトスラフの父 イーゴリの大軍勢が黒海においてどのようにしてローマ人たちにメディアの火で焼き払われたのかを長老たちから 聞いていたからであった。

そこでルーシ人はすぐに自分たちの小船を集めて、イストロス川の流れがドリュストロンの一面を洗う場所にある街壁の前に曳航する。ギリシャ火を積んだ船はこれを囲み、スキタイ人がそれらの船に乗って故国へ戻れないように見張った。

翌日、タウリスキタイは街を抜け出て平原の上に並び、その身を足元まで届く盾と鎖の胸当てで守る。ローマ人も完全に鎧に身を包んで出陣した。

双方とも勇敢に戦う。両軍が交互に相手を押し戻したので、いずれが勝っているのかはわからなかった。

しかし、あるローマ人が隊列から突出し、恐ろしく勇猛な男 スフェンゲロスを打ち倒す。この男はスヴャトスラフに続いてタウリスキタイ人で第3の地位にある者で、その時、獅子奮迅の戦いぶりであった。タウリスキタイは彼の死で散り散りになり、徐々に平原から引き上げて街へと急ぐ。

その時また、圧倒的で無敵の力と能力をその身に宿したテオドロス・ララコンなる男が鉄の鎚矛で大勢の敵を討ち取った。彼はその凄まじい腕力で鎚矛を振り回して、頭部を守っている兜と頭蓋を粉砕したのである。

こうしてスキタイ人はやがて敗走へと移り、街へと退いた。皇帝は引き上げの合図を鳴らすよう命じ、ローマ人を陣に戻した。そして、賜与と酒席で彼らに報い、強い精神で戦いに赴くよう鼓舞したのである。

3.
状況は未だあやふやで、戦争が続いていた。息子ニケフォロスと共にレスボス島のメテュムナに幽閉されていた皇帝ニケフォロス2世の弟 クロパラテスのレオンは、既に述べたようにその瞳は傷付けられておらず、それだけに金で警備の者の歓心を買い、反乱を志した。以前、彼の視力を害するように命じられた者が、皇帝の命令で(目を傷付ける)振りをしたか、不運に同情したかで、まぶたを焼いただけで瞳を傷付けなかったのである。(皇帝が目を傷付けないよう命じたという)この可能性には良い証拠がある。彼の行為が発覚後にも罰せられなかったという証拠である。

そしてクロパラテスは小船に乗り、ビュザンティオンの対岸に人知れず上陸し、ペラミュスと呼ばれる修道院に潜り込んだ。そこから彼は自身の到着を知らせるために部下の一人を派遣する。

共謀者たちは全力でレオンを支援し、大勢の武装した者たちを集めて、皇宮の鍵を盗むことに賛同した。それによってレオンは簡単に宮殿への入口を確保することができるだろう。そこで共謀者たちは仕事に取りかかった。後れをとることなく言葉で約束したことを行動で成し遂げようと試みる。

こうして彼らはある皇帝の鍵の管理人を賄賂によって味方に引き込んだ。そして蜜蝋で鍵の型を取り、その蜜蝋を渡すよう説得する。管理人はためらうことなく蜜蝋で型を取り、それを手渡した。彼らは職人を雇い、すぐに炉で鍵を模造させている。

4.
彼らの考えの通り、全てが計画通りに運んだので、クロパラテスにボスポロスを渡ってビュザンティオンに来るように言上した。そこで彼は夜中、アクロポリスに寄港し、そこから聖フォーカスの聖域のすぐ下にある門を抜ける。既に帝権を掌中に収めた夢を見ていた。

けれども不当に手に入れようとした輝かしい緋色の外套と黄金の笏、絶対権力の替わりに、運命は彼に苦々しい盲目刑と遠方への追放、そして財産の没収を仕組んでその望みをあざ笑ったのだった。そのため彼らは事を確実に運べず、計画とは裏腹に不運によって大きな苦悩を抱える結果となったのである。

レオンはスフォラキオン地区の家臣の家に腰を据えて共謀者の集結を待っていた。レオンに従う者の一人がその家を抜け出し、友人である帝国織物組合の人間に近づいた。そしてクロパラテスの到着を知らせて計画を明かし、友人と大勢の織物組合の人々による助力を頼み込む。友人は直ちに助力を約束して起き上がり、仲間を呼び寄せるかのように出て行った。

ところが友人はその替わりにドゥルンガリオス・トゥー・プロイムーを務めるパトリキオスのレオンの下へ赴く。彼は当時、皇帝から帝都ビュザンティオンの責任者を任されていた。友人は彼に全てを話す。クロパラテスが追放先から戻ってきたこと、何某かの家に留まり、一刻も早く簒奪しようと企んでいることをである。

パトリキオスのレオンは予期せぬ知らせに仰天した。しかし、平静を取り戻す。彼は危機に当たって穏やかで困難に対して適切な解決策を考えることに優れていた。そして麾下の者を引き連れすぐにクロパラテスのいる建物を攻撃する。

クロパラテスは自身の計画が露見したと知ると、息子ニケフォロスとともに窓をすり抜けて聖なる大教会(ハギア・ソフィア)へ避難した。尊大で高慢な簒奪者となる替わりにあわれな助命嘆願者になるものと思われた。

ドゥルンガリオスの手の者たちは、クロパラテスをそこから引きずり出してその息子ニケフォロスと共に小船に乗せ、カロニュモスという島へと追放する。その後、ミュシアにいる皇帝からの勅命に従い、彼らを二人とも盲目刑に処し、その財産を没収した。

5.
こうしてクロパラテスのレオンによる簒奪未遂は恐るべき惨憺たる結果となった。

話を戻そう。一方のルーシ勢は密集隊形に整列し平原へと繰り出した。そしてローマ人の攻城兵器を焼き払おうと全力を尽くす。ローマ人の放つ風切り音を上げる弾丸に耐えられず、スキタイ人の多くが打ち出される石によって毎日殺されていたからである。

皇帝の親戚であるマギストロスのヨハネス・クルクアスがこれら兵器を守っていたが、敵の果敢な攻撃を目の当たりにすると、ワインと昼食の後の眠気にも関わらず、自身の馬に跨がって選り抜きの部下らと共に攻撃をかけた。ところがその馬は穴に落ち、マギストロスは馬の背から投げ出された。

スキタイ人は彼のきらめく鎧と馬の頬革、そのほか馬飾りの見事な細工を見てそれが惜しげもなく金鍍金をほどこされていたので、マギストロスを皇帝だと思う。彼らは武器をとり一丸となって、残酷にも斧や剣で彼をバラバラに切り刻んだ。そしてその首を槍に突き刺して塔に掲げ、自分たちは羊のような皇帝を屠ったとしてローマ人を嘲笑する。

バルバロイの怒りの犠牲になったのは、マギストロスのヨハネスが教会に対して行った酔った上での狼藉の報いであった。彼は多くのミュシアの教会を荒らしてその調度品や聖杯を改造して私蔵の宝物にしてしまったと言われている。

6.
この勝利に意気が上がり、ルーシ勢は翌日、街を飛び出し戦場で戦列を組む。ローマ人も厚みのある密集隊形を組んで敵と会戦した。

ここにおいて、皇帝の護衛を務めるクレタの首長の息子アネマスはイクモロスを見つける。スキタイ軍でスヴャトスラフに次ぐ地位にある第二の司令官で、体格に優れた屈強な男であった。彼は麾下の歩兵隊と激しい攻撃を仕掛けて多くのローマ人を討ち取る。アネマスはその生来の武勇の赴くまま、脇につり下げていた剣を引き抜くと馬首を巡らし拍車をかけてイクモロスに向かって行った。アネマスはイクモロスに追いつき、その首に打ちかかる。そのスキタイ人の頭と右腕が切断され地面に転がった。イクモロスの死にスキタイ人からは痛惜の混じった叫びがあがる。ローマ人は彼らを攻撃した。

ルーシ勢は敵の攻撃に耐えきれず、将軍が死んだことでひどく追い詰められており、盾を掲げてその肩を守って街へと引き上げていく。ローマ人が追いすがり彼らを虐殺した。

夜の帳が降り、月は満月に近かった。ルーシ勢は捕虜を男も女も虐殺して平原に出て死者を捜す。彼らは遺体を城壁の前へ集め無数の炎で焼いた。先祖代々の慣習に従ったものである。

そして乳飲み子と鶏を生け贄としてイストロス川に入れ、川の急流に沈めた。

彼らはギリシャの神秘に傾倒してギリシャ式に死者に生け贄と酒を捧げたという。それはスキタイの哲学者アナカルシスとザモルキス、あるいはアキレウスの仲間によってはじめられた。

アッリアノスは『ペリプルス』の中でペーレウスの息子アキレウスについてマイオティス湖畔のミュルメキオンという小さな街の出のスキタイ人であると言っている。無情で残酷で傲慢な質であったためにスキタイ人によって追放され、テッサリアに移り住んだとしている。

この話の明確な証拠となるのは、アキレウスが胸飾りのついた服を着て徒歩で戦ったことであり、その赤い髪と灰色の瞳、向こう見ずで血の気が多く、残酷な性格である。アガメムノンは以下のように語って彼を非難しあざ笑った。

「彼には戦いこそが大事なのだ!」

と。

タウリスキタイ人は未だに紛争解決を殺戮と流血で解決することを常としている。この民が向こう見ずで好戦的で屈強で、周辺のあらゆる民を攻撃するというのは多くの人々が証明するところである。その中には聖エゼキエルがおり、以下のように彼らについて言及する。

「見よ。(主なる神である)我はルーシの支配者たるゴグの地のマゴグを汝ら(我が民)にもたらすであろう。」

と。(※旧約聖書中のエゼキエル書第38章に基づく記述と思われる。)

ともあれ、タウリの生け贄については以上で十分であろう。

7.
すでに夜が明けだしていた。スヴャトスラフは尊貴の者たちの会議を招集する。これは彼らの言葉でコメントスと呼ばれるものであった。

周囲に尊貴の者たちが集うと、スヴャトスラフはいかなる方策をとるべきか尋ねる。何としても真夜中に船に乗って密かに脱出するべきだと進言する者があった。(ローマの)装甲騎兵と戦うことができず、軍を鼓舞してその意気を昂ぶらせていた最高の戦士を失ったからである。

一方では反対にローマ人と約定を結んで誓約を取り、残った軍を温存すべきだとする者もあった。

ギリシャ火を載せた船がイストロス両岸の移動を監視し続けており、川を行こうとすればすぐに焼き払われる可能性があり、船での脱出は容易ではないというのがその理由である。

スヴャトスラフは苦々しげに深くうめいて言った。

「もし今我らが卑屈にもローマに屈服すれば、近隣の民を楽々と征服してルーシに付き従わせ、あらゆる地を虐殺なく隷属させた栄光は消え去るだろう。

むしろ先祖の勇を示して、ここまで無敗のルーシの力を思い起こし、安寧のために大いに戦おうではないか。

勇者にふさわしい行いを示してから勝って生き残るか、華々しく死ぬかどちらかである。我々には逃亡者として故国に戻る慣わしなど有りはしないのだから。」

これがスヴャトスラフの意見であった。

8.
タウリスキタイについてはまたこうも言われている。これまで敗れても敵に降伏せず、命長らえる望みが絶たれれば、急所に剣を走らせ自害する、と。

彼らがそうするのは以下のような信念があるからだった。彼らは戦で敵に討たれた場合、死して魂がその体を離れて後、冥界で自分を殺した者に仕えることになるというのである。タウリスキタイはそうした隷属を恐れ、また自分たちを殺した者に仕えることを嫌って、その身に自らの手で死を与えるのであった。それが彼らの間に蔓延していた信念である。

ともあれ彼らは指導者の言葉を聞いて命を惜しむのを止めて、自分たちの安泰のために危険を選ぶことに決め、ローマ軍と戦うために勇ましく戦列を組んだ。

こうして翌日、7月24日の金曜日、日暮れの頃にタウリスキタイは全軍で街を出て、全力をあげてどんな火中の栗であれ拾うことにし、強力な戦列を組んで投げ槍を構える。皇帝はローマ人を編成して指揮し、出陣した。

ひとたび戦いが始まるとスキタイ人は勇敢にローマ人を攻撃する。投げ槍でローマ人を悩ませ、弓矢でその馬を傷付け、乗り手を落馬させた。

ここにおいて先日イクモロスを討ち取って名をあげたアネマスは、スヴャトスラフが怒り狂ってローマ人に突撃し、麾下の部隊を鼓舞するのを目にする。アネマスは馬に拍車をかけ、手綱をゆるめスヴャトスラフのところへ乗り込んだ。彼はこういう行動をとるのが常であり、こういうやり方でこれまでも多くのスキタイ人を討ち取ってきたのである。アネマスはスヴャトスラフの鎖骨を剣で打ち据えて驚かせるが、討ち取ることはできなかった。ローマ人の槍への恐れから装備していた、鎖帷子と盾に守られていたからである。

アネマスはスキタイ軍に囲まれ、その馬が無数の槍に貫かれて倒れたにもかかわらず多くのスキタイ人を討ち取った。それでもその後、彼は自害する。この者は戦闘にあって同年代の誰も及ばない勇ましい功業を打ち立てたのである。

9.
アネマスの死にルーシ勢は勇気を得て、大声で激しく叫び、ローマ人を押し戻した。スキタイ人の異常な猛襲を避けるのに、ローマ人は一目散に退く。

ここにおいて、ローマ人が押されているのを見て取った皇帝は、危惧した。自軍がスキタイ人の猛襲への恐怖から、致命的な危難に陥るのではないかと。そこで皇帝は味方を鼓舞し、槍を力強く振り回して敵勢目がけて前進する。太鼓が鳴り響き、ラッパが戦闘に加わるよう合図した。ローマ人は皇帝の攻撃に圧倒され、馬首を巡らしてスキタイ人を激しく攻撃する。同時に空からは横殴りの雨と風が激しく押し寄せて敵を打ち、舞い上がった塵は敵の目を悩ませた。

そこへ白馬に乗った男が現れ、ローマ人の前に出て、彼らを鼓舞しながらスキタイ人に向かって進み、摩訶不思議に敵の隊列を突き抜けて混乱に陥れたという。皇帝はその働きの褒賞として相応しい品々で報いようと彼を捜したが、以前にその姿を陣中で見た者はおらず、戦闘の後にも見当たらなかったといわれている。

捜しても彼は見つからなかった。そのため、その者は偉大なる殉教者テオドロスなのではないかという見方が出てくる。皇帝は従前、自身とその全軍を守ってくれるようにテオドロスに祈っていたのであった。

そして以下のことが戦いの前の夕方に起こったという。ビュザンティオンでは神に仕える処女が夢の中で炎の姿をした男に案内されて神の御母にお目通りしたことを思い出した。彼女が、

「私のために殉教者テオドロスを呼び出してくださいませ。」

と言うと、すぐに鎧に身を固めた勇敢な青年が現れる。神の御母は青年に、

「殉教者テオドロスよ、ドリュストロンでスキタイ人と戦う汝のヨハネスが困難に陥っている。助けに急ぎなさい。遅れれば彼は危難に遭うでしょう。」

と仰せになった。

続いて彼は主人たる神の御母に従う準備は出来ている旨を答え、言うなり直ちに出発する。こうしてその処女の目から眠りは去った。そして処女の夢はこうして実現したのである。

10.
ローマ人は先を行く神聖なる人に続いて敵と揉み合いになった。激戦が始まるとスキタイ人はその猛攻に耐えられずスクレロス姓のバルダスに包囲される。彼は付き従う大軍と包囲行動に入っていたのだった。スキタイ人は敗走へと移り、城壁の手前に至るまで踏みつぶされ、惨めに討たれる。スヴャトスラフ自身は辛くも捕縛を免れた。大量に血を流しており、何本もの矢を受けている。それでも迫り来る夜の闇が彼を守ったのであった。

この戦いで15500人のスキタイ人が討たれ、2万の盾と多くの剣が鹵獲されている。他方、350人のローマ人が討たれ、大勢が負傷していた。目覚ましい勝利を収めてローマ人はこの戦いを制したのである。

スヴャトスラフは一晩中、自身の軍の甚大な被害を嘆いて狼狽し、はらわたは煮えくりかえっていた。彼は無敵の軍に打ち勝つことが出来なかったために、困難に遭おうとも絶望に陥ることなく、麾下の者たちの安泰のために出来る限りのことをして力を尽くすことが才知ある将の仕事であることに思い至る。

そして夜が明けると皇帝ヨハネス1世に使節を遣わし、協定の誓約を求めた。タウリスキタイはドリュストロンをローマ人に明け渡し、捕虜を解放して、ミュシアを発ち、母国に戻る。一方、ローマ人はルーシ勢の出航を認め、ギリシャ火を載せた船で攻撃せず――石さえ灰にするメディアの火(ギリシャ火)を彼らは恐れていた――そして、以前の慣わし通りにルーシ人が交易でビュザンティオンに赴いた際には食料を供給して友人として扱う、という協定であった。

11.
皇帝は二つ返事でその和睦を受け入れた。戦争より平和を好んだのである。平和は人々を守るが戦争は人々を破壊しているからであった。そして協定と約定を結び、各自に穀物を2メディムノス測り分けて与えている。

2万2千の者たちが穀物を受け取り、6万のルーシ軍が死を免れたという。ローマ人の槍は3万8千を討ち取ったのであった。

約定が取り決められるとスヴャトスラフは皇帝との会談を求める。皇帝はすぐに馬に跨がり、黄金で飾られた鎧に身を固めてイストロスの堤へ赴いた。黄金で飾られた騎兵の大部隊が同行する。

スヴャトスラフはスキタイの小船で川沿いを進んでやって来た。伴の者の一員であるかのように櫂を握って船を漕いでいる。彼の姿は次のようであった。背丈は普通で、平均より高くもなければ特に低いというわけでもない。眉は濃く、灰色の目で獅子鼻であった。あごひげはきれいに剃っていたが、豊かに伸びた口ひげはもじゃもじゃとしていて長い。その高貴な家系の出であることを示すように一房の髪が一方に垂れ下がっている以外は頭を完全に剃っていた。首ががっしりしていて胸が広く、他の体の部分としっかり繋がっている。どちらかといえば怒ったような野蛮な姿をしていた。一方の耳に黄金の耳飾りをしている。それは二つの真珠とその間にある赤い宝石で飾られていた。彼は白い服を着ており、それは清潔なこと以外は他の仲間たちと変わりがない。

双方の和睦について皇帝と話した後、スヴャトスラフは小船の漕ぎ手の席に着いて出発した。こうしてローマ人とスキタイ人の戦争は終結したのである。

12.
約定に従って捕虜を引き渡し、ドリュストロンを放棄した後、スヴャトスラフは帰国を望む残余の仲間と出航する。しかし航行中、彼らはペチェネグ族に待ち伏せされた。ペチェネグは極めて数の多い遊牧民で、シラミを食べ、自分たちの家を運んで大半を荷馬車で過ごす。ペチェネグはルーシ勢のほとんどを殺し、スヴャトスラフ自身は残余の者と共に虐殺された。そのため、非常な大軍だったルーシのうちほんのわずかの者のみが無事に故郷の家に戻ったのである。

今述べたように皇帝ヨハネス1世は丸四ヶ月ルーシ軍と戦い、ローマ人のためにミュシアを守った。皇帝はドリュストロンの名前を戦士にして殉教者のストラテラテス テオドロスに敬意を表してテオドルウポリスと改める。そしてかなりの守備軍をそこに残し、勝利で得た見事な戦利品と共にビュザンティオンへと戻ったのであった。皇帝は到着すると城壁の前に黄金と宝石の細工が施された冠と笏をもって歓迎する市民を見つける。

市民たちは黄金で飾られ白馬に引かれる戦車を連れてくると、その戦車に乗って慣わしとなっている凱旋行列を従えるよう皇帝に求めた。皇帝は冠と笏を受け、市民らに繰り返し褒賞を与える一方、戦車に乗ることは断り、戦車の黄金の玉座にはミュシアからもたらした神の御母のイコンを乗せる。神の御母はその腕に神人両性を有する御言葉(キリスト)を抱いている。イコンの下にはミュシア人の緋色の装束と王冠を置いた。そして皇帝はその後に続く。見事な乗馬に跨がり、頭は帝冠に覆われ、冠と笏を手にしていた。

こうして皇帝は都の中央を抜ける凱旋行進を導く。都はどこも緋色の布で飾られ、婚礼の部屋のように月桂樹の枝と黄金を織り込んだ布でびっしりと飾り立てられていた。そして、偉大なる神の叡智の教会(ハギア・ソフィア)へと入る。感謝の祈りを捧げ、神に一番の戦利品たる見事なミュシア人の王冠を献呈すると、皇帝は宮殿へ赴いた。ミュシア人の王ボリスを連れてきて王のしるしを外させる。黄金と真珠をちりばめた緋色の縁取りのある冠、緋色の長衣、緋色の長靴であった。そしてマギストロスの爵位を与える。

このように皇帝ヨハネス1世は戦争での経験と剛勇を計算し、ルーシの傲慢さや慢心を地にたたき落として圧倒し、短期間に見事な勝利を収めると、ミュシアをローマ人の臣下として、冬の間にビュザンティオンにもどった。相応しい褒賞を臣下に授け、豪華な宴で彼らを楽しませている。

第10巻

1.
夏が訪れ、終始、好天が大地に広がると、皇帝は上シリアに住むハガレノイ(イスラム教徒)に対する遠征のため、ビュザンティオンを出発する。内陸地方を横断した後、皇帝はユーフラテスを渡った。ユーフラテスは最も大きな川で、我々が旧約および新約聖書によって知っている様にアジアを横切り、エデンへと上る。

尚書官のニケタスという非常に知識豊かで知的な働き盛りの男が不幸にもこの遠征において皇帝に同行していた。ニケタスの父はそうしないように長らく彼に頼み込んでいる。父は老年の極みに達しており、すぐに人生の夕暮れに入るだろうから、ニケタスに家にいて年をとった父の世話をするよう、また最善を尽くして父の面倒を見るように促していたのであった。けれども彼は父の命令を無視すべきではなかったのに無視し、その警告を軽んじて、出来うる限りの装備をして軍営に赴く。ところが彼は川を渡るうちに、その水の深さにめまいを覚え、馬から滑って川に落ちた。流れにさらわれ、惨めに溺れる。(父の命令への)反抗の代償としてユーフラテスで溺死する憂き目に遭ったのであった。

皇帝は全軍を挙げてシリアへの侵入を開始する。しかし打って出て皇帝に歯向かおうという敵はいなかった。侵入の報にうろたえ、城塞や街に閉じこもったのである。

そして皇帝はエメサ(アミダ)――これは強固で有名な街である――を占領し、協約を押しつけて数え切れないほどの貢納を得た。そしてそこからミエフェルケイム(マルテュロポリス)に赴く。これは有名ですばらしい街であり、富と家畜において同地方の他の都市に優っていた。そして協約を押しつけて、金や銀、さらには黄金を織り込んだ布など莫大な美しい進物を運び去っている。これらは皇帝がそこの住民に要求したものであった。その後、皇帝はニシビスに赴く。そこは偉大なるヤコボスが主教区の指導者となった後、ペルシャの攻撃を防いだ所であった。ペルシャ人は大軍でニシビスを攻撃したが、ヤコボスはブヨや蚊の大群と共にペルシャ軍と戦って直ちに敗走させ、このようにして敵にうち勝ったのである。

ニシビスの住民がローマ人の遠征を恐れて去り、奥地に逃げたため、街が寂れていることに皇帝は気が付いた。

2.
そのため皇帝は近隣の地方を襲ってローマに服属させ、その後、エクバタナ(※ここではバグダードのこと。以下も同様)へと向かう。そこはハガレノイの宮殿のあるところで、莫大な金銀とあらゆる富を蓄えており、その地も攻撃して奪いたいと願ったのであった。エクバタナがこの世のいずれの街よりも富と黄金を有しているというのである。それはこの街が多くの土地から富を吸い上げ、しかもいまだかつてどんな敵の侵入にも悩まされたことが無いからであった。

しかし、皇帝の侵攻は現地の水と糧食の欠乏によって中断される。この地域にはカルマニティスと呼ばれる砂漠が広がり、あるのは岩だらけの険しい道で、少しの水も無く、わずかな植物も生えておらず、砂だらけで乾燥していたのであった。

そこで皇帝は、ハガレノイから贈られた300万ノミスマに及ぶ金銀の進物を集めると、ビュザンティオンへと戻る。皇帝は市場を抜ける凱旋行進において、ハガレノイから贈られたセリカ(中国)産の金銀や布、香水、その他の進物を見せた。市民たちはその量を見て驚嘆し、皇帝を褒め称えて歓迎し、歓呼しながら宮殿へと導く。この度の勝利を賞賛する声が上がった。

その頃、主教らの妬みから総主教バシレイオスについての讒言が皇帝に行われる。王のように自らの権威を利用し、教会法で定められているところによって教会を運営していないというのであった。バシレイオスは皇帝の法廷に呼び出される。

彼は出廷せず、全地公会議を開くべきであり、自分に対する非難は退けられるべきだという強い主張を返した。総主教を罷免するには公会議を開くべきであるというのは父なる神の意志だからである。彼は皇帝によって、自身がスカマンドロス川に創建した修道院に追放された。彼はやつれた男で肉はほとんどそげ落ちている。苦行の超人的な偉業によって幼少期から自らを律していた。ただ一枚の服だけを夏も冬も着て、それがばらばらになって役に立たなくなるまで脱がない。そして水と果汁以外を口にしなかったのである。

寝台で寝ることなく、禁欲的な修行の間、ずっと地べたに寝たという。また、彼には一つだけ欠点があったと言われる。人々の品行や振舞いを過度に詮索して干渉し、あるべき姿よりも忙しなくおせっかいであった。

3.
こうしてバシレイオスは追放を言い渡され、総主教の座はアントニオスに委ねられる。彼は若いときから禁欲的な修業とストゥディオス修道院での使徒のような生活を選んだ。彼はたとえ名士や皇帝からその生来の美徳を気前よく賞されようとも、決して自身の肉体を覆うのに必要な服以上のものは纏っていない。加えて彼はかつてシュンケロス(総主教顧問)の地位にあったが、自身の公的な地位に見あう報酬を受け取り、それらをすべて貧しい者に与えた。彼は神と人間の知識において他の誰よりも豊かである。

老境の極みに至り、彼の顔と物腰には気品が輝いていた。人生が影と夢でしかないことを知っていたからである。 これまでに彼に近づいて教化され、そこから離れなかった者で豪奢な暮らしに生きたり、この世のはかないものを誇ったりする者はいなかったのであった。一方で平静を失わずに不幸に耐えることができないため、不幸な存在を導く者もいなかったが、彼は、苦悩に意気消沈しないことを学び、自分の身を投げ出し、自身を苦悩から救うことが出来るようになり、不幸からの救いを追い求めたのである。

それがアントニオスであり、その人生と言説であった。言ってみれば天使のような神秘的な男なのである。

その頃、双子の男がカッパドキア地方からやってくる。彼らはローマ帝国の多くの地を巡っていた。これを記している私自身、彼らをアジアで良く目にしている。恐るべき、新しい驚きであった。彼らの体の各部は完全であり、全て揃っている。しかし体側は腋の下から腰までくっついていた。二人の体は結合して一つにまとまっているのであった。彼らは隣り合った腕で互いの首を抱きしめて、もう一方の手に杖を持ち、自分の体を支えて歩く。彼らは30歳で身体的に良く発達しており、若々しくたくましく見えた。長旅では彼らはラバに乗ったものである。女性がするように鞍に横向きに座り、言いようもないほど優しく、性格が良いのであった。

この話についてはこれくらいで十分であろう。

4.
再び春になると皇帝ヨハネス1世はローマ軍を招集し、彼らをすっかり武装させた。帝都を出るとパレスティナへ進軍する。預言者の言葉で蜜と乳が流れると言われる豊かな地であった。その地で皇帝はシリアの言葉でメンペツェと呼ばれる要塞を攻撃する。戦争とあらゆる攻城兵器によって協定を押しつけた後、皇帝はそこで救世主キリストの履き物と洗礼者ヨハネの髪を見つけて、天の賜物として運び去った。

皇帝は前者を貴重な宝物として、宮殿内の有名な聖母教会に捧げ、後者は救世主教会に捧げる。いずれの教会も皇帝が一から建立したものであった。そこを離れた後、皇帝はアパメイアを攻撃する。ここは堅牢な要塞で難攻不落であったが、皇帝はここも数日で占領し、破壊した。その後、軍と共にダマスコスへ向かう。この街の住民は市場の前で皇帝に拝謁し、貴重な進物をその手で運んできた。皇帝の怒りを和らげ、進物でなだめようとしたのである。皇帝は指定の貢納を彼らに課してローマに従属させるとレバノンを斜めに横切った。レバノンはその地方をフェニキアとパレスティナに互いに分かつごつごつした巨大な山である。皇帝はその尾根に至ると強固に防備が固められた街ボルゾを急襲して奪った。

さらにそこを発つと皇帝はフェニキアへ赴きバラナイアイの要塞を占領し、ベリュトス(ベイルート)に包囲を布く。そこで皇帝は十字架に架けられた救世主キリストのイコンを見つけ、そこから運び去り、救世主教会へと送った。皇帝が一から建立したところである。

5.
驚くべき奇跡はこの神聖なイコンに関連して起こったという。ベリュトスのとある家に住むキリスト教を信仰する男がそのイコンを掲げてあがめていたと言われる。後に彼は別の家に引っ越したが、神の御意志によって忘却に支配され、イコンを最初の家においたままにしてしまった。

ユダヤ人が後を受けてその家に住み、翌日、信者数名をもてなす。信者らはその家に入ると、目の前に十字架に架けられた救世主のイコンを目にした。彼らは(家主の)ユダヤ人を我らの信仰に背くキリスト信者であると詰る。ユダヤ人はその時までイコンを見たことはなかったとこれ以上ないほどはっきりと誓った。殺意に満ちた人々は彼に言う。

「もしお前がキリスト教の儀式をしたことがないなら、行動でそれを示せ。槍をとってそのナザレ人の絵の脇を突き刺してみろ。ちょうど我らの祖先が昔、その男を磔にして突き刺したときのようにだ。」

と。

彼は怒って槍を掴み、彼らの不信感をぬぐい去り、自分への非難を絶つことを強く願って、描かれた姿の脇を突き刺した。その場所が攻撃された途端、大量の血と水が流れ出し、不信心なユダヤ人たちはその光景に狼狽して立ちすくむ。

噂が広まると、キリスト教徒はそのユダヤ人の家に乱入してまだ聖なる血が吹き出している十字架に架けられた救世主の聖なるイコンを運び去り、聖なる教会に捧げて大きな敬意をもって崇敬した。既に述べたようにそれがこの神人の絵であり、皇帝がその地から運び去ってビュザンティオンへと送ったものである。

6.
皇帝はバラナイアイとベリュトスを武力制圧した後、トリポリスを攻撃する。しかし、包囲攻撃によってもそこを奪取できなかった。その街は険しい丘の上に広がっており、陸は強固な城壁に囲まれている。両側は海に面し、そこには港と良い停泊地となっている湾があり冬には防護されていたのであった。皇帝はそこを離れ、沿岸の街々を包囲する。諸都市は降伏を余儀なくされた。

その頃、彗星が現れる。8月の初めのことであった。人間の理解を超える奇妙で珍しい光景である。我々の時代にも見られないことであり、以前にもそんなに長く光り輝いたことはなかった。それは北東に昇り、糸杉のような最高度に達する。その後、南に向かい大きな炎を上げて燃えながら、長い距離を流れ進み、光り輝く光条を放ったのであった。それを見た者は畏怖と恐怖に満ち満ちる。既に述べたように彗星は8月のはじめに現れてから満80日、昇り続けたのであり、真夜中に昇って昼間でも見え続けたのであった。

皇帝は異常な兆候を見ると、天文学者にその現象の意味を尋ねる。天文学者たちは彗星の出現について彼らの専門的知識から結論を導くのではなく、皇帝の願望にあわせて説明し、皇帝が敵に打ち勝ち、長寿に恵まれるだろうと断言した。

こうした誤った説明をした人間はマギストロスでロゴテテースのシュメオンと二コメディアの主教のステファノスである。彼らは当時、どんな学者よりも尊敬されていた。けれども彗星の出現は、彼らが皇帝を喜ばせるためにした説明にあるような出来事を予言するものではない。激しい反乱と他国民の侵入と内戦、飢饉と疫病と恐るべき地震を予言するものであった。実際にローマ帝国はほとんど完全に破壊され、そうした出来事の全てを私は目撃したのである。

7.
皇帝ヨハネス1世が崩じた後、マギストロスでスクレロス姓のバルダスは権力への渇望と飽くなき利欲に苛まれ、騙されやすい大衆を欺いて丸め込んで、皇帝(バシレイオス2世)に対して大規模な反乱を企てた。4年の間、アジアを荒らし回り、田園地帯を焼き払い、街々を破壊している。差し向けられたローマ軍と激しく戦って容赦なく打ち破り壊滅させた。

アルメニア領の境界にあるラパラ(リュカンドス)で戦いが起こった時には、パトリキオスでストラトペダルケス(司令長官)のペトロスが一軍を率いている。パトリキオスのペトロス自身も槍を受け、馬からはね飛ばされて戦列で息を引き取った。彼の護衛の多くも共に殺されている。

他の軍はマギストロスのバルダス・フォーカスが率いていた。皇帝からドメスティコス・トーン・スコローンの任を受けて、パンカレイアでスクレロスと対峙するために戦列を編成する。パンカレイアはアモリオンに近い平原で、騎兵隊の活動に適していた。戦場での対決の際、フォーカスは頭を棍棒で打ち据えられて馬からはね飛ばされ地面に落ちる。敵の戦列・隊伍はフォーカスに気付いていなかったが、もし見落としをしていなかったら、そして夜が迫ってフォーカスを守っていなかったら、彼は敵に捕らえられ、惨めな死を迎えただろう。スクレロスはこうした勝利に得意になり、自ら圧倒的で無敵であると思うようになった。

そのためスクレロスはニカイアとアビュドス、さらにアッタレイアを力ずくで降伏させ、アジアのローマ領を従える。そして彼は多くの三段櫂船を手に入れ、制海権を獲得した。さらに従来のような穀物輸送のための航行を妨げて商人や帝都自体に大きな被害を与える。それは皇帝がマギストロスのバルダス・パルサクテノス指揮の下、密かにギリシャ火を載せた船をビュザンティオンから送り出し、突如アビュドスに上陸させて簒奪者の三段櫂船に火をかけ、スクレロスの軍を壊滅させて、要塞を占領するまで続いた。

その後、フォーカスは周囲に大軍を集めてスクレロスを攻撃する。フォーカスはスクレロスを破り、ハガレノイ共々、彼にエクバタナへの逃亡を余儀なくさせた。

8.
やがて、バルダス・スクレロスと共謀した略奪者たちの一団が完全に四散すると、皇帝バシレイオス2世は自らの軍を集めミュシア人に対する進撃を始める。これらの殺人を始めた傲慢で残虐な民がローマ領を悩ませて容赦なくマケドニアを略奪し、青年以上の者を皆殺しにしていたからであった。そのため、気品や用心深さより、わき上がる激しい怒りの方がまさった皇帝は、最初の強襲でミュシア人を壊滅させようと急ぐ。しかし運命のいたずらにより、期待は裏切られた。

皇帝が狭く険しい小道を通過し、スキタイ人がトラリツァと呼び習わしているサルディカ付近に到達すると、軍営をここにおき街を二十日間、見張る。ところが司令官が無能であったためにその軍は怠け、動きも鈍く、皇帝は得るところがなかった。

こうしてローマ軍が糧秣を集めるために陣を離れると、ミュシア人はまず待ち伏せをしかけて彼らの多くを討ち取り、多くの駄獣や馬を運び去ったのである。城壁に攻城兵器を向けた者たちは、経験不足だったため、攻城兵器もその他の機器も何もできなかったが、その後、兵器は敵に焼かれてしまった。その上、補給物資も不足し、軍を悩ませ始める。ローマ軍は物資を節約せずにどんどん消費していき、運んできた物資が既に底をついていたからである。事ここに至り、皇帝とその軍は荷物をまとめてビュザンティオンへと引き返すのであった。

日がな一日、行軍すると皇帝は茂みに野営し、軍に休息をとらせる。まだ初更のうちに突然、野営地の東から巨大な星が飛び出し、どこまでも広がる光で天幕を照らして、西の堀に落ち、一気に火花を散らして分解した後に消えた。星の墜落は軍に崩壊が迫っている予兆である。それはこういうことが起こった場所、そして星の下にあるものの完全な破滅を意味していた。

これを明確に示すのは、パンダロスがメネラオスに矢を射かけた際、トロイアの主に下りてきた星である。同じ日、トロイア軍はアカイア人によって惨めな敗走を余儀なくされた。もしローマの戦争の歴史を読んだなら、その者はこうしたことが頻繁に起こり、そうした現象の起こったときには軍が破滅していることに気付くだろう。また我ら自身はそうした星がプロエドロスのバシレイオス(・レカペノス)の家を襲うのを見た。そしてその少しばかり後、プロエドロスはこの世を去り、その財産は略奪されたのである。星の幻の話しについてはこれくらいにしておこう。

翌日、軍は木々の生い茂った隘路を通り過ぎていく。そこは洞窟だらけだった。そこを抜けるとすぐ険しい場所にさしかかる。大地の裂け目がそこら中にあった。ここでミュシア人はローマ人を襲い、多くの者を殺して皇帝の本営を占領し、富を奪って、軍の持荷を略奪する。

この悲しい話しをしている私自身その時、不幸に立ち会い、皇帝に従って輔祭として仕えていた。私はほとんど滑るようになんとか馬を走らせていた。もし神がその御意志によってこの危難から連れ出してくださらなかったら、スキタイ人の刃にかかっていただろう。敵が険しい斜面に至る前に素早く駆け去り、そこを抜けてすぐに尾根にたどり着くことができたのである。

9.
この災いの影響が通り過ぎる前に、マギストロスのバルダス・フォーカスが皇帝に反旗を翻し、アジアを守るローマ軍を破ってアビュドスを除く沿岸の全ての港と街を占領する。多くの三段櫂船を岸へ引き上げると、彼はヘレスポントスの海峡を守り、輸送船が帝都に進むのを許さなかった。そして自軍の三段櫂船の防護とアビュドス攻囲のためにマギストロスのレオン・メリセノス指揮の下にその軍の大半を組織する。それからフォーカスはビュザンティオンの対岸、クリュソポリスの丘の上に堅固な柵を築いて野営した。指揮官に兄弟でパトリキオスのニケフォロス、そしてパトリキオスでデルフィニアス姓のカロキュレスを任じて大勢の騎兵隊と歩兵隊を派遣する。

やがて皇帝バシレイオス2世は十分な軍でボスポロスを渡り、激しく戦ってフォーカス勢を破り、彼らを捕虜とする。フォーカスの兄弟ニケフォロスは捕らわれの身となり牢に入れられたが、カロキュレス・デルフィニアスは自身が幕営をおいたクリュソポリスの丘の上で磔にされた。

バルダス・フォーカスはクリュソポリスにおける自軍の壊滅と兄弟の捕縛と入牢、そしてデルフィニアスの磔を聞くと、軍勢を集めてアビュドスへ赴く。包囲攻撃でのアビュドス攻略を試み、ヨーロッパに渡ってそこも征服するためであった。

けれども皇帝バシレイオス2世は僭称者のアビュドス進撃を知ると、軍を集めて三段櫂船にギリシャ火を装備させ、フォーカスへの反攻を準備する。ヘレスポントスを渡ると、皇帝は皇帝の天幕をアビュドスの前の平原に張り、日々、軍を並べて訓練し、いかにして反乱軍を攻撃すべきか討論した。こうして皇帝はある夜、一隊を編成し、沿岸の小道で敵を攻撃する。夜が明けるとすぐに反乱軍の三段櫂船を焼き、とめどなく敵を討ち取っていった。

皇帝の突然の来襲に驚いたバルダス・フォーカスは皇帝との会戦のために軍営から船で出る。そして彼は戦場で皇帝に立ち向かったが、突如、落馬して剣でその首を刎ねられた。彼の巨体はアビュドスの土に埋葬されたが、一方、その首は帝都に送られて通りを抜ける凱旋行進で槍に掲げられてから、アジアの反乱軍へと届けられる。こうして反乱の時代は静謐の時代へと移った。

10.
また別の災いが星の出現によって予告される。夜中に再び火柱が北方にくっきりと現れ、見る者を怯えさせた。これらはケルソンがタウリスキタイに、ベロイアがミュシア人によって占領される予兆となる。日の沈む西方に現れた星があった。夕刻に現れたが一か所に留まるのではなく、明るく広範囲に及ぶ光条を放って、頻繁にその位置を変える。南に見えたかと思うと今度は北に見えた。

偉大なる殉教者を古くから記念して祝う日の前日に、恐ろしい地震が起きている。そうしたことはこの時代には起きたことがなかった。ビュザンティオンの防備が崩れ落ち、ほとんどの家屋が破壊されている。破壊された家屋はその住民たちの墓に変えられ、ビュザンティオン近郊の地区も崩れ落ちて農民の間で多くの人命が失われた。さらに大教会(ハギアソフィア)の半ドームの上部の一部も西の後陣と共に崩落している。これは6年で皇帝バシレイオス2世が再建した。深刻な飢饉と疫病、干ばつと暴風、大地の不作、起こった災いは全て星の出現の後に起こっている。エウトロピオス地区の柱が波の力によって打ち倒され、そこに住む修道士が無惨にも海流に沈んだ頃のことであった。

私の(見た)歴史は以上に代わって(いずれ)詳しく説明しようと思う。

11.
話を元に戻す。皇帝ヨハネス1世はシリアを発ちビュザンティオンを目指して帰還し始めた。途中、皇帝はロンギニアスとドリゼを見る。そこは以前、ローマ軍が多くの血と汗を流して帝国のために取り戻した肥沃で繁栄した場所であるが、その後、プロエドロスでパラコイモメノスのバシレイオスの有するところとなっていた。皇帝は困惑し、怒ったが、それは無理もないことでその男の貪欲な実権の行使を非難する。

バシレイオスの方は公然と抗議することは出来なかった。皇帝の怒りを恐れたのである。しかし裏では皇帝のことばをあざ笑って、何とかして皇帝を除くことを企んだ。今や皇帝はバシレイオスにとって抑圧的な主人になっていたからである。

皇帝はオリュンポス山に隣り合うアトロアの平原にやって来ると、パトリキオスのロマノスの家に滞在した。ロマノスはまたセバストフォロスという高い位をも有している。

ここに皇帝に従う宦官がいた。彼は皇帝から不当に処分を受けていた。彼自身によれば、彼の幸運を妬み長い間、その状況を変えようと思っていた者たちによって陥れられたのである。そして彼は賄賂の約束によって騙された。そうしたことから彼は皇帝の飲み物に毒を混ぜて渡したという。皇帝はそんなことは警戒もせず、毒をほんの一口飲んだ。いずれにせよ翌日、皇帝の四肢は麻痺したようになる。そしてそうした状況を正確に診断することは出来なかった。医師の技能が突然の苦痛に対して無駄で役に立たないことは明らかだったのである。

皇帝は自分が以前の偉大な力をなくしたと気付くと、ビュザンティオンへの到着を急ぐ。そして自身が手がけた救世主教会にある自分のための墓の完成をできるだけ急ぐよう急かした。急行して皇帝は帝都にたどり着く。市民には心より歓迎された。しかし既にすっかり衰弱しており、深呼吸するのに困難を伴っている。宮殿に着くとすぐに床に就かなくてはならなかった。毒によって消耗していたのである。

知らず知らずのうちに進む容態の悪化で重要な臓器を酷く損なっていたので、皇帝はこうした状況から自身が快復しないと気付き、惜しげもなく皇帝の財宝を貧しい者たちに配り始めた。特にその体が神聖な病(癩病)によって不具となり、蝕まれた人々を他の貧しい人々よりも気前よく扱っている。

さらに皇帝はアドリアノープルの主教ニコラオスを呼び出した。神聖で尊ぶべき男である。そして彼に人生における怠慢の罪を懺悔した。罪と恥と汚物を流す涙を両目から流し、神の御母に願う。人間の行為が我らの神である神の御母の御子によって公平な天秤で量られる最後の審判の日に加護を授けてくださるようにと。ためらいもせず罪を悔いる魂をもって、そうした懺悔をした後、皇帝は崩御し、来世の安息へと旅立った。第4インディクティオの年、創世紀元6485年1月10日(正確には6484年、西暦976年の1月10日)のことである。カルケ門にある救世主教会に埋葬された。皇帝が基礎から見事に建立した所である。

これが皇帝ヨハネス1世の最期である。背は低かったが英雄というべき力を持ち、戦争において勇敢で無敵であった。危機に直面しては度胸があり大胆である。享年51、帝国を統治すること6年と30日であった。