スキュリツェス年代記(『歴史概観』) バシレイオス2世 (テオファノ摂政時代)

1.
ロマノス2世の帝位は、息子たちによって継承されている。バシレイオス(2世)とコンスタンティノス(8世)であり、二人の母であるテオファノが共にあった。テオファノはロマノスの崩御二日前に娘を産んでいる。娘は、アンナと名付けられた。

2.
ロマノス2世は背が高かった。とはいえ、その父(コンスタンティノス7世)よりは小さい。礼儀正しく物腰柔らかで、聡明であった。若いとはいえ、利発で頭の回転も早かった。

仮に側近らがロマノス2世に親政を認めるならば、彼には、帝国を統治する才覚は十分に備わっていたと言える。けれども側近らは、ロマノス2世を若さゆえの放埓へと導いた。

自分たちが権力を握って国を治め、また自由にできる富を得るために、側近らはロマノスを無能な怠け者に仕立てあげていたのである。

3.
同じ第6インディクティオの年の4月(963年4月)、ニケフォロス・フォーカスは、コンスタンティノープルへとやってきた。ヨセフ・ブリンガスの再三の抗議にもかかわらず、摂政であるテオファノが要請したためである。

フォーカスはクレタとベロエア(アレッポ)で敵を打ち破ったことにより、ヒッポドローム(大競馬場)で凱旋式を行った。彼はまた、ベロエアで得た洗礼者ヨハネの衣服の一部をも齎している。

ブリンガスは、彼を恐れと疑いの目で見たが、ニケフォロス・フォーカスは、以下のように欺いてブリンガスを惑わせることに成功している。

フォーカスは護衛を一人つれて、夕食のころにブリンガスの家を訪ねると、扉を叩いて、門番に取り次がせた。取り次ぎが済んで招き入れられると、フォーカスはヨセフを非難し、服の下に着ていた(修行のために着用する)毛編みの肌着を見せる。

フォーカスは、自分が修道生活を受け入れて修道服をまとった事、とうの昔に俗世間のしがらみから抜け出しており、コンスタンティノス7世とロマノス2世への執着を引きずっていない事をヨセフに語った。

フォーカスは、できるかぎり早く実行しようと長い間考えていたことを実行に移し始めていた。彼は、ヨセフに根拠なく自分を疑わないように頼む。フォーカスの言葉を受けて、ヨセフは彼の足もとにひれ伏し、フォーカスに許しを請うている。そして、フォーカスを中傷する人間に信は置かないと約束したのであった。

4.
それはともかく、ブリンガスは、共同皇帝だったステファノスを疑っていた。彼はまだ、追放先のメテュムナで健在だったのである。ブリンガスはステファノスを確実に拘束するよう力を尽くした。

しかし、ステファノスは聖大土曜日に領聖を受けた後、これといった訳もなく、突然、亡くなった。

遠くにあってさえテオファノは、ステファノスの死を引き起こしたのである。

5.
ブルガリア人の皇帝 ペタル1世は妻が亡くなった際、ローマ皇帝と表面的に和平条約を取り結んだ。ペタルは息子のボリスとロマンを人質として引き渡している。

その後、ペタル自身が程なくして死亡すると、息子たちはブルガリアへ送られた。ブルガリアの代々の王権を維持するためでもあり、ブルガリアの「伯の息子たち(コミトプリ家)」のさらなる(ローマ領への)侵略を牽制させるためでもある。

ダヴィド・モイセイ・アーロン、そしてサムイルは、ブルガリアの一人の強大な伯の子供であった。彼らは反乱を考え、ブルガリア人の地をかき乱している。

6.
既に述べたようなやり口でニケフォロスに欺かれた後、ブリンガスは、彼を帰した。

後になってブリンガスは、フォーカスとのやり取りについて思い起こして、自分自身に腹を立てた。獲物が網にかかった自分を甘んじて受け入れるくらい愚かしいことに思えてきたからである。

そこでブリンガスは、偽計よって、自身の懸念事項を解決できるかもしれないと企みを巡らし始めた。

ブリンガスの考えうる中で、最も効果的な手段は、ヨハネス・ツィミスケスに手紙を書き送ることだった。彼は胆力ある軍人であり、フォーカス自身に次ぐ最も優れたローマの司令官である。ツィミスケスは当時、テマ・アナトリコンにあって司令官を努めていた。その他、司令官 ロマノス・クルクアスもまた優れた将であり、東方にあった。ブリンガスは、彼らに手紙を送って友好を約し、栄誉と贈り物とでフォーカス打倒を唆す。

以下が手紙にしたためられた内容である。

――もし、挙兵してフォーカスを追い落とし、剃髪させて修道士にするか、そのほか[フォーカスを失脚させる]算段を講じるのであれば、ヨハネスは東方のスコライ軍団長官に、ロマノスは西方のスコライ軍団長官に任命されるだろう――

ツィミスケスらは手紙を受け取るとすぐにフォーカスにその内容を聞かせている。彼らはフォーカスに忠実だったのである。そして、確実な方法をとるか、何か優れて大胆な方策を考えるように懇請した。

ツィミスケスらはフォーカスに、

「ゆるゆると対応を先延ばしにされるのであれば、我らの手であなたを討ちますぞ!」

と脅した。

その身に危険が及ぶことを恐れたフォーカスは、自らを皇帝と宣言することをツィミスケスらに容認している。同じ第6インディクティオの年の7月のことである。

フォーカスは、実際にツィミスケスが招集した東方の全軍から歓呼を受けローマ皇帝となった。

7.
以上は、(フォーカスが即位するに至った理由についての)ひとつの説である。今ひとつ、より真相に近いと思われる説がある。

フォーカスは長い間、漠然と自分は皇帝になるべきだという思いを抱いていた。その思いのために帝位への情熱のみならず、帝都滞在中に出会った皇后 テオファノに対する情熱にも燃えていたというのである。

フォーカスは、最も信頼する使用人 ミカエルを繰り返し、テオファノのもとへと遣わした。ブリンガスがフォーカスを警戒し、最終的に疑うようになったのはこのためである。

フォーカスが歓呼を受け(皇帝として迎えられ)たという知らせが、コンスタンティノープルに伝わり、何もかもが混乱してしまった。そうした中で[事実上、国政全般をになっていた]ヨセフ(・ブリンガス)は、非常に頭を悩ませ、いかなる措置を講じるべきか途方にくれていた。というのもブリンガスが、非常に取っ付きにくい人物であるために、市民に決して愛されていなかったからである。

ニケフォロス・フォーカスが道々、歓呼を受けながら全軍を率いて、まっすぐ(帝都対岸の)クリュソポリスにまでやって来たとき、ブリンガスは、他に皇帝を立てることに決めた。そうすることでフォーカス軍の進撃を少しは鈍らせることができるのではないかという思いがあったのである。

既に述べたような有様でフォーカスが歓呼を受けていたとき、彼の父 バルダスは健在で帝都にあり、ハギア・ソフィアに避難していた。その間、[ニケフォロスの]兄 レオンは厳重な警戒下にありながら、何とか(帝都を)脱出し弟の軍に加わる。

ブリンガスは、世論を満足させることも揺り動かすことも全くできなかったから、(ニケフォロスの親族を取り逃がした)これらの出来事は、彼を消沈させ、無為に陥らせることになった。

世論を満足させるには、滔々と心を掴む演説をすべきだったが、彼はむしろ市民の感情を逆なでし、怒らせる方向へ向かってしまう。

誰もがハギア・ソフィアに押し寄せたが、ブリンガスはその群衆を震え上がらせようとして、傲慢で下品な言葉を使った。

「おまえたちの恥知らずで浅ましい醜態にとどめを刺してやろう。おまえたちには、一握りほどの金を支払わせてやる。懐に詰め込める程度の穀物の分だ。」

と言ったのである。

ブリンガスがそう言ってから丸一日と経たない同じ日[8月9日、日曜日]の夕方、共同皇帝 コンスタンティノス8世のパラコイモメノスであったバシレイオス・ノソスは、[ヨセフに反感と敵意を持っていたが]自身の手勢、友人知人らと一堂に会した。

ノソスは、彼らを帝都各地区のニケフォロスに反対する者たちの家へと向かわせる。

月曜日の最初の1時間から6時間経つまでに、ノソスの手勢は、多くの市民らの家を荒らし、破壊して回った。中でもヨセフ(・ブリンガス)のものは最も重要だった。(ニケフォロスへの)反対派と思われる名士や官吏の家だけでなく、多くの名も無き人々の家も同じように破壊された。数え切れないほど多くの家屋が打ち壊されている。

他方の人々と相容れない立場にあるなら誰でも、命知らずの一団を連れて、相容れない人々を虐殺しようとしただろうし、だれもその人のために仲介など出来はしなかっただろう。

(帝都がそういった状況に陥ってしまったために)無秩序の内に多くの人々が虐殺された。虐殺が帝都の広場、大通り、市場、そして裏路地で行われる間、ノソスの一党は、征服者ニケフォロスを歓呼した。

今、フォーカスの父バルダスは、彼が哀れなほど逃げ場として求めたハギア・ソフィアから引き出された。もはや、危険は去ったと思われたからである。

ヨセフ(・ブリンガス)の方はと言えば、これまでの権力者という立場から、今やみすぼらしい助命嘆願者の立場へと変わっていた。

パラコイモメノス バシレイオスの一党は、用意した何隻かの帝国のガレー船に乗り、全船、クリュソポリスへと渡る。

そこでノソスの一党は、ニケフォロスを船に乗せてヘブドモンへ向かう。彼らと全市民は行列を成して、ニケフォロスを黄金門から帝都へ入らせた。拍手喝采が送られ、トランペットやシンバルが鳴らされる。

ニケフォロスはノソスらの一党とハギア・ソフィアに至った。

そこでニケフォロスは、ノソスらの計らいで、総主教 ポリュエウクトスから帝冠を受けることができた。ポリュエウクトスは、実際に神の大教会たるハギア・ソフィアにおいて、説教壇でニケフォロスに戴冠している。

第6インディクティオの年の8月16日、日曜日のことである。