スキュリツェス年代記(『歴史概観』)
ニケフォロス2世フォーカス

【ニケフォロス2世フォーカス 位963-969】

1.
ニケフォロス2世は、テオファノを宮殿から退去させ、ペトリオン地区の宮殿へ送り届けるためシュンケロスの職にある者を派遣した。シュンケロスは、ストゥディオス修道院の修道士で名をアントニオスという。

その直後、ニケフォロス2世は、パラコイモメノス(寝室管理長官)のヨセフ(・ブリンガス)をパフラゴニアに追放した。程なく彼は、ピュティアの地のアセクレティスの修道院という所へ移される。ヨセフは丸二年をそこで過ごし亡くなった。

ニケフォロスはまた、自身の父 バルダスをカイサル(副皇帝)の地位に進めている。

2.
9月20日、ニケフォロス2世はテオファノを正式に妻とする。それにより彼は、あらゆる虚飾や芝居を捨て去ることができた。

以来、皇帝は肉食を再開している。最初の妻との間に生まれた息子 バルダスの死以来、ニケフォロス2世は、肉を絶っていたのである。

この息子は、ニケフォロス2世の甥 プレウセスと平原で狩りをしていた際、ふとしたはずみで槍によって致命傷を受けたのであった。

この(肉食を絶ったという)ことが、本当の斎(ものいみ)だったのか、権力者を欺くための単なる素振りであったのかについては、ただニケフォロスと神のみが知るところと言える。

ニケフォロス2世とテオファノの結婚式は、宮殿内の新教会で挙行された。

ポリュエウクトスは皇帝の手を引いて聖堂へ近づき、いよいよ中に入ろうかというところで、自らは構内へ入りながら、皇帝は外に留まらせたままにした。

ポリュエウクトスは、

「二度目の結婚を行う者に求められる贖罪を行うまで、聖堂に入ってはならない。」

と告げる。

これは、ニケフォロス2世を怒らせた。そして彼は、死の日まで決してポリュエウクトスへの怒りを収めなかった。

ここに至って、あらゆる方面から、噂が出てきた。ニケフォロス2世が、テオファノの息子の一人の聖なる洗礼式で代父に立って、少なからず教会を妨害したという噂である。

ポリュエウクトスはこの噂をちょうど良い口実として、ニケフォロス2世に対して、妻と別れるか、教会と別れるか、どちらかにするよう求めた。

実際にニケフォロス2世が選んだのは、テオファノへの執着だった。

ポリュエウクトスは、帝都在住の司祭らと主だった元老院議員を招集し、この(ニケフォロス2世の再婚に関する)問題について意見を求める。

集まった者たちはみな、その(再婚を罪とする)問題は、(聖像破壊者である)コンスタンティノス5世コプロニュモスによる決まりであるので、守る必要はないと言った。

司祭や議員らは、その旨を記した陳述書に署名し、それをポリュエウクトスに提出する。

皇帝に領聖を認めるのをポリュエウクトスが引き伸ばした際、カイサルであるバルダス・フォーカスは、

「息子(ニケフォロス2世)は代父に立っていない。」

と主張している。

さらに大宮殿の司祭ステュリアノスは、(最初に噂を流した人物だと言われているが)、司祭や元老院議員の会議に先立って、

「バルダスもしくはニケフォロスが代父に立ったのも見ていないし、そうした話は誰にもしていない。」

と誓ったのである。

ポリュエウクトスはステュリアノスが偽証していることに十分気付いていたが、ニケフォロス2世と代子の母が結婚する罪について指摘するのを止めることにした。

再婚について贖罪を求めていたポリュエウクトスは、今やその重大な罪に目をつむったのである。

3.
ニケフォロス2世は、治世の最初の年(963年)、シケリア(シチリア)のサラセン人(イスラム教徒)に当たらせるため、パトリキオスの爵位にあるマヌエルを陸海の大軍と共に派遣した。

マヌエルは、ニケフォロス2世の伯父 レオンの庶子である。レオンは、前のドメスティコス・トーン・スコローン(スコライ軍団長官。帝国陸軍総司令官)であり、ロマノス1世から盲目刑に処されていた。

もし治世の間にローマ帝国がサラセン人たちに貢納金を支払い続ければ、恥辱に苛まれることになるだろうと、ニケフォロス2世は感じていた。

4.
ここで簡単にサラセン人への貢納が始まった経緯について説明しておかねばならないだろう。

バシレイオス1世の時代、シラクサの街がアフリカのサラセン人に奪取された折に、島全体もその支配下に置かれることとなった。

シラクサは荒らされたが、ハガレノイ(イスラム教徒)はパノルモス(パレルモ)だけは、対岸への作戦の橋頭堡として残し、害を及ぼさなかった。

彼らは、パノルモスから船を出しペロポンネソスまでの島々を略奪して回る。これまで以上に彼らの攻撃を受ける可能性が高くなった。

皇帝バシレイオス1世は、いかなる手段を講じるべきか途方に暮れる。彼は、この(サラセン人に対処する)任に堪えられる臣を捜していた。

そして皇帝が選んだのは、ドメスティコス・トーン・スコローンのニケフォロスであり、名高い祖先にちなんでフォーカスの姓をつけられた人物である。彼は皇帝 ニケフォロス2世の祖父で、気高く賢明な人物であり、実際、仲間たちの前にあっても神との交わりにおいて敬虔な人であった。

ニケフォロスは名ばかりの軍と共にイタリアへ渡海すると、即座にサラセン人を敗走させる。サラセン人は大人しくシケリアに留まることを余儀なくされた。

(ニケフォロスによって)イタリア人は自由を確保しただけでなく、特筆すべき彼の他の功績にも感謝の念を抱いた。そのため彼のすばらしさを永遠に記憶するため教会を建てたと言われている。

ローマ人らは、自らの司令官と帰還しようとしていた際、奴隷として海外に連れて行くつもりで多くのイタリア人を抱えていた。ニケフォロスはこれに気付いたが、何も言わずにいた。イリュリアへと渡るためにブレンデシオンへと至るまで、彼は(麾下のローマ人らに)何も気取らせなかったのである。

そこへ到着するとニケフォロスは自ら、渡海準備のために乗船する兵士たちを個別に監視した。この干渉によって彼は、地元住民らが自由に自分たちの土地に留まれるようにしたのである。

結果としてイタリアは、コンスタンティノス7世ポルフュロゲネトをその母(ゾエ・カルボノプシナ)が後見していた時代まで平穏なままであった。

しかしサラセン人が再び自らを奮い立たせた時、そのイタリア侵略を止める者はなかった。

(帝国の)政権内では、ブルガリアがちょうど平和条約を破ったこともあり東西双方のサラセン人に耐えることはできないと認識したので、サラセン人とシケリアで交渉することに決する。

侍従の一人でもあるカラブリアの長官 エウスタティオスによって合意が達成され、サラセン人に毎年、金貨22,000枚を支払うことになったのであった。

5.
条約締結の時、パトリキオスのヨハネス・ムザロンは、カラブリアの長官に昇進する。しかし、そこの人々に対する彼の統治は締め付けの強いものだった。カラブリアの人々がムザロンを殺して、ランゴバルト王ダンドルフ(ベネヴェント公ランドルフォ1世、カプア公としてはランドルフォ3世)の下へ移ってしまうほどのものだったのである。

これは、ロマノス1世がローマ人を統治するようになった直後のことであった。

ロマノス1世はこの出来事について、好都合(な出来事)だと判断した。兵士と船をダンドルフの所へ送って、(帝国)全体から切り離された(領土の)一部を回復しようというのである。

テッサロニカのパトリキオス コスマスが派遣されたが、彼は、ダンドルフに知られた男だった。彼はイタリアに渡って、ダンドルフと連絡を取る。そしてローマ人の地から撤退して皇帝の友人となることで、敵の代わりに友人と味方を得るように助言したのである。

はじめ、ダンドルフは助言を受け入れなかった。

コスマスは思慮深く聡明な人であったので、彼に向けて、

「私は友人に、有益な助言をするために来た。だが、その有益な申し出を、あなたが歯牙にもかけなかったらどうなるだろう。あなたは自身と全ての民をこの上なく深刻な危険へと追い込んで災難に遭うだろう。そしてすぐに大きな間違いを犯してしまったと思い知ることになる。あなたは偉大で強大な力に立ち向かうことができないのだから。」

と言った。

ダンドルフはパトリキオス コスマスが、自分の取るべき道を示してくれていることに気付いて、その勧告を受け入れ、条約を締結する。

コスマスは、テマを抜け出した統治者たちに以前の忠義に復して、自分たちの皇帝を受け入れるように命じた。

彼らが恭順の姿勢を取り戻すと、イタリアとランゴバルディアの情勢は、完全な平和によって支配されるようになったのである。

6.
ブルガリア人の首領 シメオンは、ローマ人に対して多くの勝利を得たために自信過剰となり、ブルガリア人の皇帝となることを夢見はじめる。

シメオンは、アフリカ人の代々の支配者であるファトロン(ファーティマ朝のウバイドゥッラー)に、使者を遣わして、要請した。

「(ローマの)帝都へ艦隊を派遣してくれないだろうか。(その場合)自分は強力な軍を率いて(帝都を襲うために)トラキアを突破するだろう。その後で、両軍共に(帝都へ)到達したなら、水陸から帝都を包囲して、その富を均等に分け合おうではないか。そこでコンスタンティノープルをファトロンのものにして、私シメオンは、国へ戻るだろう。」

と約束したのである。

ブルガリア人は人知れずアフリカへと渡り、シメオンの提案は受け入れられた。ブルガリア人らは、合意に批准するために幾人か名の知れたサラセン人を連れていた。

ところがその帰途でたまたまブルガリア人たちは、カラブリア人たちと遭遇することになり、サラセン人と共にビュザンティオンへと送られてしまう。

皇帝 ロマノス1世は、件のブルガリア人とサラセン人らを調べ、彼らが共有した戦略の全てを聞き知った。そして、ブルガリア人とサラセン人の戦略が実現していれば、海のように大きな困難に遭遇することになっただろうと認識する。

ロマノス1世は、寛容と利益とによって、サラセン人のこの努力を抑える必要があると考えた。彼はブルガリア人は投獄したが、サラセン人の方は贅沢な贈り物で称えた。彼は、サラセン人らの指導者に高価な贈り物までして、ブルガリア人に協力したサラセン人たちを無傷で帰らせた。

ロマノス1世は、解放するサラセン人らに、帰って主人(ファトロン)に伝えるように言った。

「これがローマ皇帝が心得ている敵への報い方である。」

と。

ロマノス1世は、(かつてシケリアで約束したサラセン人への)貢納金の支払いについても延期や猶予を求めるものではなく、その時期にカラブリアで争乱が起こったために遅れているのだと詫びた。

サラセン人らは主人(ファトロン)の下へと駆け戻り、皇帝の下でどのように暮らしていたか、どのように皇帝の慈悲を受けたかを報告する。彼らは、ファトロンに持ってきた贈り物を手渡した。ファトロンは全てに喜び、ローマから支払われることになっている貢納金を半分に減らした。金貨22,000枚から金貨11,000枚が減額されたのである。

以上がその時からニケフォロス2世の即位までに、ローマ人がサラセン人にどれほどのものを与えていたかを示すものである。

カラブリアの地に賢明で公正な統治者がいる間、その民は平穏な生活を送った。そして、サラセン人への貢納金は簡単に支払われた。しかし、ひとたび統治の役割が、不公正で貪欲な人間に任せられると、その民は困難な時代を経験することになる。しかも、サラセン人との約定はもはや確かなものではなくなっていた。

コンスタンティノス7世ポルフュロゲネトスによって、カラブリアの長官に任命されたクリニテス・カルドスがやってきたのである。

アフリカとシケリアのサラセン人は、飢饉とキュレネのサラセン人との戦争の双方により、完全な疲弊状態に陥ろうとしていた。

純粋な貪欲さに突き動かされたクリニテスは、治下の人々をひどく虐待する一方、サラセン人の回復を助けている。

何が成されたのか――
クリニテスは治下の人々から馬鹿げた値段であらゆる生活必需品を買い上げ、それをサラセン人に高く売りつけていたのである。

サラセン人たちは、何も言わず言い値で支払った。彼らは気前よく金を使っている。飢饉と戦争という二つの重荷の間で圧迫されていたからである。

けれどもクリニテスは、コンスタンティノス7世から長官の任を解かれた。財産を没収され、年をとってからは(皇帝の)不興を買い、そして亡くなった。

さて、戦争中、ローマ人はカルタゴからの逃亡者を受け入れたが、カルタゴの(サラセン)人はこれらを取り戻す努力をしなかった。

事実、サラセン人は、毎年の貢納金すら放棄している。もしかすると、ローマ人を怒らせて、生活必需品の購入を妨害されるのを恐れたからかもしれない。このように、サラセン人は、飢饉による破滅の危険に晒されていた。

けれどもその後、戦争が終わった際にはサラセン人は、(ローマ帝国へ)逃亡していた者(の引き渡し)と貢納金を要求してきた。しかも、誰もがサラセン人に対して無警戒だった間に彼らは平和条約を破る。毎日のように彼らは海を渡ってカラブリアを荒らしたのであった。

7.
コンスタンティノス7世は今や皇帝だったが、義父(ロマノス1世)のようにサラセン人と穏やかに交渉するつもりも、平和条約を更新するつもりもさらさらなかった。

彼が選んだのは、問題を戦争で解決することだった。そのため、彼は軍事力を結集するとそれを、パトリキオスのマラケノスに預けてカラブリアへと送り、現地の長官と協力するように命じる。現地の長官というのは既に(ロマノス2世の記事内で)述べたパスカリオスのことである。

マラケノスはパスカリオスと共に、脅威となっているカルタゴ人やシケリア人との戦争に備えた。マクロヨハネスは、送り込まれた艦隊を率いる。

兵士たちはカラブリアに至ると、住民らを数々の蛮行で痛めつけた。彼らは、略奪や暴行、その他、敵でさえ躊躇するような非道を行ったのである。

サラセン人のアミール アブルカレ(シチリア首長国のアル・ハッサン・イブン・アリー・アル・カルビ)はこれを聞くと、将兵を鼓舞して、そのような非道を行って自身の民を苦しめるような軍を恐れることはないと呼びかけた。

彼は、偉大な戦いを起こし、見事に輝かしい勝利を手にしたのである。(ローマ側は)指揮官らでさえ、命からがら逃げ延びるだけだった。

8.
この後、皇帝 コンスタンティノス7世は、サラセン人との和平交渉を行うために、アセクレティス(尚書官)のヨハネス・ピラトスを派遣した。

サラセン人には勝ちに乗じる習慣はなく、自分たちが優勢な内に和平を結ぶため、(ローマからの申し出を)よく聞き入れた。そして短期間の和平合意が締結されることとなる。

ところが、ひとたびこの和平の期限が切れると、サラセン人たちは海を渡り、再びカラブリアを荒らした。そこで、コンスタンティノス7世は、陸海でサラセン人たちに対する別の遠征軍を派遣する。

ローマ海軍はクラムベアスとマロレオン(狂ったレオンの意)の指揮下にあり、パトリキオスのマリアノス・アルギュロスが陸軍を率いた。

彼らはヒュドレントス(オトラント)に着くと海岸に船を引き上げて、シケリアへの渡海を準備し始める。

サラセン人は、突如として敵が近場に現れたことで、自分たちに何らかの災難が降りかかるかもしれないと恐れおののいた。なぜなら、彼らの準備がまだ整っていなかったからである。恐慌状態となったサラセン人たちは、野営地を放棄してレギオンから逃げ失せシケリアへ渡った。

パノルモスに近づきつつあった彼らは大時化に見舞われることとなる。彼らの船は波によって、否むしろ、サラセン人たちが冒涜した神であるキリストによって転覆させられ、そして、滅び去った。

こうしてサラセン人はローマ人と条約を結び、フォーカスの即位まで平和が保たれたのであった。

9.
既に述べたように、ニケフォロス2世は皇帝に即位すると、サラセン人に貢納金を支払うのは不適切と考え、マヌエルに分遣隊を与えて彼らに当たらせている。マヌエルは、非常に若く、指揮官の地位よりは、下士官にある方が適していた。

彼にはまた悪い癖があった。どんなに優れた助言にも耳を貸さなかったのである。

マヌエルは自身とその全軍をシケリアの険阻で近寄りがたい地形に囲まれた所へ入れてしまい、完全な破滅を招く。

ドゥルンガリオス・トゥー・ストルー(中央艦隊長官)の職にあったパトリキオスの宦官 ニケタスは、生け捕りにされてアフリカへ送られた。捕虜となったのである。

これがマヌエルに降りかかった破局であり、彼が全軍壊滅の原因となった経緯である。

10.
この年皇帝は、キリキアに対して司令官 ヨハネス・ツィミスケスを派遣している。ツィミスケスは既にドメスティコス・トーン・スコローン・テース・アナトレース(東方のスコライ軍団長官。帝国陸軍東方総司令官)であった。

彼はアダナの街まで来た時、キリキア中から集まった精鋭のハガレノイに遭遇する。ツィミスケスは彼らとの戦闘に加わり、徹底的に破った。

彼らの一部は、戦争の常としてずたずたに切り刻まれたが、その軍の一部、およそ五千人は、起伏の激しい険しい山の上に徒歩で避難する。彼らは地の利を最大限に活かして、襲い来る者たちを果敢に追い払った。

ヨハネスはハガレノイを包囲したが騎乗のまま近づくことはせず、部下に馬から降りるよう命じると、共に徒歩で前進した。ヨハネスは敵を打ち破ると、彼らが逃げなかったために皆殺しにする。その血は山腹から平地まで流れ、川のようになった。その出来事のために、その山は「血の山」と呼ばれるようになっている。

この成果はヨハネスの名声をさらに高めることになった。それはサラセン人の完全なる敗北の始まりだったのである。

11.
治世二年目(964年)の7月、第7インディクティオの年、ニケフォロス2世は大規模なローマ軍及び、イベリアとアルメニアの同盟軍と共にキリキアへと進撃する。

テオファノとそのこどもたちも彼と共にあった。

彼は、ドリズィオンと呼ばれる要塞にテオファノらを残し、キリキアに入る。キリキアを進撃する中で、アナザルボス、ローソス、アダナといった都市に加えて、多くの他の要塞を破壊した。

冬が近づいていたのでニケフォロス2世は、タルソスやモプスエスティアに近づくのをためらう。彼は、前線に十分な分遣隊を残すと、越冬のためカッパドキアに引き上げた。

12.
春の初めにニケフォロス2世は再びキリキアへと進撃し、軍を二つに分ける。彼は弟 レオンに一軍を預けてタルソスを包囲させ、一方で、自らはモプスエスティアへ進撃した。

そこでニケフォロス2世は猛烈な包囲攻撃を行ったが、飢饉が皇帝を利し、街の一部を奪うことができた。

この街はサロス川によって二つに分かれており、二つの都市であるかのような印象を与える。

今述べたように、ニケフォロス2世は(サロス川を挟んだ街の二つの地区の内)片側を取った。しかし、そこが陥落する際、サラセン人は占領される片側の地区を全て燃やして、街のもう一方へ逃げ込んでいる。

皇帝は包囲を強め、街のもう一方もその手に落ちた。誰もそこから逃げ出すことはできなかった。

その頃、皇帝の弟 レオンはタルソスを包囲していたが、妨害を被っている。

レオンは麾下の指揮官 モナステリオテスに分遣隊を与え、糧秣やその他の軍需物資をかき集めるために送り出した。モナステリオテスらの隊は護衛をつけておらず、かなり散らばっていた。

タルソスの守備隊は、夜にモナステリオテスらにそれと気付かれないように外へ打って出る。彼らは、散らばっていた兵士たちを数多く討ち取ったが、そこにはモナステリオテス自身も含まれていたのである。

しかし、タルソスの人々は、モプスエスティアが包囲攻撃と飢饉で疲弊しきって陥落したことを知ると、街の代表をレオンの下へ遣わした。彼らは、開城の際には、自分たちに危害を加えないように、皇帝へ懇願する。

皇帝は、各人が一定の戦利品を持ち去ることを許可し、自身はタルソスの残りの富の全てを手に入れたのだった。

13.
街の開城から三日後、大艦隊が穀物や軍需物資を満載してタルソス救援のためにエジプトからやって来る。しかし、皇帝が海岸防備のために配備した兵士たちによって、(救援艦隊による)物資の陸揚げは阻止された。

こうした状況にあって何もできないため、船は帰って行く。

これら救援艦の多くは、暴風や帝国艦隊の攻撃によって沈められたのであった。

14.
キリキアの残りの街を略奪し、焼き払った後、皇帝は第9インディクティオの年の10月(965年10月)にはコンスタンティノープルに戻る。タルソスとモプスエスティアの城門も運んできた。

これらの門は表面に金を施して、帝都に捧げられる。一方はアクロポリスに、もう一方は黄金門のそばの壁に設置された。

ニケフォロス2世は、神への捧げ物として、また遠征で得たささやかなものとして貴重な十字架を捧げた。それはかつて、ドメスティコス・トーン・スコローンだったステュペイオテスがタルソスに押し寄せながらもその先見性の欠如によって自軍全体を壊滅に至らせた際に、(敵に)鹵獲されていたものである。

これらは、至聖なる神の御言葉の叡智の教会(ハギア・ソフィア)に置かれた。

15.
同じく治世の二年目(965年)、ニケフォロス2世は、キプロス島の全土をローマの支配下に取り戻した。同地からは長官であるパトリキオスのニケタス・カルクツェスの手によって、ハガレノイが追い払われている。

治世の三年目(966年)、春の初めに皇帝はもう一つの遠征をシリアに対して行った。

アンティオキアの眼前に到達したが、ニケフォロス2世は攻撃を仕掛けなかった。ただニケフォロスの名前が出るだけで、アンティオキアの人々が恐れ、その恐れがキリキアの街々に降りかかることを見越したのである。

そのためニケフォロス2世はアンティオキアは素通りして、シリア内陸部へと侵入、多くの街、多くの土地を荒らして、レバノンに向かって海岸を南下し、12月に戻っている。

今やアンティオキアの人々は、自信を持って戦いに臨む準備ができていた。近隣の郷里より、多くの男たちが入ってきて街を強化したからである。

ローマ軍は物資不足と、空から絶え間なく降り続く雨によって生じた抜け出せない広大な沼地と戦わねばならない事態に悩まされた。

そこで皇帝は、得る所なく帝都に戻ってきたのであった。

ヒエラポリスで発見され持ち出された、「人の手によらざるもの」と言われる我らが神キリストの容貌を刻印したタイルと、洗礼者ヨハネの血に塗れた髪の一房も、帝都へともたらされている。

16.
ニケフォロス2世は見事な戦略を採り、ローマ領を押し広げるほどだった。彼はフェニキアのトリポリとダマスクスに貢納金を支払う一方で、キリキアやシリア、レバノンのフェニキアでアナザルボス・アダナ・モプスエスティア・タルソス・パグラス・シュンネピオン・ラオディケイア、そしてアレッポなど100を超える都市や要塞を手に入れている。ニケフォロス2世はそういう男だった。

にもかかわらず、彼は全ての人から嫌われており、誰もが彼の失脚を見たいと願っていた。この話について、(ニケフォロス2世が嫌われていた)理由は、後述しようと思う。

17.
ニケフォロス2世は、アンティオキアから帝都へと戻る途上、地元で黒い山として知られているタウロス山脈の中心を横切ったが、そのほとんど攻略不能の丘の頂上に要塞を築いた。彼は、ミカエル・ブルツェスにパトリキオスの称号を与えて、その要塞に残し、彼を黒い山の司令官と名付ける。

ニケフォロス2世の(ブルツェスへの)命令は、絶えず監視を行ってあらゆる手段を講じ、アンティオキアの人々が必要な物資を入手しようと出て来るのを阻止することであった。

彼はまた、意気軒昂で働き者のペトロスという名の宦官をも残していった。ニケフォロス2世は、彼をストラトペダルケス(司令長官)に任じてキリキアに配し、越冬のために軍を分散させて、次の春に復帰してくるのを待つように命じている。

皇帝は攻撃によってアンティオキアを奪えたのに、それをしなかったと言われた。彼が怖気づいてわざとアンティオキア攻略をずるずると引き伸ばしたのだという噂が立ち、広まったのである。事実、誰もが

「アンティオキアを陥したら、皇帝は死にでもするんだろう。」

と言い出していた。

そんな噂が立ったのは、ニケフォロス2世がアンティオキアに近づかず、ペトロスやブルツェスにもアンティオキアに対して全く何の行動もとらせなかったからである。

既に述べたような準備をしてから、ニケフォロス2世は帝都へ戻った。

しかし、ブルツェスはアンティオキアの近くにあって、不朽の名誉を得たいと切望していた。彼は、皇帝の命令にはほとんど注意を払わず、日夜、その街を手に入れる方法を見つけようと、知恵を絞る。

ブルツェスは何度もアンティオキア側との条約の交渉に当たったが、彼らは全く自惚れており、ブルツェスの提案を拒絶したのだった。

そこで、ブルツェスは密かに一人のサラセン人アウラクスと友となって、彼を贈り物によって籠絡し、カラというアンティオキアの西の塔の寸法を知るに至る。それからブルツェスは彼と共に塔のてっぺんまで届くはしごを作り、新月の雨の夜、こっそりと城壁に立てかけておいた。

彼は三百人の兵士を連れてはしごを上り、その塔と隣の塔を守っている者を殺す。三百人が二つの塔を確保した所で、ブルツェスはすぐにストラトペダルケス(ペトロス)へ急使を送り、アンティオキア奪取のため急いで全軍で来るように促した。

ペトロスは要請を受けた時、ためらいを覚え、そして(出撃を)引き伸ばした。皇帝の命令に背いてその勘気を被り、懲罰を受けることを恐れたのである。

けれどもブルツェスは今一人、急使を送ってなおも(アンティオキア攻略を)主張し、速やかな来援を要請した。さらに、自分たちを包囲している軍勢に長くは持ちこたえられないだろうと知らせた。

アンティオキアの兵たちは、塔が占拠されていると知ると、四方八方から駆けつけて塔を取り戻そうと試みる。

ブルツェスらはありとあらゆる飛び道具を投げつけ、様々な兵器を用いた。下へ向けて火を放ち、またその他の手段を採った。

それは、妻子と共に破滅する危険がある時や他の東方の全都市に優る都市を失う時に、彼らのような男たちが採るべき手段である。

ストラトペダルケス(ペトロス)は、ローマ帝国がそのように勇気ある者を多く失うことを恐れた。そして、彼は己の意に反する命令違反をして渋々、全軍と共にブルツェスらが奮闘しているその街へ急行する。

ペトロスは、ブルツェスらの軍を見つけた。彼らは三昼夜包囲を受け、苦境に立たされて悲嘆に暮れていた。

アンティオキア勢はペトロスの接近を聞くと、意気消沈して攻撃の手を緩める。好機をつかもうとブルツェスは城門へと降り立ち、剣で閂を切断し門を開けた。ペトロスは全軍で入城する。

これが、有名な大アンティオキア攻略のあらましである。

ニケフォロス2世は、そのような街を得たことを聞いて喜ぶべきであり、また、己の運命を神の手に委ねるべきだった。

けれどもむしろ、ブルツェスとペトロスによるアンティオキア攻略は、ニケフォロス2世を悩ませた。

皇帝は、ストラトペダルケスのペトロスを罰した。そしてブルツェスに対しては、その独創性と勇気を認めて優れた功績に褒賞を与えるのを拒んだだけでなく、彼を激しく侮辱して、司令官の任を解き自宅謹慎としたのである。

18.
以下に述べる理由、またその他によって、ニケフォロス2世は誰からも嫌われ憎まれるようになっていた。

ニケフォロス2世を支持する動きが見られた当初ですら、その兵士たちは何千件も家財を奪っていったが、彼はそれを止めようともしていない。

「大勢の者どものうちに、いくらか不品行を働く者があったからといって、何を驚くことがあろうか。」

とニケフォロス2世は言ったのである。

さらに、彼が都市に入った際には、身分の上下に関わらず多くの市民たちが略奪を受けたが、罪を犯した者が処罰を受けることはなかった。

ニケフォロス2世は単に、兵士らの悪行を見過ごし、規律の乱れた軍が非道をほしいままにする状態をおもしろがっていたのである。そして、彼が権力の座に上ることに少なからず貢献した当の市民らを虐待したのであった。

彼は、多くの遠征を行ったが、その内の一つを行った際、追加の徴税とあらゆる物資の徴発を実行したばかりか、想像を絶する略奪までして、臣民らをひどく虐げている。

これまで指摘されてきたことに加え、伝えられるところではニケフォロス2世は、戦費の不足のため元老院議員らの特権による収入の一部を廃止したと言われる。さらに、敬虔な歴代皇帝の何人かが修道院や教会への補助金として設けた収入も完全に廃止してしまった。

ニケフォロス2世は、兵士らが困窮しているなら、主教らは収入を処分して清貧となるべきだと不当に主張して、教会が保有する土地建物を増やしてはならないという法律まで公布した。

しかし、何より悪かったのは、彼が、自分が知らない間に許可なく主教の選定や成聖を行ってはならないという法律を作ったことだった。この法律の制定には、主教の中でも暗愚な追従の徒が寄与している。

さらに、主教が亡くなった時には、ニケフォロス2世は、帝国の特使を派遣して、主教区の経費を管理するよう命じ、経費の内、余剰分の収入の差し押さえをさせた。

彼は、その他にもどんな必要性があろうとも正当化し得ない、いくつかの規定を作った。これについて詳細に伝えるのは、優れた語り手の知恵や弁舌を持ってしても不可能だろう。

ニケフォロス2世は、戦死した兵士に殉教者の栄誉を与える法の制定に尽力している。このように魂の救済を兵役中の活動に関わるもののみに、限ったものとしようとしたのだった。皇帝は総主教と主教らにこの教義に同意するよう迫ったが、彼らの一部は激しく抵抗し、その意図を挫いている。

彼らは、戦闘で敵を殺した者を、三年間破門したままとするよう要求する大バシレイオス(カイサレイアのバシレイオス)の聖典を根拠として示したのだった。

ニケフォロス2世は金貨を切り下げ、テタルテロンと呼ばれる金貨を考案している。それ以来、金貨には二種類の大きさのものが存在するようになった。彼は、税の徴収では重い方を要求したが、支出には小さい方を用いている。

法律と慣習では、全ての硬貨が皇帝の肖像を帯びるべきであり、軽量であろうとも同じ価値がなくてはならないとしていた。ところがニケフォロス2世は、自らの(肖像のある)硬貨が好ましいものであると規定し、他のものの価値を引き下げたのである。

このため、臣民らは、交換比率で大いに苦しむこととなる。さらに最も悪かったのは、政府が貨幣価値を統制したにもかかわらず、市場での物の供給が、決して保証されないことだった。

とはいえ、他の何よりも人々を苦しめたのは、宮殿の城壁の建設で、それは本当に極めて厄介であった。宮殿の周りには、ニケフォロス2世が城砦を築くために取り壊した、多くの巨大で美しい建物があった。暴君は哀れな市民を見下ろしながら暮らしていたのである。

彼は台所と製パン室付きの倉庫と穀倉を建て、そこを食糧で満たしている。

ニケフォロス2世は宮殿で崩御すると予言されていた。彼は、

「主が都市をお守りになる以外は、寝ずの番は無駄になる。」

ということに気付いてはいなかった。

城壁の建設が終わった時、建設事業の責任者が鍵を持ってきてニケフォロス2世に渡したが、まさにその日に、ニケフォロス2世は崩御したのである。

19.
以上に加えて、彼に向けられた憎悪をさらに強烈にする他のことがあった。

聖なる復活大祭の祭礼のまさにその時、海軍の人間と何人かのアルメニア人との間で小競り合いが起こる。そこで多くの命が失われ、長官のシシニオスももう少しで殺されるところであった。

この出来事から噂が広まる。

ニケフォロス2世が小競り合いについて責任があると疑われる市民に激怒し、ヒッポドローム(大競馬場)が使われる日に、市民らに罠を仕掛けて罰するつもりであるという噂であった。

実際にニケフォロス2世は競馬が行われた後で、観客を楽しませるために、幾人かに抜き身の剣をとらせ互いに本当の敵であるかのように戦うよう命じる。彼はおそらく市民らを怖がらせるためにも、市民に軍人らの対戦を本物のように見せたいと思っていた。

しかし「対戦」が行われた時、観客たちはなぜそれが行われているのかを知らず、流行りの噂が真実であると思い込んでしまう。彼らは出口の灯りに殺到したが、そこは全て危険な急坂であり(人々は)折り重なるように倒れ、多くが死んだ。

皇帝が玉座に毅然と静かに座っていることに気付かなければ、人々はみな(混乱の中で)互いの足に踏み潰されて死んでいただろう。群衆は皇帝がそこに不動で座っているのを見て、起きたことが彼の意図したものではないと気付き、先を争って逃げ出すのを止めた。

20.
キリストの升天祭で、ニケフォロス2世は、ペゲへと向かう厳かな行列に加わったが、その帰途、アトロプラテイオン・アゴラにおいて、ヒッポドロームで命を落とした人たちの遺族らを迎えた。

彼らは侮辱的な態度でニケフォロス2世を非難し、「罰を免れた殺人者」、「民の血に染まった暗殺者」と呼んだのであった。

彼らは、コンスタンティヌス大帝の広場に至るまで、ずっと皇帝に土くれや石を投げつけ続ける。

もし、心ある市民らが介入して不心得者を追い払い、皇帝に同行して彼を道々、賞賛して歌っていなければ、皇帝は恐怖のために立ち往生していただろう。

市民たちが皇帝に敵愾心を抱いていると知ったことが、皇帝が城塞の宮殿を築き上げた理由であった。

ニケフォロス2世は、ちょうど自分のために万事うまく備えたと考えていたところだったが、運命からは逃れられなかった。彼の命は奪われてしまうのである。どのようなことが起こったのかについては、適切なところで述べようと思う。

治世四年目(967年)、第10インディクティオの年の7月、皇帝はトラキアの街を訪れるために出発し、長城と呼ばれている(エルケシヤの防壁)まで来たが、その時ブルガリアの君主 ペタル1世に手紙を書いた。トルコ人がドナウ川を渡ってローマ領を襲うのを防ぐためである。

ペタル1世は手紙のことは気にもとめず、むしろ、(ローマ帝国に)対抗するあらゆる好機を窺った。そのため、ニケフォロス2世は、ケルソン総督の息子カロキュロスをパトリキオスに昇進させ、ルーシの君主 スヴャトスラフの下へと派遣する。彼を贈り物と栄誉で説得して対ブルガリア戦線への参加を約束させるためであった。

ルーシ側は同意し、ニケフォロス2世の治世5年目(968年)、第11インディクティオの年の8月にブルガリアに対して出撃する。ルーシ勢は、ブルガリアの多くの街や地域を荒らし、大量の略奪品をかき集め自分たちの領土へ戻っていった。

彼らは、ニケフォロス2世の治世6年目(969年)に再びブルガリアに対する攻撃を行い、最初の時と同等かそれよりひどい害を与えている。

第11インディクティオの年の9月2日(967年9月2日)、夜の12時に極めて猛烈な地震がホノリアスとパフラゴニアを襲い甚大な被害が出た。

同じ第11インディクティオの年の5月(968年5月)には、凶悪な熱波が襲い、穀物を、そして木々やブドウを全滅させ、その結果、第12インディクティオの年(968年9月-969年8月)には、激しい飢饉が起こる。

皇帝は(臣民の安寧に心を寄せるべきだったのに)帝国の穀物の売り出しによって、今や困窮する人々から利益を得た。そして、ニケフォロス2世は、金貨一枚で1メディムノスの量の穀物が売られていたのを、2メディムノス売るよう命じたが、それをさも偉大な行為であるかのように得意になった。

彼は確かにバシレイオス1世を継ぐものではなかった。

ニケフォロス2世は、復活大祭の日曜日に聖使徒大聖堂へやって来た時、明らかに落ち込んでうなだれていた敬虔で身なりの良い市民らに出会う。

皇帝はその者たちを連れて来させて、なぜこの祝祭にあって祭礼服をまとうのではなく、むしろ陰鬱さをまとっているのか尋ねた。彼らの街は大きな逆境にあっていた。

一人の市民が答えて言う。

「陛下や周囲の方が祭礼服をまとい喜ぶのは、正しく、(この時に)ふさわしいことです。ですが、今、死が訪れようとしている者のためにはなりません。凶悪な熱波のために2メディムノスの穀物が金貨1枚で売られていることを、おそらく陛下はご存知ではありますまい。」

と。

その言葉に、皇帝は大きなため息をついて、気の毒に思い涙を流した。

皇帝は惜しみなく援助を行って彼らを安堵させ、宮廷に戻ると都市や帝国の事務官を招集して、会議を開く。

皇帝は、自身に穀物不足についての報告がなかったことを痛烈な非難をもって叱責し、罵った。そして、直ちに帝国と公共的な穀物の備蓄を市場に放出させ、12メディムノスを金貨一枚で売るように定めた。

神はこの善行をお認めになり、人々に大いに豊かさをお与えになった。

けれども、それは皇帝の功績と言われてしまっている。ニケフォロス2世が喜んだのは、民を救う時ではなく、むしろ、彼らが苦しんでいる時だった。皇帝のみならず、その弟であるレオンも同様で、必要な物資を(金での)取引に出すことによって、世界を数多の様々な苦しみで満たしたのである。

彼らが卑劣にもまやかしによって金を得ることに対して、市民たちは進んで彼らを軽蔑した。

ある時、皇帝が平原に出て軍の訓練をしていると、白髪の男がやって来て軍に入隊しようとした。ニケフォロス2世は彼に、

「ご老人、なぜそう急いで我が兵になろうとされるのだ?」

と言った。

彼は臆面もなく、

「今の私が若い時より大層強いからですよ。」

と言い、

「なぜ、そんなことになるのかお分かりで?」

と皇帝に尋ねた。(そして男はつづける)

「それは、かつては金貨1枚で買える程度の穀物を運ぶのに、ロバを二頭、必要としていたものでしたが、あなたの統治になってから、私は金貨2枚分の穀物を簡単に肩に担げるようになったからです。」

皇帝は冗談に気付いたが、意に介さず立ち去った。

21.
シリアとキリキアの都市が取られた後、サラセン人はエルサレム総主教 ヨハネスを生きたまま火あぶりにした。ヨハネスの扇動によってニケフォロス2世がエルサレムまでやって来るかもしれなかったからである。サラセン人はまた優美な聖墳墓教会も焼き討ちした。

アンティオキアの人たちも同様に、その総主教であるクリストフォロスを虐殺する。

ゲオルギオスとパンクラティオスの兄弟も彼らの故郷タロンから逃げ出し、今や皇帝の下へ身を寄せたのであった。皇帝は、彼らをパトリキオスに引き上げ、実入りの良い領地を与えている。

(967年)12月22日、3時間ほど日食が起こり、星を見ることができた。

22.
皇后 テオファノは、ニケフォロス2世との関係を終わらせようと、ツィミスケスの配下を遣わして、その主人を呼び寄せた。

ツィミスケスは、その所領で暇を持てあましていた。皇帝は以前、ツィミスケスをあれこれと疑って、ドメスティコス・トーン・スコローンから外し、所領で謹慎するように命じていたのであった。

使者はツィミスケスを領地から連れ出した。姦婦がツィミスケスのためにその移動を許可する旨、書状で手配したからである。

彼はカルケドンに到着した。皇帝は、ツィミスケスが帝都に入っても良いかどうか尋ねられた時、しばらく待つべき旨、返答する。

ところが、創世紀元6478年(969年)、第13インディクティオの年の12月11日夜、皇后はツィミスケスを連れて来させ、宮殿の下に掘られていた港へ入らせた。テオファノは港からツィミスケスらをつりかごで引き上げさせる。

パトリキオスのミカエル・ブルツェス、タクシアルコスのレオン・アバランテス、さらにツィミスケスが最も信頼する同志アツュポテオドロスらと他二名の者がいた。彼らは宮殿へ上がると、剣を手に皇帝の寝室へと入る。

寝台に皇帝の姿は見当たらなかった。もしこの時、女(テオファノ)の部屋付きの小者に出くわしていなければ、彼らは(テオファノに)裏切られたと考え、即座に死へと向かっていただろう。

彼らは偶然、床の上に緋染めの毛布と熊の毛皮をしとねにして寝そべる皇帝を見つけた。それらは、皇帝が修道士の叔父 ミカエル・マレイノスからもらい受けたものである。

ニケフォロス2世はちょうど寝入ったところであり、彼を弑逆しようとしている者たちがやってきたことに微塵も気付いていなかった。

ツィミスケスは、皇帝を蹴り起こす。

皇帝が目覚め、右肘を床について頭を上げた。その時、ちょうど、レオン・アバランテスが抜き身の剣で、起き上がった際に頭の覆いが落ちて無防備になっている皇帝の頭に斬りつけ、重傷を負わせた。彼の頭蓋は裂けた。

それから、アバランテスらは、寝床から皇帝を持ち上げ、皇帝の寝台に座っているツィミスケスの所へ連れて行く。

彼らは皇帝を罵り、責め立て、そして皇帝に呪いの言葉を浴びせた。皇帝はただ、

「主よ、お慈悲を!」「神の御母よ、ご加護を!」

と口にするのみだった。

宮殿の衛兵が異変を嗅ぎつけ、その部隊が攻撃の態勢を整えはじめたので、ツィミスケスらは、ついに皇帝を弑逆するに至る。

彼らは、皇帝の首を掻き切ると、それを窓から皇帝の救援に駆けつけてきている者に向かって見せた。

衛兵たちはこれに呆然としてしまった。ツィミスケスの一党は何の危険もなく報復に遭うこともなく、目的を遂げる。

23.
皇帝は弑される十日前、自室に置かれた文章を見つける。ツィミスケスが主導する陰謀の対象が皇帝であるので、その身を守るようにと警告するものだった。

弑逆の前の夕刻にもまた、ある聖職者が以下の旨の手紙を皇帝に渡している。

「皇帝陛下、ご自身の身を守られますように。まさに今夜、陛下に対して大きな危険が用意されております。」

皇帝が手紙を嘆願書だと思って読まなかったと言う者もある。また、皇帝はそれを読んだが、運命のいたずらによって彼が自身の身の安全に関して無関心であり、弑されて後にそうした内容が書かれた文章が見つかったと言う者もある。

皇帝がそれを読んで、プロトベスティアリオス(衣服管理長官)に問題を調べて、警備状況を点検するように命じたと主張する者もある。皇帝はまた、自邸にいた弟 レオンに武装した部隊を集めてできる限り早く宮殿に来るように手紙を書いたともいう。

レオンは書状を受け取った時、何人かでサイコロを振って遊んでおり、ツキが回ってきていたためにそれを開けなかった。彼は自身の寝椅子のクッションの下に手紙をしまい込む。

レオンはゲームが終わった時、手紙を目にし、書かれている内容の意味するところをさとる。彼は仲間をまとめて、手紙にあったような危険な状況に対処するために、宮殿へ向かった。

しかし、レオンはヒッポドローム(大競馬場)の西の端まで来た時、皇帝ニケフォロスが今はもう死んだと人々が互いに口にしているのを聞く。そして、大通りや路地でヨハネス(・ツィミスケス)を歓呼する声が上がった。

レオンは、この予期せぬ出来事の変化に動けなくなり、大胆な反撃を考えることもできなかった。そこで、彼はできる限り早く、自身の息子であるニケフォロスとハギア・ソフィアに向かったのであった。

(様々な説があるが)それらを主張した者たちは、言っている。

「(こうした説が)嘘か本当かは分からない。しかし、ニケフォロス2世は確かに崩御した。宮殿で弑されたのだ。」

と。

ニケフォロス2世はその時57歳だった。

同じ日の夜、かなり遅くになってニケフォロス2世は、ヨハネス(・ツィミスケス)の命令で埋葬される。

彼らは、ニケフォロス2世をあり合わせの木の棺に入れ、夜中に聖使徒教会へ運んで、廟の中の帝室の石棺の一つに埋葬した。そこには、神聖で永遠に記憶すべきコンスタンティヌス大帝が横たわっている。

ニケフォロス2世は、顔は、黒っぽいと言うよりは青白い。髪は太く黒く、太い眉の下には、思慮深そうで、憂いを帯びた黒い目があった。鼻は平均的な大きさで、厚みがあり、先端に向かってわずかに上を向いている。口ひげは少しも大きすぎず、まばらな灰色の頬髭と繋がっていた。

体は丸まっていたが、たくましく、胸と肩は異常に広い。その力と気迫は名高いヘラクレスに等しく、知恵と知能は同世代のあらゆる者を超越していた。

以上がニケフォロス2世の姿である。

メリテネの主教 ヨハネスは、以下の語句をニケフォロス2世の石棺に刻んでいる。

「かつて男たちを剣よりももっと細く刻んだその人は――
女と剣の犠牲となった。

かつて己の力で全世界を保っていた、今は小さくなってしまったその人は――
ほんの小さな地上の庭に収められている。

かつて野獣のように見え、あがめられていたその人は――
その妻に羊であるかのように弑逆された。

夜、ほとんど眠らなかったその人は――
今や墓にあって永遠の眠りについている。

それは苦き光景なり――良き指導者よ、御目覚めあれ!

歩兵、騎兵、弓兵をお連れあれ――
それは重武装して我々の港を襲うルーシ人、
我々を虐殺せんとするスキタイ人と戦うための神の部隊、連隊なり。

あなたの街を傷つけるあらゆる民が一方では――
かつてあなたの街ビュザンティオンの門前に刻まれたあなたの顔に怯えた。

無視なさい給うな――
今やあなたをここに引き止める墓の石は振り捨て給え、
そして、野獣に石を投げ、異教徒を退け給え――
我らに固く安定した堅牢な石の土台を築き給え――

また、もしあなたがしばらくの間、その墓から離れないのなら――
少なくとも敵に対して地の底から叫び給え!

それだけで敵を追い散らせるであろう。

さもなくば、我々のためにその場所、あなたの墓を譲り給え――
あなたもご存知のように、死が全てのキリスト教徒の安寧と救いとなるのだから――

ニケフォロス、全てを征服しながら、イヴを征服できなかった者よ――」

そういったものであった。