スキュリツェス年代記(『歴史概観』)
ロマノス1世レカペノス

【ロマノス1世レカペノス 位920-944】

1.
ロマノス1世は戴冠した後、同じ日に妻のテオドラに戴冠させた。神現祭の日のことである。そして、5月の聖神降臨の日には、自身の息子クリストフォロスにコンスタンティノス7世から戴冠させている。コンスタンティノス7世はそうすることを余儀なくされたにも関わらず、何とか進んでそうしたように振る舞うことができた。けれども、公衆から見えない時に私的な場では取り乱し、この不運を深く嘆いていたのであった。

2.
第8インディクティオの年の7月、教会は統一された。総主教ニコラオスを支持するか、総主教エウテュミオスを支持するかで食い違い、争っていた帝都の市民と聖職者は和解したのである。

皇帝ロマノス1世は帝位を保つ野心のためにマギストロスの爵位にあるステファノスをアンティゴネ島へ追放し剃髪させて修道士とした。ステファノスと親しい協力者であるテオファネス・テイケオテスとオルファノトロフォス(国立孤児院管理長官)のパウロスも一緒であった。

厳粛な行列が法廷へと進む中、皇帝は突如、宮廷へと戻る。陰謀が進められているとの報を受けたのである。首謀者であるパトリキオスの爵位にあるアレセニオスとマングラビテス(侍従)のパウロスは拘束されて、盲目にされ、資産没収の上、追放された。

それは皇帝ロマノス1世がレオン・アルギュロスを自身の娘のアガタと結婚させることで義理の息子とした年のことである。レオンは極めて高貴な生まれで、容貌に気品があり、思慮と分別が備わっていた。

3.
同じ年、またレンタキオス事件も起こっている。彼はテマ・ヘラス生まれであったが、父親を殺そうとしたのであった。息子の無道を恐れた親は、船に乗り込んでビュザンティオンへと海を渡り、息子の無道を止めてくれるよう皇帝に頼み込もうとしたが、途中、クレタのサラセン人に捕まってしまう。

レンタキオスは今や父の財産を手に入れ、その財貨と共に帝都に上って神の叡智の教会(ハギア・ソフィア)へと急ぐ。長逗留して父の富を使い果たすためにそこに赴いたのである。

こうしたことではロマノス1世の警告を免れることはできなかった。ひとたび事件について知ると皇帝はレンタキオスを教会から出して罰することに決めたのである。

この決定を嗅ぎつけたレンタキオスは、皇帝が(ブルガリア皇帝の)シメオンへ宛てたかのような書状を偽造する。レンタキオスはブルガリア人の下へと身を投じるつもりであった。この咎でレンタキオスは富と両目の双方を失っている。

4.
アドラレストスが亡くなると、皇帝はポトス・アルギュロスを後任のドメスティコス・トーン・スコローン(スコライ軍団長官。帝国陸軍総司令官)とする。

ブルガリア人が目下、カタシュルタイまで進んできていたので、ポトスを軍と共に進撃させ、テルモポリスと呼ばれるところに野営させた。そこからポトスはブルガリア人を偵察させるために部隊長のミカエルを派遣する。パトリキオスの”莫迦者”レオンの息子である。ところが先を読む力に欠けていために彼はバルバロイの伏兵に掛かってしまう。脱出は不可能だったので、戦うことを選んだ。多くのブルガリア人が討たれ、また逃げ出した。しかしミカエルもまた致命傷を受け、帝都に運び戻され、程なく亡くなったのであった。

5.
その後、皇帝ロマノス1世に対する陰謀が密告された。その首謀者はサケラリオス(財務長官)のアナスタシオスで、皇帝コンスタンティノス7世のために働いていたと言われている。主立った共謀者は拘束され、皇帝ロマノス1世の意向に沿って処罰された。アナスタシオスは修道士として剃髪させられている。

これはコンスタンティノス7世を副帝へと降格する口実にされ、ロマノス1世が最高位に即いた。ロマノス1世はそれが陰謀に終止符を打つ唯一の考え得る方法であると主張したのである。

こうして一時の利益のため、そして一時の不正な統治のために、ロマノス1世は嘘偽りによって自ら神から離れたのである。それが都で起こっていたことであった。

6.
シメオンはと言えば、またも強力な軍勢をローマに差し向けていた。指導的な立場にある臣下のカガン位にある者と騎兵隊の総司令官ミニコスに率いられた軍は、都をできる限り速やかに攻撃するよう命ぜられていた。

皇帝ロマノス1世はこの進軍を知ると、敵が最も美しい宮殿と都近郊の家々を焼き払うかもしれないと考え、ライクトール(宮廷宰相)ヨハネスとレオンそして大軍を率いるポトス・アルギュロスを派遣する。大軍は皇帝のヘタイレイア軍団(護衛軍)と正規軍から選抜したものであった。彼らとドゥルンガリオス・トゥー・プロイムー(中央艦隊長官)のアレクシオス・モセレは大斎の五週目、ペガイの平原に麾下の者たちを整列させ、待機した。

ブルガリア人は彼らと遭遇し、凄まじい叫び声を上げながら、猛烈な攻撃に乗り出す。ライクトールのヨハネスが逃げる間、プラテュプスの息子でパトリキオスの爵位にあるフォテイノスと多くの者たちがヨハネスのために戦って戦死した。ライクトールは間一髪で逃れたが、同じ様にしようとした中央艦隊長官のアレクシオスは船に乗れず、海に落ち、船に通じる通路の下で副官と共に溺死している。

レオンとポトス・アルギュロスはカステリオンへと逃げて無事だった。残りの者は、逃げる内に溺死した者もあれば、敵の剣の餌食になった者もあり、一方でバルバロイの手に落ちた者もある。

実質的に止めるものが誰もいなかったのでブルガリア人はペガイの宮殿を焼き払い、海峡全域に火を放った。

7.
第10インディクティオの年の2月20日(922年2月20日)、ロマノス1世の妻 テオドラが亡くなりミュレライオンに葬られた。(共同)皇帝クリストフォロスの妻であるソフィアはアウグスタの位へと進められる。

その後、クロパラテスの爵位にあるイベルがイベリアから来訪した。彼は豪華に飾られた広場を抜けて進み、大きな栄典をもって迎えられる。皇帝は彼を神の叡智の教会(ハギア・ソフィア)へ向かわせた。その美しさと巨大さを見せるためである。彼はハギア・ソフィアへ着くと、その麗しさに参ってしまい、様々な装飾に衝撃を受けた。彼はこの神聖な場所は正に神の住処であると口にして、郷里へと戻っていったのである。

8.
その頃ブルガリア人はローマ領にさらなる攻撃を仕掛けていた。そして彼らは抵抗を受けることもなかったので皇后テオドラの宮殿に近づいてそこに火をつける。

皇帝ロマノス1世は盛大な宴を開き、軍の司令官らを招いた。その中に姓をサクティキオスというエクスクビテース軍団(中央軍の軍団の一つ)の指揮を執る将があった。宴もたけなわの折、話題はブルガリア問題へと移り、皇帝は熱っぽく演説する。演説は熱烈な反応を呼び起こした。そして勇敢に敵に立ち向かい父祖の地を守るよう将官らを駆り立てる。彼らはキリスト教のために打って出て戦う用意があると自ら表明した。

次の日の早朝、サクティキオスは自分の部隊を引き連れてブルガリア人の隊列の背後へと向かい、その陣へ入り、見つけた者を片っ端から討ち取っていった。大半のブルガリア人は略奪品を探して田園地帯へと散らばっていたのである。

逃げ出した者からこのことを聞いた多くのブルガリア人たちは、陣に戻った。そして戦闘が起こる。新手のブルガリア人が疲弊していたローマ人に挑みかかったのである。新手のブルガリア人は元気そのもので、対して我が軍は敵の最初の猛攻を受ける前からすでに先の戦いのために消耗していた。サクティキオスはわずかな者とのみ共に英雄然と戦い、多くの敵を討ち取る。しかし圧倒されたので馬を駆って逃げ出した。そして川までやって来て、そこを渡ろうとした時、馬が泥の中で立ち往生する。サクティキオスはブルガリア人に追いつかれて、尻と腿に致命傷を受けた。その際、従者の救援と協力のおかげで馬は泥から自由になる。

逃げては引き返し、逃げては引き返し、サクティキオスとその従者、そして騎兵たちはブルガリア人に斬りつける。彼は無事にブラケルナイにたどり着いた。そこでサクティキオスはハギア・ソロス(聖なる棺)の教会に横たわり、そして息絶えた。次の日の夜、皇帝のみならず、軍やすべてのローマの民が大いに嘆き悲しんだのであった。

9.
他にもまだ皇帝に対する反乱は起こった。これはカルディアでのことである。現地の統治官でパトリキオスのバルダス・ボイラスが唆したものであった。反乱の指導者はアドリアノス・カルドスという名の男とアルメニア人のタザテスである。両者とも裕福な者であった。

彼らはパイペルトという城塞を占領し、皇帝に備える。けれどもドメスティコス・トーン・スコローンのヨハネス・クルクアスが突然現れて集まっていた者たちを追い散らしてしまった。クルクアスはたまたまカイサレイアに滞在していたのである。彼は反乱軍の最重要人物の目を潰し、その資産を没収したが、貧しい者や取るに足らない者は罪を免除して、好きなところへと去らせる。

タザテスだけは高い丘の上に築かれた要塞を占領したままであった。タザテスは罰せられることはないというドメスティコス(・トーン・スコローン)の言質を取って、帝都へ入る。マングラビトスの職に叙せられ、マンガナ宮殿へと入った。ところが、彼は逃亡しようとしているところを見つかって目を潰される。

バルダス・ボリアスはと言えば、皇帝に事を穏便に運ばせて、修道士として剃髪させられたので、害は受けなかった。

10.
ブルガリアの首長シメオンはその頃アドリアノープルへと進み、柵と堀を巡らして街を囲む。激しい攻囲が仕掛けられた。街の司令官はパトリキオスのレオンであった。人々は彼が戦いにおいて軽率でせっかちであるために莫迦者レオンと呼んでいた。彼は良く包囲に耐え、あるいは城壁から侵入してくるブルガリア人を果敢に追い立て、あるいは門を開け放って抗いようのない猛攻撃を敵に仕掛け、たやすく撃退する。

けれども糧食は欠乏し、街の中の者たちを悩ませ始め、飢えが人々を苦しめた。どこからも補給を得られる望みがなかったので彼らは開城し、自分たちと統治官をブルガリア人に引き渡した。

シメオンはひとたびレオンの身柄を掌中に収めると、彼がブルガリア人に与えた苦悩を思い出す。シメオンは数々の拷問でレオンを罰し、ついには残酷に処刑した。シメオンは守備隊を置いて引き揚げる。しかし、守備隊はローマ軍の接近を聞くと街を棄てて逃げ出した。アドリアノープルはローマ人の手に戻ったのである。

11.
その頃、トリポリのレオンが大規模な海軍と海を渡り、ローマ人に歯向かってきた。レオンがレムノス島を出航したところへドゥルンガリオス・トゥー・プロイムーでパトリキオスのヨハネス・ラデノスが突然現れ、たやすくレオンを敗走させ、ほぼすべてのハガレノイ(アラブ人)を討ち取る。ひとりトリポリのレオンのみが命からがら逃げおおせたのであった。

12.
第2インディクティオの年の9月(924年9月)、ブルガリアの族長シメオンは全軍でコンスタンティノープルへ向けて進軍する。彼はマケドニアを荒らし、トラキアを焼き、至る所で略奪した。そしてブラケルナイの近くに野営し、総主教ニコラオスや高官らに和睦を持ちかけ、話を進めさせる。両者は諍いが起こらないように互いに人質を取った。

総主教はブルガリア人の誓いを信用したので、後は元老院議員の誰が総主教についていくかという話になった。パトリキオスのミカエル・ステュペイオテスとミュスティコス(秘書官)でパラデュナステウオン(宰相)のヨハネスが選ばれた。ライクトールのヨハネスが皇帝の前で讒言されて宮殿から追放され、俗人の証たる髪を剃られて修道士とされていたためである。

使節がシメオンの下へと至り、和平交渉が始まろうとした時、シメオンは皇帝ロマノス1世が知性ある高潔な人であると知って直に会談したいと思ったため、使節らを帰した。ロマノス1世はこの提案を歓迎する。

皇帝はコスミディオンの岸に人を遣って、堅固な桟橋を海に増築させる。皇帝の船がをそこへ渡った際に係留が万全な状態でできるようにしたのである。皇帝はそれを取り巻くように砦を築き、その真ん中に壇を築かせ、シメオンと互いに会話できるようにした。

ところがシメオンはペゲの聖母教会に火を放ち、周辺を焼き払った。こうしたことから見てシメオンには平和を思う気持ちが無かったことは明白である。

皇帝は総主教とブラケルナイの教会に赴く。ハギア・ソロス教会に入ると、そこではとりなしの賛美歌が神の御母に捧げられていた。そして皇帝は、防護を施された神の御母の肩掛けを持ち出して教会を離れる。騎兵は聖母の肩掛けを携えると共にきらびやかに着飾って所定の場所へと到着した。11月9日のことである。

シメオンも大勢の者――様々な出で立ちの諸隊――と現れた。ある隊は黄金の盾と槍、ある隊は銀色の盾、またある隊は銅色で、そのほか残りは彼らが選んだ色によって区分けされていた。その中心にあってシメオンは彼らから皇帝として歓呼を受ける。ローマの言葉によってである。都の官吏や市民はみな、城壁からその出来事を目の当たりにした。

まず、ロマノス1世が先述の桟橋に到着し、シメオンを待った。人質が交換される。そしてブルガリア人は念入りに桟橋を調べる。奸計や罠が仕掛けられていないことを確かめるためである。シメオンは馬を降りて近づくよう誘われ、守り固められた壇上で皇帝との会談に臨む。互いに抱擁を交わし、和平交渉が始められた。居合わせた人々はロマノス1世がシメオンに対して次のように述べたと言う。

「私はあなたがキリスト教徒で、しかも信心深い人物であると聞いていた。だが、伝え聞くところとは全く違う行いを目の当たりにした。

もしあなたがキリスト教徒であるならば、こういった理不尽な虐殺と罪深い流血は直ちに止められよ。キリスト教徒としての名を持ち、真のキリスト教徒である我らが一丸となって、仲間であるキリスト教徒の血でキリスト教徒の手を汚すことがないように取り組もうではないか。

あなたも人間だ。あなたの前には死があり、復活があり、審判があり、そして人生で成したことの報いがある。あなたは今日ここにいるが、明日には塵と灰となって消えるだろう。

もしあなたの成したこれまでの行為が富を欲するが故であるならば、私はあなたに嫌というほどの富を贈ろう。ただただあなたが平和を謳歌し、和睦を大事に守って流血なく平穏な人生を送ることができるように。そしてキリスト教徒がついには互いに向けた矛を収めることができるように。」

このように皇帝は語った。シメオンは皇帝の謙虚さに恥じ入って和平を約す。二人は抱擁を交わして別れた。皇帝はシメオンに豪華な進物を贈っている。

その日、特筆すべきある予兆が現れた。二羽の鷲が会談する皇帝の上空を飛んでいたが、二羽は叫び声を上げて一緒になり、そして別れ、一羽は都へ向かい、もう一羽はトラキアへ向かったという。

鳥の飛び方を見て予測をした人々は、悪い予兆ではないかと恐れた。ロマノス1世とシメオンが和平協定を結ぶことなく決裂したと彼らは口にしたのである。

シメオンは帰国すると諸官に皇帝の慎み深さを熱く語り、また同様にその気前の良さや金に不自由のないことを語った。

13.
第2インディクティオの年のクリスマス、皇帝ロマノス1世はハギア・ソフィアで息子であるステファノスとコンスタンティノスに戴冠させた。総主教は皇帝の残りの息子 テオフュラクトスの髪を剃り、彼を聖職者とする。総主教はテオフュラクトスを副輔祭としたが、ひとたび彼が聖域において副輔祭の列に位置を占めると、総主教のシュンケロス(顧問)に任命した。

皇帝はミュスティコスにしてパラデュナステウオンのヨハネスをパトリキオスとプロコンスルへと昇進させている。

14.
第3インディクティオの年の5月15日(925年5月25日)、総主教ニコラオスが亡くなったが、その二度目の在位期間は13年であった。その後、8月にはアマセイア主教区のステファノスが総主教として着座する。

ところで、ミュスティコス(のヨハネス)はロゴテテース・トゥー・ドゥロムー(逓信・外務長官)のコスマスに唆されて、帝位簒奪を図ったとして追及を受けた。コスマスは、ミュスティコスを娘と結婚させ義理の息子とすることを望んでいた。ミュスティコスは宮廷から追放されたが、皇帝に拝謁することを許された。皇帝は彼を高く評価していたし、また友人である彼を完全に失いたくはなかったのである。

ところがミュスティコスを告発した者たちは、黙っていなかった。実際に告発内容の証拠となるものを作り出したのである。皇帝は問題を調査させたが、(ミュスティコスの)ヨハネスについての告発者たちの言い分は正しいということが分かった。皇帝はミュスティコスを拘束し拷問にかけようとしたが、それを嗅ぎつけてミュスティコスはモノカスタノスという修道院に逃げ込み、そこで修道士として剃髪を受けていたのである。

その後、皇帝はパトリキオスでロゴテテース・トゥー・ドゥロムーのコスマスをホロロギオンで拷問にかけ、その指揮権を剥奪した。ミュスティコスのヨハネスの替わりにはプロトベスティアリオス(衣服管理長官)のヨハネスがミュスティコス、パラデュナステウオンに任命されている。

15
その頃、テマ・トラケシオンで地震が起こっている。大地に口を開けた恐るべき亀裂が、多くの村々や教会を人々とともに飲み込んだのであった。

16.
第15インディクティオの年(927年)の5月、ブルガリアの首長シメオンはクロアチアへの攻撃を開始したが、山岳地帯の要塞でクロアチアの軍に遭遇して打ち破られ、その全軍を失っている。

17.
ヨハネスという名の天文家が皇帝の下へとやって来て言った。

「人を遣ってクセロフォスのアプスの上にある像の頭部を切り落として西に向ければ、シメオンはすぐに死ぬでしょう。シメオンの運命は不思議とその像とつながっているのです。」

と。

この話にうなずいてロマノス1世は像を切断した。そしてこれは皇帝がちょうど気づいたことだが、シメオンがブルガリアで死んだのはまさにその時間のことであった。心臓発作が命を奪ったのである。

18.
シメオンが死ぬと、ペタルがブルガリア人を支配した。彼はシメオンの二番目の妻となったゲオルギ・スルスブルの姉妹の子である。スルスブルはシメオンが自らのこどもたちの後見としていた人物である。

生前、シメオンは最初の妻との間に生まれたミハイルを修道士として剃髪させた。近隣の国の民――トルコ、セルビア、クロアチアやその他の民は、シメオンの死を知るとすぐにブルガリアに対する遠征を企てる。

ブルガリアの民は飢饉と蝗害に悩まされていた。イナゴは人々と作物の双方に損害を与えている。そのためブルガリア人は他の国の民の侵入を恐れており、特にローマ人による襲撃を懸念していた。

そこでペタルは側近らと相談する。彼らはローマ人を攻撃して抑えつけるべきであると決意した。ペタルらはマケドニアに深く侵入する。ところが皇帝が彼らに対して動いているということを知り、ブルガリアの首長ペタルとシメオンのこどもたちの後見人であるゲオルギは修道士に書状を持たせて派遣する。書状では、もしローマ人が我らと約定を結び、婚姻同盟を結ぶことを選ぶなら、我らには交渉の用意があると述べたのであった。

書状が来ると皇帝はその提案を心から歓迎し、テオドシウスという名の修道士と宮殿の司祭であるロドスのコンスタンティノスをガレー船で派遣する。メセンブリアの地でブルガリアと和平交渉させるためである。彼らは到着すると必要と思われることを繰り返し話し、ステファンという名の非常に高名なブルガリア人と共に陸路で戻った。後から、後見人のゲオルギ・スルスブルが他のブルガリアの要人と共に到着する。

ゲオルギらは皇帝の前にある間、(共同)皇帝クリストフォロスの娘であるマリアを見て、彼女に非常に満足した。彼女は実に際立った美人だったのである。彼らはペタルに急いで来るように書き送った。その後でローマとブルガリアは和平協定を結ぶに至っている。

皇帝ロマノス1世とは互いに義父の間柄であるマギストロスのニケタスが派遣されてペタルに会い、彼を帝都に伴った。ペタルがブラケルナイに到着すると皇帝は船で現れ、ペタルを抱擁し温かく迎える。互いに和平協定と婚姻同盟を確認するために話しておくべきことを話した。プロトベスティアリオスのテオファネスが調停者を務めている。

その後、10月8日には、総主教のステファノスはペゲにある聖母教会においてプロトベスティアリオスのテオファネスや全元老院議員らと共にペタルとマリアの結婚を祝福し、プロトベスティアリオスとスルスブルが証人となった。結婚式が豪華に、そして盛大に挙行されると、プロトベスティアリオスは皇帝の娘とともに都へ戻る。

結婚の祝祭の三日目、皇帝はペゲの桟橋で宴を開きペタルと会食する。その間、皇帝のガレー船はそこに停泊していた。(共同)皇帝のコンスタンティノスとクリストフォロスは宴の席にあった。もっと言えば、ブルガリア人はクリストフォロスがまず歓呼を受け、その後にコンスタンティノスが歓呼されるべきだと主張して大きな騒ぎを起こしたのである。皇帝は彼らに負け、そうなるべきであると命じた。

そうした状況で慣例として行われる全てが執り行われると、マリアとその夫はブルガリアへと向けて出発する。マリアと夫はマリアの両親とプロトベスティアリオスにヘブドモンまで付き添われた。これが都で起こったことである。

19.
マギストロスでドメスティコス・トーン・スコローンのヨハネス・クルクアスは、シリアを奪い、あらゆる抵抗を一掃した。彼はバルバロイの多くの城塞や拠点、都市を占領し、さらにかの有名なメリテネへと進んで包囲する。そして住民らがクルクアスとの交渉を考えるまでに追い詰めた。

そのためアムルの子孫でメリテネのアミールであるアポカプス(アブー・ハフス・イブン・アムル)は、守備隊の司令官であるアポサラトと共にやって来た。ドメスティコスは彼らを喜んで迎え入れ、賓客として皇帝の下に送り出す。彼らは皇帝に拝謁して和平協定を結ぶと、故地へ戻った。そしてローマ人の友人、同盟国の列に加わって、ローマのために同胞と戦う備えをしたのである。

けれどもアポカプスとアポサラトが亡くなると、この和平協定は破棄された。そのため上述のドメスティコス・トーン・スコローンはマギストロスのメリアスと麾下のアルメニア人を連れて彼らとの戦いに赴く。まずクルクアスらは平原に身を置くほど大胆だった敵勢を城壁の中へと追い込むために武装して攻撃した。その後、ローマ軍はメリテネの街を取り囲み、激しく包囲攻撃を仕掛けて陥落させ、街を戒厳令の下に置く。クルクアスらは周辺地域のすべてを侵奪し、ローマの支配下に置いた。

皇帝はメリテネとそれに隣接する人口密集地を皇帝領としたが、そこからは多くの租税が国庫へともたらされている。

20.
マギストロスで(共同)皇帝クリストフォロスの義父であるニケタスは、クリストフォロスに父帝を追い落とすよう扇動したとして追及を受けた。彼は都を逐われ、修道士として剃髪することを余儀なくされている。

21.
第6インディクティオの年の7月15日、2年11か月総主教を務めたアマセイアのステファノスが亡くなった。(正確には第1インディクティオの年、〈928年〉の7月18日のことである。)

12月、修道士トゥリュフォンが招かれて、皇帝の息子テオフュラクトスが規定の年齢に達するまでの臨時の総主教とされた。

22.
同じ月、耐え難い冬がやって来た。大地は120日に渡って凍り付く。冬に続いて深刻な飢饉となった。前代未聞の酷い飢饉で多くの者が亡くなる。死者を埋葬するのに生きている者が不足する程であった。皇帝が状況を好転させようと最善を尽くしたにもかかわらずこうした状況となった。荒れ狂う冬と飢饉の影響を和らげるために慈善事業やその他、あらゆる救済事業が行われる。

23.
ブルガリアの首長 ペタルに対して、弟のイヴァンがブルガリアの有力者と共に反旗を翻した。イヴァンが捕らえられて牢獄へ入れられる一方、共に動いた者たちは身の毛もよだつ死を迎える。

ペタルは皇帝ロマノス1世に事件を知らせた。知らせを受けて皇帝は前のライクトールで修道士のヨハネスを派遣する。表向きは捕虜の交換のためであるが、実際にはイヴァンを見つけ出し、何とかしてコンスタンティノープルに連れてくるためである。前ライクトールはイヴァンを攫ってメセンブリアで船に乗せ、帝都に連れて来ることに成功した。

程なく前ライクトールは修道院の慣例を棄てて妻を得る許しを受け、家と莫大な富の双方を手に入れている。

今やペタルの別の弟ミハイルはブルガリアの支配者となることを強く望んだ。彼は強固な要塞を占領しブルガリアの地を大いに動揺させる。多くの者が彼の旗の下に集った。しかし彼が死んで程なくすると、そういった者たちはペタルの怒りを恐れ、ローマ領へと入る。彼らはテマ・マケドニア、テマ・ストリュモン、テマ・ヘラスを通って、ニコポリスに到達し、手の届くところ全てを荒らすとその地で安息日の休みを過ごす。やがて、多くの敗北の後、彼らはローマの臣下となった。

24.
その頃、石造建築の要石と呼ばれる一部分が広場のアプスから落下し、60人(※6人とも言われる)が死亡した。その広場にある聖母教会の近くでまた酷い火災もあった。アーケードはプシカと呼ばれる場所に至るまで焼け落ちている。

25.
(共同)皇帝クリストフォロスは第4インディクティオの年の8月(931年8月)に薨去し、父帝の(創設した)修道院(ミュレライオン)に葬られた。

26.
総主教トゥリュフォンが同意した退任の時期がやってきたが、彼は約束通り退任することを望まなかった。トゥリュフォンは、自分が非難され教会から追放される理由(についての説明)を求めた。

この問題に皇帝の手はわずらわされ、行き詰った。カイサレイアの府主教で「豚の皮」と呼ばれるテオファネスという、いたく饒舌な者がいたが、彼は(トゥリュフォンの)嘘偽りによって憤懣やるかたない皇帝の窮地を見ていた。テオファネスは皇帝の望みを叶えると約束し、皇帝もその約束を信じる。

こうしてテオファネスは総主教の説得に取り掛かった。彼は、

「総主教台下、皇帝のあなたへの攻撃は強まっております。皇帝はあなたを玉座から追放する理由を追い求めているのです。ですが、いろいろやってみても何(の理由)も見つかりません。瑕疵のない人の過ちをどうして見つけることができるでしょう。

とはいえ、あなたを追放したい人々が一つだけ言い張っていることがあります。彼らはあなたが文字を書けないと非難しているのです。我々がこの点を論破できれば、告発者を黙らせることができます。彼らはことわざで言うところの「飢えた狼」となるでしょう。

もし私の助言を採用なさるなら、あなたの名と地位を若葉に書き入れてください。シノド(主教会議)全体の前でです。それからそれを皇帝に贈るのです。これで皇帝は望みを果たせないと確信して失望し、あなたが今の地位にあることへの攻撃を断念するでしょう。」

と言った。

これは良い助言に思えた。直ちにシノドが招集されたが、その際、総主教は次のような言葉で演説する。

「神聖なる諸卿よ。私を不当に玉座から追い落とそうとして良い口実を見つけようとあれこれと企み、そして何も見つけられなかった人々よ。結局、そういう者は私をこう非難した。私が文字を書けないと。

ならば、あなた方全ての目の前で、告発者に見せるために、そして知らしめるために次のような文字を書いて見せよう。私への不当な嫌がらせを断念させて見せよう。」

そう言うと彼は若葉を取り出し、全員の前で次のように書いた。

―神に祝福されし、新ローマ・コンスタンティノープルの総主教、全地総主教トゥリュフォン―

そう書いてそれをプロトトゥロノス(総主教庁最高位の主教)の手によって皇帝に届けさせた。その者は自身の手で、別のきれいな紙を例の若葉の上にくっつけ(そこに、私トゥリュフォンは総主教に)ふさわしくないのでその地位を望む者に委ねるという(内容の)辞表を書く。

この辞表はシノドに示され、トゥリュフォンは教会を追い出された。トゥリュフォンは自身に対してなされた詐術をひどくなじり、プロトトゥロノスを非難した。

一年五か月後、第2インディクティオの年の2月、皇帝の息子テオフュラクトスは総主教に任命される。――テオフュラクトスは総主教に任命されるのに必要とされる年齢に達したのである――

27.
バシレイオスという名のマケドニア人が、コンスタンティノス・ドゥーカスを名乗った。多くの者が騙されて彼の下へと集う。彼は街々に不安と混乱をばら撒き、反乱を引き起こさせた。

その後、彼はエレファンティノスとあだ名される下士官に捕らえられて、皇帝の前へ引き立てられ、片腕を奪われることとなった。後に解放されると彼は自ら青銅製の腕を身に着け、大剣を作る。テマ・オプシキオンを闊歩して単純な人々を騙し、自身をコンスタンティノス・ドゥーカスだと信じ込ませた。そして多くの支持を集めると、にわかに反乱を引き起こす。多くの戦力を集めて反旗を翻し、プラテイア・ペトラという拠点を占領すると、あらゆる物資を蓄えた。そこを根城に彼は周囲の田園地帯を荒らし回り、略奪を行う。

皇帝は軍を差し向け、彼もその与党も捕らえて投獄した。皇帝はまた彼の背後に有力者がいないか事細かに尋問させる。ところが決定的なものが何も明るみに出ないとなると、彼をアマストリアノンというところで火に投じてしまった。

28.
皇帝ロマノス1世は、ガバラスの娘 アンナと自身の息子ステファノスを結婚させた。彼女は帝室の冠を授けられ、同時に、結婚式用の冠を受ける。

29.
第7インディクティオの年の4月(934年4月)、トルコ人がローマ領へ侵攻してきた。全西方を席巻し、都を窮地に陥れる。パトリキオスでプロトベスティアリオスのテオファネスが派遣され、トルコ人と協定を結んだ。皇帝は捕虜のために出し惜しみせず身代金を払っている。

30.
残りの皇帝の息子 コンスタンティノスはヘレネという少女と結婚していた。彼女はテマ・アルメニアコンのパトリキオス アドリアノスの娘であったが、程なく亡くなってしまう。そこで、ロマノス1世は、コンスタンティノスを別人と結婚させる。テオファノという少女でママス家の者である。

31.
第14インディクティオの年の6月(941年6月)、ルーシの艦隊一万隻により都が襲撃を受けた。パトリキオスでプロトベスティアリオスのテオファネスが艦隊と共に差し向けられヒエロンでルーシの艦隊の行く手を遮る。対する敵は灯台やその周辺の岸から離れた。テオファネスは好機を捉えて全軍で攻撃し、敵を混乱の渦に陥れる。ルーシの多くの船がギリシャ火によって消し炭になり、残りもすっかり逃げ去ってしまった。

ルーシ人らの生き残りは東海岸に渡り、スゴラと呼ばれる場所へと転進する。フォーカスの息子でパトリキオスのバルダスは騎兵と選り抜きの者たちを率いてその海岸を警戒していた。バルダスはかなりの数のルーシ人が糧秣を探しているところに遭遇すると、これを打ち破り、討ち取る。その直後に軍勢を引き連れて到着したドメスティコス・トーン・スコローンのクルクアスは、ルーシ人らがあちらこちらに散り散りになっているのを見つけ、手痛い一撃を加えた。

ルーシ人が敗れ去る前に犯した残虐な行為は、悲劇に見られるような恐怖を上回るものだった。自分たちの捕虜の一部を磔にして、また他の者もその場で火あぶりにしている。さらに他の者たちを的にして矢を射かけた。彼らは鋭い釘を捕虜である聖職者の頭に打ち込み、神聖なる多くの教会を焼き討ちにした。

しかし、それは以前のことである。既に述べたように海で打ち破られ、陸でひどく痛めつけられた後、ルーシ人はおとなしく船に座った。そして、物資が不足したので、故地へ戻ることに決めたのである。けれども彼らは近くにあるローマの艦隊に脅かされていた。彼らは出航を妨げられたのである。しかしながら、好機を捉えると、合図とともに出航してそこを離れた。とはいえ、彼らはプロトベスティアリオスでパトリキオスのテオファネスの警戒から逃れることはできなかった。

ルーシ人の動きを察知したテオファネスは直ちに彼らに立ちはだかる。再び海戦が起こった。またしてもルーシ人は打ち破られた。ルーシ人らの舟は、あるいは水底へと沈み、あるいは戦禍を被って破壊され、そして、乗組員はローマの手に落ちる。戦場の危難から逃れ、故地にたどり着いたのはわずかな者だけであった。

32.
皇帝はプロトベスティアリオス(のテオファネス)を温かく迎え、パラコイモメノスに昇進させることで報いた。

皇帝ロマノス1世は孫のロマノスとドメスティコス・トーン・スコローンの娘 エウフロシュネーとの結婚を望んだ。孫のロマノスは皇帝ロマノス1世の末の息子(で共同皇帝の)コンスタンティノスの息子である。そのため他の(共同)皇帝たちの間ではドメスティコス・トーン・スコローンのヨハネス・クルクアスに対する敵意が沸き起こる。

皇帝はドメスティコスの司令官の任を解かざるを得なくなった。それまでドメスティコスは22年と7か月その任にあり、事実上シリア全土を平らげ、その地を鎮めていた。クルクアスの輝かしい業績を知ろうと思えば誰でも、プロトスパタリオスの爵位にあり判事であったマヌエルという人のまとめたものに当たらなければならない。彼はこの人物の勇ましい功業について全8冊に及ぶ本を著した。これらの書によってヨハネス・クルクアスが軍事においてどういった人物であったのかを知ることができる。

そしてその兄弟であるテオフィロスについても同様である。テオフィロスは後に皇帝となったヨハネス(・ツィミスケス)の祖父で、メソポタミアのサラセン人(イスラム教徒)の街に対処し、そのテマの長官となった。そして、ハガルの息子(アラブ人)を鎮圧して征服している。

ドメスティコス ヨハネスの息子でパトリキオスのロマノスはテマ長官となると多くの拠点を占領し、ローマ人に多くの戦利品をもたらすことに貢献した。

ヨハネスが司令官の任を解かれた後、パンテリオスという皇帝ロマノス1世の親族がドメスティコス・トーン・スコローンに任命されている。

33.
誓いを破ったことや約束に背いて過ちを犯したことを悔い改めて神をなだめるため、皇帝ロマノス1世は多くの慈善事業に取り掛かかる。それは一々記録するのが難しい程であった。

(神への)畏怖から皇帝は裕福な者、貧しい者どちらもが都に納めるべき債務を支払ったが、彼らによれば19ケンテナリア(に及ぶ額)を寄付したという。そして、皇帝は証文をカルケ門の緋色の礼拝堂で焼き捨てている。

皇帝は市民の家賃を大きなものから小さなものに至るまで支払った。また、皇帝は自身の魂の救済ために自ら創設したミュレライオン修道院に住んだが、その年給についても、周知のように今日に至るまで支払われている。

34.
第1インディクティオの年(943年)、トルコ人がまたローマ領を攻撃した。パラコイモメノスのテオファネスが出向いて彼らと約定を結び、人質をとって帰還している。

35.
第2インディクティオの年(944年)、皇帝はプロトスパタリオスのパスカリオスをロンゴバルディアのテマ長官として派遣した。フランク人の王 ユーグ(・ダルル)が娘とコンスタンティノス7世ポルフュロゲネトスの息子ロマノスとの結婚を望んだためである。

彼女は莫大な富を持参し、ロマノスと結婚した。ロマノスと5年間共に暮らし、そして亡くなっている。

36.
12月、恐るべき嵐が起こった。デーモスと呼ばれ、階段以下、同様に欄干を破壊した。

37.
エデッサの街はローマ軍に包囲された。エデッサの民は包囲により困窮して、皇帝に代表団を送り、包囲を解いてくれるよう頼む。そしてそれと引き換えにキリストの人の手にて描かれざるイコンを引き渡す約束をした。

包囲は解かれ、我々の神の肖像が帝都にもたらされる。皇帝はそのイコンをパラコイモメノスのテオファネスによる式典で受け取った。式典は印象的でイコンにふさわしく華やかであった。

38.
そのころ恐るべきものがアルメニアから都にやってきた。結合双生児で一つの腹を共有する男は、凶兆として都から追い出された。その後、彼らはコンスタンティノス7世の単独統治の時代になって舞い戻っている。双子の一方が死んだ際、熟練の医師らは死んだ部分を除こうと試み、成功した。しかし、双子の生き残りは短期間しか生きられず、亡くなっている。

39.
皇帝ロマノス1世は、全ての修道士を大きな栄典をもって迎えたが、とりわけこれが当てはまるのは修道士セルギオスであろう。パトリキオスのフォティオスの甥で、美徳に満ち、あらゆる長所を備えている人物である。

彼は常に皇帝の息子たちが奔放に育たないように気を付けるべきであると皇帝に警告していた。皇帝自身がエリの運命に苦しまないためにである。(※旧約聖書に登場する祭司エリには二人の息子があったが、その息子たちの身勝手な振る舞いに怒った神はエリの家を呪ったのであった。)

同じインディクティオの年、皇帝の息子たちは皇帝ロマノス1世を宮殿から追放して、プロテ島へ送り、剃髪させて修道士とした。正確には誰が皇帝を政府から追い出したのか、それに皇帝の息子たちがどのように関わったのかについては、以下のページで述べよう。