スキュリツェス年代記(『歴史概観』)
コンスタンティノス7世ポルフュロゲネトス
単独統治時代

【コンスタンティノス7世ポルフュロゲネトス(単独統治時代)944-959】

1.
皇帝コンスタンティノス7世が随分と幼い内に孤児となってしまったので、国政は皇帝の母と既に挙げた者たちによって運営されることとなる。

パラコイモメノス(寝室管理長官)のコンスタンティノスは、皇太后にかなりの影響力を及ぼしていた。一方で、ドメスティコス・トーン・スコローン・テース・アナトレース(東方のスコライ軍団長官。帝国陸軍の東方総司令官)でマギストロスの爵位にあるレオン・フォーカスは、パラコイモメノスの姉妹と結婚して、その義理の兄弟となった。こうして(パラコイモメノスの)コンスタンティノスは帝国の全権を掌握し、思いのままに差配することができるようになったのである。

パラコイモメノスは日夜、皇帝コンスタンティノス7世を廃して、帝国の政権を自身の義理の兄弟に移す方法を探していた。(コンスタンティノス7世)ポルフュロゲネトスの後見人であったテオドロスは、これに気付くと、当時ドゥルンガリオス・トゥー・プロイムー(中央艦隊長官)であったロマノス(後のロマノス1世)を動かそうと尽力する。そして、皇帝の庇護者、守護者となることをロマノスに期待して、彼を連れて宮廷に入らせた。

ロマノスは宮廷にあって少しずつあらゆる権力を掌握していく。決して皇帝となる大望を抱かないという、恭しい誓いで自らを縛っていたロマノスは与えられた権力に満足せず、誓いを破り、自ら皇帝となる。

どう見ても、進んでロマノス1世の額に帝冠を被せているのはポルフュロゲネトスその人であったが、それは、ホメロス(の詩イリアス)の言葉を借りれば「我が意に反し」たものであった。

ロマノス1世のみならず、その息子 クリストフォロスも少し後に(共同)皇帝とされた。ロマノス1世はさらに時を置いて、息子 ステファノスとコンスタンティノスも(共同)皇帝としている。

今やロマノス1世は皇帝を称したが、その序列は望ましいものではなかった。第二の地位にあることを不愉快に思っていたのである。そこでロマノス1世は(コンスタンティノス7世の)後見人(テオドロス)の他、自身に反対すると思われる者を追放して、自ら正帝と宣言して国政の全権を引き継ぐ。ロマノス1世の息子たちが彼に次ぐ(共同皇帝の)地位となり、コンスタンティノス7世は最も下(の共同皇帝の地位)に置かれた。

今ではコンスタンティノス7世は形だけの名ばかりの皇帝に過ぎなくなっていた。全ての実権を奪われたのである。そのため、コンスタンティノス7世が不断に努力し最も熱望したのは、簒奪者を除くことであり、父(レオン6世)の統帥権を受け継ぐことであった。ポルフュロゲネトスは、(ロマノス1世の)息子たちをその父に反抗させる以外(の方法)では、この望みを実現できないと考える。

さて、たまたまクリストフォロスは世を去ったが、まだステファノスとコンスタンティノスは健在であった。コンスタンティノス7世は、計画を実行に移せるかどうか確かめようと、彼らを探ることに決める。

ポルフュロゲネトスは、敢えてコンスタンティノス・レカペノスを試すことはしなかった。非常に扱いにくい性格だったからである。そこで、相手をステファノスに絞って全ての陰謀を巡らせ、接触することに決めた。ステファノスは、軽薄な性格で、よりたやすく、ポルフュロゲネトスの思い描く方を向いてくれたのである。

ポルフュロゲネトスは共謀者、協力者として、偽計と陰謀を巡らせることに驚くほど長けた非常に才能のある者を得た。ペテイノスとあだ名されるバシレイオスであり、ヘタイレイア軍団(皇帝の護衛部隊)に登録されている者で、コンスタンティノス7世ポルフュロゲネトスの若い頃からの親友である。

ポルフュロゲネトスはペテイノスと計画を共有した。そして彼を通じてステファノスに自らが友人であると思いこませる。二枚舌と策略による狡猾な言葉でステファノスを惑わせたのであった。

ペテイノスはあらゆる手を尽くしてステファノスが自分に好意を持つように仕向け、それが成功すると彼について回るようになる。ステファノスの虚栄心をくすぐって、間もなく彼が現状の自分に不満と苛立ちを持つような言葉と助言でその耳を満たした。

「陛下――」ペテイノスは言った。

「あなたは若く活力がお有りで、情熱と知恵で抜きん出ておいでです。なのになぜ、国政が限界ぎりぎりで、か細い時代遅れの糸にぶら下がっているのを指を加えて見るだけで、行動なさらないのですか?」

と。か細い時代遅れの糸とはステファノスの父(ロマノス1世)のことである。

(ペテイノスはさらに、)

「なぜあなたは、彼に対して立ち上がらないのですか? あなた自身の崇高な志の邪魔者として彼を廃して、国政を自らの手に掌握されないのですか? あなたにはローマ帝国のみならず、他の多くを支配する力がお有りなのに。

さあ、私の忠言をお聞き届け下さい。お立ち上がりになって国政を執られますよう。ローマの運命を上昇させ、敵を追い落として下さい。

現実に行動を起こされ、神があなたにお与えになったその若さや心の美徳が無駄ではなかったとお示し下さい。

あなたには義理の兄弟であるポルフュロゲネトスが付いています。彼はあなたと共に戦い、支えます。彼はあなたが父という重荷を取り除き、帝国を統治するのを望んで、神に祈り、願っています。」

(と言った。)

ステファノスはこうした言葉に取り込まれて、支配者となることに憧れる。彼は父を玉座から引きずり下ろしたいという強烈な望みの餌食となった。

まさに計画を実行しようとしていた折、ステファノスは自身の意図するところを少しばかり兄弟(であるコンスタンティノス)に内密に打ち明ける。しかし、コンスタンティノスは端から毅然とした言葉でステファノスに、欠片ほども義理の兄弟(ポルフュロゲネトス)を信用してはならないと警告した。そして、ステファノスに家族に誠実で忠良であるように勧めたのであった。

そこでステファノスはコンスタンティノス・レカペノスを自分にとって役に立つ人間ではなく、むしろ邪魔者になり得る人間として見限って、計画をできる限り先へと進めることに決める。

ステファノスは前述のバシレイオス・ペテイノスの他にも、レオン・アルギュロスの息子で皇帝ロマノス1世から非常に敬意を持たれ信頼されている修道士のマリアノスやその他の者たちを協力者とした。

機が熟すとステファノスは自らの父を廃位する。創世紀元6453年、第3インディクティオの年の12月16日(944年12月16日)、ロマノス1世の治世26年目のことである。ロマノス1世をプロテ島へ追放し、剃髪させ、その意に反する形で修道士とした。

2.
ロマノス1世を廃した直後、ステファノスは義理の兄弟(コンスタンティノス7世)や兄弟(コンスタンティノス)を仲間として精力的に国事を取り仕切った。

しかし、彼らは必ずしも意見が一致せず、時には激しく揉める。初めから不和の芽が出ていたのである。ステファノスのポルフュロゲネトスを見る目も、その反対も同じで、互いに不信と疑いを持っていた。そして、彼らの間には、乱暴で際限のない諍いが起こる。

ステファノスは唯一の政権担当者として生き残ろうとして、兄弟や義理の兄弟を排除するために驚くほどの努力をした。しかし、詩人(アリストファネス)の言葉を借りれば「炎より熱きもの」を招くことになる。ステファノスは自身が狩人というよりもむしろ獲物であるということに気が付かなかった。

コンスタンティノス7世ポルフュロゲネトスはひとたび自分が攻撃されていると気付くと、計画を実行するのを躊躇わなかった。妃であるヘレネは(ステファノスの姉妹だったが)、自身の兄弟を排除するようポルフュロゲネトスに強く勧めている。

ポルフュロゲネトスはバシレイオス・ペテイノスに秘密の計画を明かし、大義のためにマリアノスやバルダス・フォーカスの息子たちであるニケフォロスとレオン、そしてニコラオスとレオン・トリニキオスの他、多くの者を集めた。

ステファノスとコンスタンティノスのレカペノス兄弟は、何の疑いもなくコンスタンティノス7世ポルフュロゲネトスと食卓を囲んで食事をしていたが、拘束され、宮殿から排除されてしまう。同じインディクティオの年の1月27日(945年1月27日)のことである。

彼らは船に乗せられて追放された。一人はパノルモス島へ、コンスタンティノスはテレビントス島へ。

彼らはカエサレイアのバシレイオスとヘラクレイアのアナスタシオスによって剃髪させられ、二人とも聖職者にされた。その少し後、皇帝はステファノスをプロコンネソスへ移し、さらにロードスへ移らせ、最終的にはミュティレネへ移している。コンスタンティノス(・レカペノス)はサモトラケへ移された。

ステファノスは降りかかった災難をたくましく背負って、レスボス島で19年を過ごす。

けれどもコンスタンティノス(・レカペノス)は穏やかな性質ではなく、より強い抵抗を示した。彼は幾度も逃亡を試み、権力の座を逐われた二年後には、見張りを殺している。その後、彼自身は別の見張りに殺された。第6インディクティオの年の7月、彼らの父 ロマノス1世は全ての償いをして、ミュレライオンに葬られている。

3.
ひとたび周囲から疑わしい要素を一掃すると、今やポルフュロゲネトスは他を寄せ付けない帝権を保持するようになった。同じインディクティオの年(946年?)の復活祭には、総主教テオフュラクトスが祈りを捧げる一方で、皇帝の息子ロマノス(2世)に(共同皇帝として)戴冠させている。

皇帝は有能で精力的な統治者になると思われた。単独の統治者となると勤勉に国政に専念したのである。結局、皇帝は予想されたよりも弱々しい姿を示してしまい、期待されたことは何も成し遂げられなかった。

皇帝はワインに溺れ、いつでも簡単な方法を採ることを好んだのである。怠慢に対しては容赦がなく、処罰は冷酷であった。

官僚の昇進には無関心で、生まれや功績によって任官させたり昇進をさせたりすることを嫌がっている。皇帝はたまたま近くに居合わせた者なら誰にでも、軍事であろうと民政であろうと、命令を委ねた。したがって、一部の卑しい者や疑わしい性格の者が高位の官職に任命されることが常に起こったのである。皇后 ヘレネは皇帝と共に多く、こうしたことに関わっており、バラコイモメノスのバシレイオスもそうだった。皇帝たちは売官に携わっていたのである。

それでもコンスタンティノス7世の功業がすっかり損なわれるということはない。これから列挙していく称賛に値する見事な性質は、皇帝の多くの欠点を覆い隠して余りあるものであった。

政府を掌握している者たちの保護と知見の欠如によって長い間、全ての科学分野が無視されてきたが、皇帝自身の主導によって、算術、音楽、天文学、二次元および三次元の幾何学、そしてそれら全てに優る哲学など科学の復興がもたらされた。皇帝は各分野の最も優れた実績のある学者を捜し出している。そしてそうした学者を見い出すと教師に任命し、勉学に精励する者を満足に思い、賞賛した。そのため、皇帝は無知や粗野を排して、帝国をより知的な方向へと向かわせることになる。皇帝自身も工芸や手工に関心があり、そうした分野に大きな進歩をもたらした。

加えて神への信仰は篤く、敬虔であり、様々な教会の伝統的な行進を前にして手ぶらで現れるということはなかった。キリストの友である皇帝にふさわしく、見事な生け贄を捧げたのである。

皇帝は自身の義兄弟を打倒するべく働いた者たちに、以下のような利益を与えて報いた。

バルダス・フォーカスにはマギストロスの爵位とドメスティコス・トーン・スコローン・テース・アナトレースの地位を与え、その息子であるニケフォロスとレオンについては、前者はテマ・アナトリコンの長官に、後者はカッパドキアの長官としている。またバルダスの別の息子 コンスタンティノスはセレウキアの長官に、バシレイオス・ペテイノスはメガス・ヘタイレイアルケス(ヘタイレイア〈皇帝の護衛〉の長官)に、マリアノス・アルギュロスはコメス・トゥー・スタウルー(馬屋長官)に、マヌエル・クルティキオスはドゥルンガリオス・テース・ビグラス(帝国陸軍ビグラ軍団長官)とされた。

(共同)皇帝ステファノスの息子 ロマノスは後にセバストフォロスの爵位に就いているが去勢され、ロマノス1世と奴隷の女との間に生まれたバシレイオスも同じく去勢されている。(共同)皇帝クリストフォロスの息子のミカエルは剃髪させて修道士としている。

4.
皇帝は今や帝国は鋼の結束を保っていると考えて、あらゆる憤慨を振り捨てたのであった。皇帝は万全の備えをしたと信じていたが、人生をほとんど危うくする二つの大きな攻撃の餌食となって間一髪の状態に陥る。

パラコイモメノスのテオファネスはプロテ島からロマノス1世を宮廷へ連れ戻そうとしたが、多くの者が決意を共にした。

そして、他にもレオン・クラドン、マケドニアのグレゴリオス、テオドシオス、ステファノスの馬丁長、ライクトール(元老院議長)のヨハネスらステファノスをミュティレネから連れてきて皇帝として据えようとする者がいた。しかし、共謀者の一部が彼らの決起を(皇帝に)知らせる。

テオファネスとその協力者は追放された。ステファノスを担いだ者たちは打撃を受け、帝国で資産を失い、鼻を削がれて追放されている。

5.
トルコ人はその首長 ブロスデスがキリスト教の信仰を奉じる振りをしてコンスタンティヌスの街へとやって来るまで、ローマ帝国への襲撃と略奪行為を止めなかった。彼は皇帝を代父として洗礼盤から洗礼を受ける。皇帝は彼にパトリキオスの爵位を授け、莫大な富を与えた。その後、ブロスデスは故地へ戻っている。

同じくトルコ人の首長であるギュラスも間もなく帝都へやって来て、同様に洗礼を受け、同様の栄典と富を与えられた。

彼は信仰の篤さで名高いヒエロテオスという名の修道士を連れ帰っている。ヒエロテオスは(総主教)テオフュラクトスからトルコの主教に任命されていたのである。ヒエロテオスは着任すると、野蛮で誤った考え方の数々をキリスト教の精神による考え方へと改めていった。

さらにギュラスはキリスト教の信仰に誠実で、ローマに侵入することも無かったし、キリスト教徒の捕虜を放ったらかしにすることも無かった。彼は捕虜たちを解放し、その要求を満たし、彼らを自由の身としたのである。

他方、ブロスデスは神との約束を破り、その民全てと共にローマ帝国へ侵攻した。ブロスデスはフランク人にも同様に反抗したが、フランク人の皇帝オットーによって串刺しにされている。

6.
かつてローマ領に船で侵入したルーシの族長がいたが、その族長のオリガという名の妻は夫の死後、コンスタンティノープルへとやって来た。彼女は洗礼を受け、熱烈に信仰を奉じている。彼女はその信心にふさわしい栄典を授けられて故郷へ戻った。

7.
既に述べたようにロマノス(2世)の婚約者である フランク人の王ユーグ(・ダルル)の娘はまだ処女の内に亡くなった。その際、ロマノスの父である皇帝は、ロマノスを他の女性と婚約させる。名門の出ではなく、宿屋を営む庶民の家の生まれであった。名をアナスタソと言ったが皇帝はテオファノと改名させている。

8.
タルソスのアミールがローマ人に対して遠征を行う一方で、ヘラクレオスの村に部隊を送ってまぐさを徴発させた。

テメルという名の聖職者はサラセン人(イスラム教徒)が近づいてきているのを知った時、血に染まっていない生贄を捧げていた。テメルは奉神礼を中断すると祭服のまま出かけ、教会のセマントロン(という楽器)を掴んで、その楽器で攻撃してくる者を追い払う。彼は多くの者を負傷させ、幾人か殺し、残りを追い散らした。

ところが彼は主教から職務執行を差し止められる。主教はテメルを赦すことに同意しなかったのである。そのためテメルはハガレノイ(イスラム教徒)の下へ行って、キリスト教の信仰を棄ててしまった。彼はハガレノイと協力してカッパドキアや周辺のテマを略奪しただけでなく、いわゆる小アジアにまで侵入する。テメルの関わった非道について筆を投げることは許されないだろう。

9.
バルダス・フォーカスはドメスティコス・トーン・スコローン(帝国陸軍総司令官)に任命された後、既に述べたように特筆すべきことは成していない。彼は他の職務では優れた司令官であることを示して見せた。しかしバルダス自身の判断による威令が全陸軍に振るわれるようになった際には、ローマ帝国にはほとんど利益がもたらされなかった。強欲が彼を食らい尽くしたのである。あたかも強欲はバルダスの心を鈍らせる病のようであった。

かつて不意にカンブダス(ハムダーン朝のサイフ・アッダウラ)の軍と遭遇した際に、人々が言うように皆がバルダスを見捨てるということすら起こっている。もし、従者たちが馳せ参じてバルダスを囚われの身から救い出さなければ、彼は捕虜になっていただろう。彼は額に重傷を負い、その傷は生涯残った。

バルダスの息子たち、ニケフォロスとレオンは、不正に得られるどんな利益よりも優れていた。二人は麾下の者たちを愛する息子のように扱い、さらに大いにローマ帝国の利益となる。ニケフォロスの優れた業績については、(文章中の)歴史の(の記述の)流れを切らないように、彼についての項で述べたいと思う。

レオン(の功績)について言えば、カンブダスの(従弟にあたる)親族の要人であるアポラサエイル(アブル・アサイル)を送って来たたことであろう。アポラサエイルはローマに対して多くの軍勢で遠征を行ったが、レオンは彼を捕らえてコンスタンティノープルに送ったのであった。アポラサエイルの軍の一部は既に戦闘でレオンに殲滅され、他は今や捕虜となった。

アポラサエイルが帝都に到着した際、皇帝コンスタンティノス7世は凱旋式で彼を公衆の面前に晒し、その首に自らの足を置く。しかしながら、栄誉と贈り物を彼に与えることで、皇帝の慈悲を示したのであった。

カンブダスは、フォーカスの残りの息子コンスタンティノスを捕虜としてアレッポに移し、そこで彼を自分たちの惨めな宗教に改宗させようとしている。しかしその努力が失敗したので毒を盛ってコンスタンティノス殺してしまった。バルダスはこれを聞いて激怒し、自身の下にあるカンブダスの親族である全ての捕虜を斬り殺す。

そういうわけで条約締結のために派遣されていたマギストロスのパウロス・モノマコスは手ぶらで帰ってきた。

親族が死んだことで抑えきれない悲しみに襲われ、カンブダスはローマ人との戦いへと出発する。カンブダスはパトリキオスのニケタス・カルクツェスを連れていた。カルクツェスは皇帝から和平交渉の使者として(カンブダスの下へ)派遣されていたのである。カンブダスはローマ人の最も勇敢で最も高貴な者の中でも多くの善良な人々を捕虜としている。

しかしニケタスは密かにフォーカスにカンブダスの全計画と彼が退却しようとしている道筋を伝える。そこでフォーカスは狭く険しい崖の間からしか入り込めない場所に伏兵を配した。ひとたびそこに至り、隘路へと入り込んだカンブダスは、伏兵に包囲されることとなる。伏兵として配されていた者たちは、隠れていた場所から立ち上がり、カンブダスの軍勢の上へ大きな石を転がし、あらゆる種類の矢玉を放った。

カルクツェスは事を起こす準備ができていた。彼は逃亡をたやすくするためにサラセン人の何人かを贈り物で籠絡し、気付かれることなく供回りの者と共に逃げ去る。

数え切れないほど多くのハガレノイが戦死した。カンブダスはと言えば、抱えていた捕虜を全て殺した後、少数の者と不甲斐なく散り散りになって危難を逃れたのであった。

10.
コンスタンティノス7世の治世12年目、創世紀元6464年、第14インディクティオの年の2月27日(956年2月27日)、総主教のテオフュラクトスが世を去る。総主教位にあること23年と25日であった。

彼は教会を「教会法によらず」掌握した時、16歳であった。幸いにして、テオフュラクトスはしばらくの間、後見人たちの下で総主教の任を果たす。できればそのままであって欲しかったものである。

そうした(後見される)日々にあって、彼は気品とあるべき自制心をもって振る舞えるような姿を見せていた。しかし、成人に近づいて自らの人生を歩むようになると、未熟な彼には恥ずべきことも、はっきりと戒めるべきことさえも無くなる。

彼は教会での昇進や主教への昇進を売りに出し、またその他、真の主教であれば確実に慎むだろうことをした。

馬に熱中しており、多くの時間、狩りに出かけている。

彼はまた、その他、思いのままに不適切なことをしたが、詳らかに述べるのは退屈で不適当であろう。とはいえ、テオフュラクトスがどれほど未熟であったかを示すものとして言及することは適切とも言えよう。

彼は馬を得ることに絶対とも言える情熱があり2,000頭以上を手に入れたと言われるが、その世話を常に気にかけていた。彼は馬に干し草や燕麦を与えることに満足せず、松の実やアーモンド、さらにピスタチオやナツメヤシ、イチジクや選りすぐりの干しぶどうを香り高いワインと混ぜて与えることすらしたのである。これにサフランやシナモン、香油、その他の香辛料を加えて、それぞれの馬に食糧として与えた。

受難週間の木曜日のこと、主の機密の晩餐の奉神礼の際、彼は祈祷文を既に読み上げていたのだが、馬の世話を任されていた助祭が現れ、テオフュラクトスが可愛がっていた牝馬について喜ばしいことを伝えた。助祭はその牝馬の名前を告げ、たった今、出産したと言ったのであった。喜んだテオフュラクトスは残りの祈祷文をできる限り急いで読み上げて、コスミディオンへと駆けつける。そこで彼は新たに産まれた仔馬を見て、その光景に満足してからハギア・ソフィアへと戻り、救世主の聖なる受難への賛美歌を歌い終えている。

我々自身の救いのためには、良心の呵責と悔恨によって神に祈りを捧げるべきであろう。にもかかわらず、大祭において下品な喚き声、爆笑、そして野卑な雄叫びによって早課を行うような、神と聖人たちの記憶を侮辱する昨今の習慣を人々にけしかけたのは、彼である。

テオフュラクトスはいかがわしい男たちの一団を呼び集め、教会のドメスティコス(教会儀礼に携わる者の長)に任命していたエウテュミオス・カスネスという者を一団の頭として据えた。そして、彼らに悪魔のような踊り、恥ずべき標語、そして街角や売春宿で拾った歌を教えている。

彼が率先して送っていたのはそういう暮らしであった。そして無謀な乗馬で命を落とす。テオフュラクトスは海の城壁で馬から投げ出され、口から血を噴き始める。二年の間、患い、そして水腫で亡くなったのであった。

11.
同じインディクティオの年の4月3日、修道士ポリュエウクトスが後任の総主教に任命された。この人はコンスタンティノープルで生まれ育ったが、両親によって去勢されている。両親は長年、模範的に経験を積んできた修道士であった。

彼が並外れた知恵を持ち、生き方が厳格で、世俗的な財産に対して無関心であったために、皇帝は、彼を総主教にしたのである。

ポリュエウクトスの任命はしかし、慣習のように帝都のヘラクレイアで行われるのではなく、カイサレイアのバシレイオスによって行われた。ヘラクレイアの主教ニケフォロスが何らかのことで皇帝の怒りを買っており、聖職者の任命を行うことを許されていなかったからである。

このことによって、(総主教の)権威を授けられたポリュエウクトスにのみ極めて厳しい非難が降りかかることはなかった。任命を行った者、この不規則な任命を受け入れることを余儀なくされた者も非難を受けた。

彼はそれでも総主教の位を授けられて、大胆に真理を語り始め、ロマノス1世の親族らの強欲を強く非難している。そして、皇帝が聖大土曜日にハギア・ソフィアに赴いた際、ポリュエウクトスは皇帝に過失を改めるよう促した。皇帝は渋々、同意している。

後にパラコイモメノスとなるバシレイオスは、ロマノス1世と婢女の間に産まれた人物であったが、今や異母姉妹である皇后ヘレネを支えるようになる。そこでバシレイオスはコンスタンティノス7世に働きかけている。皇帝は総主教の任命を後悔していただけでなく、バシレイオスに彼を(総主教の)玉座から追い払う口実を探すよう促した。こうした中で皇帝はキュジコスのテオドロスの強い励ましを受けていた。

12.
時代が同じ時に同じように教会の指導者を生み出すように特別な配慮をしたかのようだった。(ローマの貴族である)アルベリーコ2世の息子 ヨハネスに西ローマの教会を指揮する運命が降ってきたのである。この者はあらゆる種類の暴力と悪事に傾倒していた。フランク人の皇帝オットーは彼を追い払い、教会のために別の人物を指導者として据えている。

13.
ポリュエウクトスが総主教の位に登った最初の年、総主教エウテュミオスの名が(聖人の名として)ディプティク(書字板)に刻まれた。エウテュミオスは、四度目の結婚をした皇帝レオン6世に領聖を認めている。こうしたことから、主教の一部はポリュエウクトスとの通交を拒否した。しかし、少し後には支配者の望みに迎合し、賢明な人々には笑顔の時がもたらされる。

14.
同じ頃、崇敬を集める洗礼者ヨハネの手がアンティオキアから帝都へともたらされた。ヨブという修道士によってアンティオキアから密かに持ち出されたのである。それがカルケドンまでやって来ると、皇帝は帝国の快走船を送り出した。選り抜きの元老院議員と総主教ポリュエウクトス、そしてろうそくを灯した全ての聖職者たちが、香と明かりで出迎え、聖遺物は宮殿へと持ち込まれた。

15.
ドメスティコス・トーン・スコローンのバルダスは、ハガレノイに対して遠征を行い、足を踏み入れた場所ではどこでも情勢をひっくり返した。彼は相当な数の拠点を占領し、かの有名なアダタの街に包囲を仕掛けている。

ローマ領沿岸を襲撃しては略奪して荒らし回るクレタのサラセン人を畏怖させることは皇帝の望みであった。皇帝は野放しとなっているサラセン人の猛襲に終止符を打ちたかったのである。

皇帝は大軍を集め、かなりの規模の艦隊を整え、パトリキオスのコンスタンティノス・ゴンギュリオスの指揮の下、全軍を派遣した。この人は、弱々しい座職の人で戦争の経験がない、宮殿の寝室の宦官の一人であった。

彼は(クレタの)島に着いても、将軍にふさわしいことは何もしなかった。陣の安全を確保することも、警備や監視を置いてバルバロイの襲撃から、そこを守ることもいずれもできなかったのである。そのため、彼は相当に厳しい危難に陥ることとなった。

島の者は将軍の経験不足と不注意に気付き、機が熟すと将軍の軍勢に突如として攻撃を開始する。彼らは簡単に成功を手にした。多くのローマ人が捕虜になるか、斬り殺された。陣が占領される一方、ローマ人たちは不甲斐なく逃亡している。従者が馳せ参じ、救出しなければゴンギュリオスも捕らえられていただろう。その後、従者は彼を船に乗せ、無事に逃したのであった。

16.
コンスタンティノス7世の息子 ロマノスは今や成年に達した。ロマノスは父が国政を執る様子を見ることができなかったので、毒を盛って父を除いてしまおうと決める。宿屋の娘であるロマノスの妻はこういったことに詳しかった。コンスタンティノス7世が通じ薬を飲む時に、彼らは密かに毒物を薬に混ぜ、それを皇帝に出すために召使のニケタスを説き伏せる。

ニケタスが差し出そうとした毒入りの薬は、聖なるイコンの前にあった。そして、偶然にか意図的にか、皇帝は薬をはじいて、ほとんどこぼしてしまった。コンスタンティノス7世が飲んだ薬の残りは作用しなかった。量がほとんど無くなっていたので効力を失っていたのである。それでもコンスタンティノス7世は何とか生き残ることができたに過ぎず、毒が肺に留まり、かなり苦しむことになった。

17.
治世15年目、創世紀元6468年、第3インディクティオの年の9月(959年9月)、皇帝コンスタンティノス7世はオリュンポス山へ出かける。表向きは、シリアのサラセン人に対する遠征のためであるかのように武装して、父の祈祷文を携えてそこにあった。しかし実際は、その時そこに滞在していたキュジコスの主教 テオドロスと会い、ポリュエウクトスの罷免に関して相談するのが目的であった。

そこにいる間、皇帝は体調を崩したか、またも息子に毒を盛られたかのいずれかによって病気になり、帝都へ戻らなくてはならなくなる。帝都へは駕籠に乗り、10月の終わり頃に到着した。

11月9日、ポリュエウクトスを罷免するという意図を果たせないまま、皇帝は崩御する。54歳2か月であった。

コンスタンティノス7世は、父と叔父のアレクサンドロス、そして母と13年の間、その後は簒奪者ロマノス1世と26年の間、共同統治した。その後、ロマノス1世が権力の座から滑り落ちると、13年の間、単独で統治を行う。崩御の後、実父と共に葬られた。

息を引き取る際、皇帝はポリュエウクトスに対して悪意を抱いており、彼を罷免する計画を立てていたという。

18.
崩御の数日前、夜の帳が下りる頃にかなりの時間、石が上空から宮殿へと降り注ぐ。非常に激しく大きな音を立てて衝突する中、皇帝はそこにあった。

皇帝はそれらがマグナウラの宮殿の上の階から飛んで来ているもの(の音と衝撃)だと思い、そうしたことをしでかした者を捕らえるために、何夜もの間、そこに警備の者を配置する。

しかし皇帝は、これが無駄な努力だとは気付かなかった。それは人の仕業ではなく、神によるものだったのである。