スキュリツェス年代記(『歴史概観』)
ロマノス2世

【ロマノス2世 位959-963】

1.
コンスタンティノス[7世]がこの世を去り、来世へと旅立つと、その息子 ロマノスが権力を掌握した。皇帝はひたすら自分に忠実な者たちを諸官に任命している。そしてひとたび、帝国を十分に掌握すると、まだ第3インディクティオの年の内に、復活祭で息子 バシレイオスを戴冠させた。(戴冠は)ハギア・ソフィアにおいて総主教ポリュエウクトスの手で行われている。

2.
次の(インディクティオの)年(960年)、[ロマノス2世には]もう一人の息子が生まれた。この息子はペゲの宮殿にあり、皇帝の父にちなんでコンスタンティノスと名付けられた。

3.
[ロマノス2世]は若く、快楽に耽っていた。皇帝はあらゆる問題の指揮をプライポシトス(宮廷管理長官)でありパラコイモメノス(寝室管理長官)であるヨセフ・ブリンガスに委ねている。皇帝自身が頻繁に軽薄な若者たち――娼婦やふしだらな女たち、役者や喜劇役者といった者たちとつきあう中で、みだらな行為に浸る以外には何もしなかったからである。

(ヨハネスという)ある宦官の聖職者がいたが、彼は皇帝コンスタンティノス7世からその無法な行動について注意を受け、皇帝が崩御するまで修道服をまとい、またその身を隠した。ところがロマノス2世が権力を握るとすぐに、彼は修道服を脱ぎ捨てて教区の聖職者の服に身を包み、皇帝の寝室付きの者たちと交流を持つようになる。

そこでポリュエウクトスは、この男について修道院を捨てた廉で解任するよう、強い意欲をもって長々と皇帝に頼み込んだ。皇帝は拒絶し、

「[ヨハネスが]実際に修道服を着たことはなく、[衣服の]部署の聖職者にも彼に(修道服を着るよう)繰り返し言った者はない。彼は皇帝を恐れて仮初めに修道服を着たまでである。」

と主張した。これを受け入れてポリュエウクトスは問題に幕引きをした。この結果を得るためにヨセフの尽力もあった。

4.
この年、[ロマノス2世は]マギストロスの爵位にあるニケフォロス・フォーカスをクレタのサラセン人(イスラム教徒)に差し向けた。彼には精鋭揃いの軍と装備の整った艦隊が与えられている。[フォーカスは既にコンスタンティノス7世から東方のスコライ軍団長官に任命されており、東方のサラセン人に対して多くの勝利を得ていた。タルソスのアミール カラモネス、アレッポのアミール カンブダス(ハムダーン朝のサイフ・アッダウラ)、そしてトリポリのアミール イゼトを皆打ち破ってしまっていたのである。]

[ニケフォロス・フォーカスは]島へと渡り、上陸した直後、抵抗するハガレノイ(イスラム教徒)と対峙することとなった。フォーカスはハガレノイを敗走させ、軍と共に無事に上陸している。

その後フォーカスは、杭で強化された堅固な柵を築き、堀を巡らせた。彼は穏やかな港に艦隊を停泊させ、好機が訪れると、その島の街に激しい包囲を加え始めた。七か月に渡ってフォーカスはありとあらゆる攻城兵器を用いている。彼は城壁に攻めかかり、要塞を占拠した。

第4インディクティオの年の3月7日(961年3月7日)、フォーカスは全島で最も手強い(地元でカンダクスと呼ばれている)街を奪取し、クルペスという名の島のアミールとクルペスに次ぐ島の要人 アネマスを共に捕虜として連行した。

クレタ全島征服後、フォーカスは情勢を安定させるため、そこにしばらく留まるつもりであったが、島を征服したローマ人が帝国に君臨するのは避けられないだろうという噂が出回る。そのため、ニケフォロス(・フォーカス)がクレタ島を制圧したことが分かるとすぐに、ロマノス2世は[ヨセフの強い勧めで]フォーカスをその地から呼び戻した。

ニケフォロスが東方のアラブ人(とりわけ他の者よりも凶暴な戦士であるアレッポのアミール カンブダス)からの侵略を防ぐため、クレタでの滞在を引き延ばすと、ロマノス2世はニケフォロスの弟であるレオン・フォーカスにマギストロスの爵位を授け、ニケフォロスをスコライ軍団長官から外すために送り出した。

レオンは海を渡り、アドラッソスというところでカンブダスと遭遇した。彼は剛勇を示してカンブダスを圧倒しただけでなく、ほとんど完敗させている。

この遭遇戦でどれほどの者が戦死したか、その数を述べるのは不可能なほどである。捕らえられ帝都に送られた捕虜は、極めて多く、都市も農村の所領も奴隷で満ちあふれた。ただ、彼らの首領であるカンブダスとわずかな者のみが共に難を逃れて郷里へ戻っただけである。

レオンは帰還すると、皇帝からこの上もなく温かく迎えられて凱旋式を行う栄典を与えられ、ふさわしい所領を授かった。皇帝はまた、レオンの豪胆な仲間たち全てを昇進させ、勲章を与えている。

5.
ロマノス2世の治世2年目、多くの高官が皇帝に対して陰謀を企てたとして逮捕されている。この陰謀を主導した張本人はマギストロスのバシレイオス・ペテイノスであり、その他、パトリキオスの爵位にあるパスカリオスやバルダス・リプスといった幾人かの著名な人々が(加わって)いた。ニコラオス・カルクツェスもいた。

彼らの計画というのは、バシレイオス(・ペテイノス)を皇帝として歓呼するため、競馬が行われる日に[ヒッポドローム(大競馬場)へ]出かける皇帝を捕らえるというものであった。

しかし計画は、共謀者であるヨハニキオスという名の生粋のサラセン人によって皇帝に密告される。決行の日が来る前に彼らはヨセフ(・ブリンガス)によって拘束を受けて有罪とされ、容赦なく拷問された。[ただ一人バシレイオス(・ペテイノス)という例外を除いては。]

競馬の日、彼らは引き回されて公衆の嘲笑を浴び、追放されて修道士として頭を剃られている。彼らは短い間だけ、この屈辱を受けた後、ロマノス2世によって呼び戻される。今や彼らは寛大に扱われた。

例外はバシレイオス・ペテイノスで、彼は正気を失ってプロコンネソスで死んでいる。共同皇帝ステファノスをコンスタンティノス7世に売り渡した際にペテイノスが詐術を用いたために、正義がペテイノスに襲いかかったのであった。

6.
ロマノス・サロニテスはロマノス1世の義理の兄弟となっていた。ロマノス1世の姉妹と結婚したのである。

バシレイオス・ペテイノスとその他の者たちに降りかかったことを見るにつけ、サロニテスは自分にも同じ運命が降りかかることを恐れた。彼の高い地位が嫉妬と疑惑を呼び起こしていたからである。

そこでサロニテスはその富を満足行くように自分のこどもたちの間で分け、残りは貧しい者に与えると、仮初めに修道服を纏ってエレグモイ修道院に入った。

彼は長年、そこに留まり、以後の諸帝から深い敬意を払われている。

7.
その頃、フィロライオスという名の男が現れた。マギストロスのロマノス・モセレスの護衛でロマノス1世の孫である。

彼は全速力の競走馬の鞍上に直立してヒッポドロームの走路を回り、少しも直立姿勢を崩さずに、手にした剣を風車のように回転させることができた。

8.
そうした折、牛疫が猛威を振るい、しばらくローマ帝国を悩ませた。この病はクラブラという名で知られ、牛たちを殺し、壊滅させた。世の人々は、この病がロマノス1世の時代に始まったと述べている。

ロマノス1世が夏季の避暑のためボノスの池のそばに宮殿を建てる際、地面を掘っていると大理石でできた牡牛の頭部が見つかったという。見つけた人々は、牡牛の頭部を打ち壊して石灰窯に投げ込んでしまった。それからというもの今に至るまで、ローマの支配下にあるいかなる地でも牛たちが死滅して行く事態が止まったことはなかった。

9.
ロマノス2世は自身の母 ヘレネと自身の姉妹を宮殿からアンティオコスの宮殿へと追い出すように、頻繁に妻から促されていた。

ヘレナはこのことを知った際、涙を流して脅すことによって何とかロマノス2世の心を変えることに成功した。ロマノス2世はヘレネからの呪いを恐れたのである。

皇帝は母を(宮殿に)留めたが、姉妹は宮殿から出し、ストゥディオス修道院のヘグメノスを努めていたヨハネスの手によって修道女として剃髪させている。

ひとたび[彼女たちの兄弟ロマノス2世が]崩御すると、彼女たちは修道服を着るのも菜食も止めてしまった。

[一方]ヘレネは娘たちの運命にひどく心を痛め、少し後にこの世を去っている。第5インディクティオの年の9月20日(961年9月20日)のことである。

彼女は国葬とされ、その父(ロマノス1世)の石棺に納められた。

10.
既に述べたようにニケフォロス・フォーカスはクレタ島から戻るように命じられていた。しかし、帝都に入る許可は与えられず、その全軍と共に東方へ赴くように命じられる。

カンブダスは先の敗北から立ち直り、今や行動を起こす準備ができていた。彼は既に戦闘態勢の整った軍勢を招集していたから、ローマ領を攻撃し始めるものと思われた。

ところがフォーカスはシリアに到着すると、[ハガレノイを]正面決戦で敗走させ、散々に打ち破って、シリア内の遙か彼方へと追い払ってしまう。

フォーカスは、砦を除いてベロイアの街の全域を略奪し、莫大な富と大量の戦利品、大勢の捕虜を得た。彼は、その街で捕虜となっていたキリスト教徒らを解放し、郷里へ送っている。

11.
皇帝ロマノス2世は、創世紀元6471年、第6インディクティオの年の3月15日(963年3月15日)に崩御した。彼の統治期間は13年(※おそらく3年の誤り)と4か月と5日であった。酒色に溺れる余り、若くして体を衰弱させたと言う者がいる他、毒によって命を奪われたと伝える者もある。