ニケタス・コニアテス年代記
ヨハネス2世コムネノス

【ヨハネス2世コムネノス 位1118-1143】

1.
皇帝アレクシオス1世コムネノスは3人の息子と4人の娘を得た。ヨハネスは長男である。アレクシオスが初めて儲けた子はアンナであり、ニケフォロス・ブリュエンニオスと結婚してカイサリッサの称号を授けられた。

こどもたちの内、皇帝アレクシオス1世が最も可愛がったのは、ヨハネスである。(アレクシオス1世は)ヨハネスが自らの帝位を継ぐべきであると決めて、緋色の長靴を与え、皇帝を称することを許した。

母である皇后エイレーネーは反対に、娘のアンナの側に付いて最大限の威光を発揮し、さらに息子ヨハネスを夫のアレクシオス1世の前で中傷する機会を逃さなかった。軽率で、遊び好きで、軟弱な性格であると嘲ったのである。エイレーネーは皇帝に考えを改めるよう説得し続けた。

状況が許せば彼女はブリュエンニオスをこれでもかという程、褒めちぎっている。この上なく雄弁で、大事を成し遂げる力があり、道徳的に成長するための自由七科を修めていて、帝国を損うことなく保つために国政を担おうという人々を良く支えていると称賛したのである。

アレクシオス1世はこういった事を聞いてエイレーネーのアンナに対する母性愛に気付くと、しばしば喫緊の課題に気を取られて言葉さえ聞いていないかのような姿を見せた。別の折には、彼女の熱心な説得についてよく考えた後で、その嘆願を聞き逃してはいないと言明した。(エイレーネーの言葉を聞くに)耐えられなくなった時には、

「妻よ、寝台と帝国を私と分け合う人よ。何か神から狂気でも授けられたかのように、娘に代わって忠告するのは止めてくれないか。立派に保たれている調和と見事な秩序をバラバラにするのか?

幸運を信じなさい。そうでないなら、来なさい。一緒に相談しよう。歴代のローマ皇帝で国政を引き継ぐに相応しい息子がありながら、その子を差し置いて、義理の息子を選んだ皇帝を見てみよう。

そうした事が過去に起こっていたとしても、まだそれを法的拘束力のある稀有な先例と見るべきではない。

マケドニア随一の大都市 オレスティアスの生まれの故に、マケドニア人に呼ばれしブリュエンニオスという(使徒パウロを思わせる)あだ名の彼の者を余の子の替わりにし、継承者たるべき者を見捨てた暁には――親族の権利と教会法を否定して恥ずべきやり方で帝位を与えた、正気を失った者として私は全ローマ人の笑い者となるのではあるまいか。」

皇后エイレーネーにこうした説得力ある論拠を示して、アレクシオス1世はあたかも自身が(皇后に)異議を唱えていないかのように振る舞い、(後継者について)熟慮しているような振りをして妻の気をそらしたのである。

アレクシオス1世は食わせ者であり、何よりも秘密主義を賢明なことと考え、自分の意図するところについて多くを語ることは決してなかった。

2.
アレクシオス1世は崩御が近くなると、マンガナ修道院のある壮麗な複合施設に入った。ヨハネスは儚くなろうとしている父と自分への対抗心に燃える母、そして帝国を得ようとする姉を目の当たりにする。ヨハネスは親族、中でもその代表者である弟のイサキオスと相談した。イサキオスは、取るべき行動についてヨハネスを支持する。

ヨハネスは母に気付かれることなく父の寝室へと入り、悲しみに暮れているかのようにして父を抱きしめると、密かにその指から印章付きの指輪を外した。

ヨハネスが父の指図でそうしたと言う者があるが、その説はこれから述べることによって裏付けできそうである。(印章付きの指輪を得た)その直後、ヨハネスは参謀たちを集め、取るべき措置を示して武器を取り、馬に跨ると大宮殿へと急いだ。

マンガナ修道院と街路はヨハネスの支持者でごった返していた。そして集まった市民たちは(ヨハネス)決起の噂を聞きつけて、ヨハネスを皇帝として歓呼する。

3.
ヨハネスの母である皇后 エイレーネーは、事態の変化に不意を突かれていた。彼女は息子を呼び出して、行動の中止を促す。ヨハネスが事態の主導権を握り、母のことさえ気にも掛けなかったので、エイレーネーはブリュエンニオスを唆かした。自分の支持の下に彼を帝位に就けようというのである。

しかし、ブリュエンニオスが何もしないのを見てエイレーネーは夫に近づいた。アレクシオス1世は寝台に突っ伏している。ただ苦しそうな呼吸だけが、生きている証であった。彼女は夫の体の上に身を投げ出して、深く水を湛えた泉であるかのように涙さえ流して、息子に反対して叫ぶ。

「アレクシオス、あなたがまだ生きているというのに、ヨハネスは帝位を簒奪しようと反乱を起こした!」

と。

けれどもアレクシオス1世は彼女の告発に応じなかった。皇帝はおそらくは、より大事な問題について考えていた。例えば、間もなく訪れるであろうこの世からの旅立ちのことを考えていたのであり、来世へと自分の魂を導いてくれる天使を見つめていたのである。

皇后が激しく息子の行動に抗議し、アレクシオス1世に嘆願する間、アレクシオス1世は無理やりに軽く微笑みを作って天に両手を伸ばした。おそらく(ヨハネス決起の)知らせに喜び、神に感謝を捧げていたのであろう。そして、

「自分を嘲笑わずにはいられない。己の魂が体を離れようとする時に――犯したであろういかなる罪をも神の御前で悔い改めなくてはならない時に、妻は後継者のことで喚き立てているのだから。」

と言った。

妻は確信した。夫は自分の望みを拒絶された妻が抗議し、(後継者のことについて熟慮するという)偽りの約束の餌食になったのを満足げに眺めているのだと。そして深くため息をついて、

「夫よ、あなたは人生においてあらゆる類の偽りに秀で、その言葉は矛盾で飾り立てられていました。この世を去ろうかという、今この時においてさえ、その姿は変わっていないのですね。」

と言ったのであった。

4.
ヨハネスは宮殿に着いた時、その入口が衛兵によって閉ざされているのを見つける。衛兵は、ヨハネスが提示した印章付きの指輪だけでは満足しなかった。ヨハネスが父帝から宮殿に入るだけの要請を受けたということについてさらなる証拠を要求したのである。

ヨハネスの護衛は、宮殿の門扉を重たい青銅製の棒で蝶番のところから持ち上げ、地面に叩き落とした。そうしてヨハネスは武装した仲間や親族と共にたやすく中に入る。

付き従っていた多くの寄せ集めの群衆は、中へ押し寄せると同時に目に見える全てを強奪し始めた。ひとたび門が閉ざされると、外の人々は中へ入るのを遮られる。入り込んだ人々は数日の間、そのまま皇帝と宮殿内にあることを余儀なくされた。

そして8月の15日間が過ぎる。

5.
次の日の夜、皇帝アレクシオス1世は崩御した。治世は37年4か月と半月であった。

夜が明けるとすぐ、母后はヨハネスを呼んだ。父帝の遺体を亡くなった当人の建立したキリスト・フィラントロポス修道院に運ぶ葬列に加わらせるためである。ヨハネスは母からの要請を拒否した。母の権限をはねつけたいがためでも、父に不敬な行動を見せつけたいがためでもなく、帝位を確保する十分な時間が無いためであった。

ヨハネスは対立者の並外れた権力欲を恐れていた。ヨハネスは岩にしがみつくタコのように宮殿に張り付く。しかし、親族が父帝の葬列に参加するのは許可した。

6.
数日後、皇帝は望んだ者に宮殿への出入りを許可した。今やしっかりと政府を統御しており、自分の望みに従って国政を運営するようになっていたからである。

ヨハネス2世は親族や自らに近い親友の前で公明正大に振る舞い、それぞれに相応しい栄誉を授けた。皇帝は忠実な弟イサキオスと一心同体であることを自ら示して見せる。イサキオスは誰よりもその忠愛を示し、ヨハネス2世の権力継承に最も貢献した。ひとたび帝国の秩序が確立されると、ヨハネス2世はイサキオスを帝権と議事の対等な協力者と認めた。そしてイサキオスが父アレクシオス1世から授与されたセバストクラトールの爵位に相応しい公式声明に加わることを許している。

ヨハネス2世コムネノスは公務の行政官を親族の中から任命し、パラコイモメノス(寝室管理長官)の任を授け、さらにグレゴリオス・タロニテスをプロトベスティアリオス(衣服管理長官)としている。

政府を束ねるに当ってヨハネス2世コムネノスには束縛がなく、稀に見る厚かましさも尊大な振る舞いもなかった。そして早くも統治者としての重荷から解き放たれていた。一方でグレゴリオスは越権行為をせず、そのため非常に長く権力の座にあった。後には別のグレゴリオスという人が出て、姓をカマテロスと言ったが、その職務においてタロニテスに協力している。

カマテロスは学識ある者であったけれども、名門や尊貴の出ではなかった。しかし彼は志願して、皇帝アレクシオス1世によって軍に入れられる。下位の尚書官の間に名を連ねて、地方を回り、賦課した税から莫大な富を得た。カマテロスは婚姻によって皇帝と繋がることを切望し、その血族の女性の一人と結婚すると、ロゴテテース・トーン・セクレトーン(財政部門の長官)へと昇進している。

7.
しかしながら、皇帝の寵を受けているという点においてはヨハネス・アクスクが誰よりも勝っており、最高の栄誉を受けた者であった。彼はペルシャ(トルコ)の種族の者である。パレスティナに向かう途中であった西側の軍にビテュニアの首府 ニカイアで捕らえられ、皇帝アレクシオス1世に献上されたのであった。皇帝ヨハネス2世と同年代であり、ドメスティコスや侍従の中にあって皇帝の遊び相手、親友となっている。

ヨハネスが登極すると、アクスクはメガス・ドメスティコス(帝国陸軍総司令官)の任を与えられ、その影響力を大いに増大させた。そのため、皇帝の主立った親族たちも、アクスクに出会うと下馬して敬意を表している。彼は戦争に熟達しているだけでなく成果を求められる仕事においても手際が良かった。そのうえ、その気高く寛大な心が、卑しい出自を覆い隠したので、アクスクはあらゆる人から愛されていたのである。

8.
皇帝の治世の初めの年は、まだ順風満帆とはいかなかった。その手口までは語りようもないが、皇帝の親族が皇帝に対して喚き立てて、邪悪な目を向け、陰謀を仕掛けたのである。

悪事を働く一党は、忠誠を誓ってブリュエンニオスの周囲に集まった。彼は自由七科の教育を受け、堂々たる振る舞いを見せ、結婚によって帝室と繋がった者の中で最も優れていた。そのため彼ら一党は帝権をブリュエンニオスに渡すことにしたのである。

他で述べたように、ブリュエンニオスは皇帝の姉であるカイサリッサのアンナと結婚していた。そしてアンナは全ての科学の女王である哲学に熱中しており、あらゆる分野の学問の教育を受けていた。

ブリュエンニオスの一党はおそらく、夜間、凶器を携えてフィリオパティオンに野営している皇帝を襲おうとしていた。そこは馬を駆けさせるのに適しており、陸の城壁の門から、ほど近いところにある。以前、一党は門番に気前よく賄賂を渡していたのであった。ブリュエンニオスのいつもの動きの鈍さと無気力は、帝位を得るためのあらゆる試みを後手に回らせる。約束していたことを無視する形で、ブリュエンニオスは動かないままであった。そうして、ブリュエンニオスは味方の熱意を消滅させてしまったのである。

カイサリッサのアンナは、生来、口うるさく、夫が軽薄に振る舞い、アンナの怒りに取り乱すのを嫌悪していたと言われる。アンナはブリュエンニオスの男性器が深く自分の中に入ってくる時に膣を強く締め上げて、強い痛みを与えても許されると感じていた。

9.
翌日になって陰謀を企てた者たちが発見される。その際、彼らは不具にされたり、鞭打たれたりはしなかったが、財産を没収された。しかし、しばらく後、その大部分は返還されている。

皇帝はまず、陰謀の首謀者であるカイサリッサのアンナを憐れんだ。それは以下の理由のためである。

カイサリッサの金や銀、あらゆる種類の富、その多くの衣服が一部屋に集められていた。皇帝ヨハネス2世はそこにあってそれらの富を眺め、特に、

「どうやって運命はひっくり返ったのだ! 親族は敵となり、見ず知らずの者が友人となった。それだけでも十分、ここの宝物を友人に引き渡す理由になる。」

と言った。

皇帝はこれらの宝物全てをメガス・ドメスティコス(アクスク)のものとするよう命じた。メガス・ドメスティコスは皇帝のその寛大さに感謝し、自由に(所感を)述べる許可を求めた。

皇帝は求めに応じる。そして、メガス・ドメスティコスは、

「陛下、あなたの姉君は、暴力的かつ全く不当な手段に頼り、そうした行動で家族の絆を放棄なさいました。しかし、その名前と親族であるという事実までは放棄なさっていません。

姉君は結局、良き皇帝にとっての姉のままでいらっしゃいます。悔い改めることで、今や狂気を去った姉君は、血の繋がりの力によって陛下の愛情を取り戻されることでしょう。

陛下、あなた様の皇帝としての尊厳に怒り、あなた様の慈愛に打ち負かされた姉君をお赦しあれ。姉君は既にあなた様の徳に完全に敗れたことを告白しているのですから。

眼前のこれらの宝物を姉君にもお与えください。ただの恩義としてではなく、自発的な贈り物としてです。

これらはより正当には、私のものというより姉君のものです。 お父君の遺産として譲られたものです。」

と言った。

こうした言葉に説得されたかあるいは、恥じ入って、

「君の方が私の家族に対して慈悲深く、しかも莫大な利益をたやすく手に入れられるような誘惑にすら屈しないと(世の人々に)思われたら、私は統治者失格だろう。」

と皇帝は真剣にその頼みを聞き入れる。皇帝は全てをカイサリッサに返還して、和解した。

10.
ヨハネス2世の母である皇太后 エイレーネーは、息子に対する陰謀には関わっていなかった。むしろ皇太后は陰謀を知って、警句を発したと言われる。

「継承者がいないのであれば皇帝となる者を探さねばなりません。ですが、治世中の君主が廃されてはなりません。」

と。

「こういう虐殺者が、我が息子に対して企んだことのせいで私が感じてきた苦しみは、出産の痛みより鋭いものです。

出産はこどもをお腹の中から日の光の下へと押し出すものですが、虐殺者たちは地獄の奥底から、私がお腹を痛めた子に手を伸ばし、果てしなく私を苛んだのです。」

11.
皇帝は春の到来と共にペルシャ人(トルコ人)に対して軍を進めた。彼らが皇帝の父(アレクシオス1世)との約定を破って、大勢でフリュギアの諸都市やマイアンドロス川に至るまでの地域を荒らし回っているのを目の当たりにしたのである。

皇帝は多くの戦いに勝利した。ラオディケイアの街を奪うとその周りに防壁を巡らし、アルプ・カラを派遣してその防衛を任せる。皇帝は全てを安定させて帰還するつもりであった。

12.
ビュザンティオンでの短い滞在の後、皇帝は再び幕営の住人となる。皇帝はバルバロイの侵入を警戒した。ローマ人が準備を怠っていれば、どれだけの被害が出るか良く認識していたのである。

そのため、皇帝はやむを得ない二つの理由で遠征を継続した。(一つは)皇帝自身の本拠地の防衛は、その場にあってこそ達成されるものであるという理由。そして軍を訓練する上で(兵士らが)家庭のことに煩わされずに済む場になるという理由。水に浸された熱した鉄のような軍隊は、激しい戦いで汗を流すことによって鍛え上げられるのである。

13.
そういうわけで、皇帝はパンピュリアのソゾポリスを制圧しようとした。武装した守備隊と、その近づきがたい険しい地形のために、街を占領するのは難しいだろうと、皇帝は考えていた。

神の意志によって皇帝は、以下のような作戦を思いつく。パクタリオスに騎兵隊を指揮させ、何度もソゾポリスに攻撃を仕掛けて矢玉を城壁に射ちかけるよう命じた。敵が打って出てきた時には、立ち向かわずに、街にほど近い深い茂みの中へ逃げることになっていた。

パクタリオスは皇帝の命令を実行する。ペルシャ人(トルコ人)がソゾポリスから繰り返し押し寄せてくると、パクタリオスは隘路に伏兵を置いて敵の裏をかいた。

ペルシャ人は一度、追撃において伏兵の可能性を考慮せず、いつもよりも長くまっしぐらにローマ人を追跡してきた。そして何も疑わずに険しい場所に乗り入れる。待ち受けるローマ人は、味方の一隊の後方から全速力で馬を駆って追跡してくるペルシャ人を注意深く見ていた。ペルシャ人が逃げる敵に追いつくことだけを気にしていたところへ、ローマ人たちが姿を現して、激しくソゾポリスを攻撃する。そして、逃走していたローマ人は向き直り、その中に取り込まれたペルシャ人は街に逃げ込むことができなかった。また、追撃してくる者から逃れることもできなかった。あるいは捕虜となり、あるいは刃に掛かる。わずかな者は馬の駿足のおかげで逃げることができた。こうしてソゾポリスは皇帝の狡猾な計略の結果、ローマ人によって占領されることとなる。

続いてヒエラココリュフィティスという城塞や、かつてローマに属していた多くの要塞化された街々や拠点が降伏した。そうはいいながらも、ペルシャとは和平が結ばれる。

14.
ヨハネス2世の治世5年目には、スキタイ人(ペチェネグ人)がイストロス(ドナウ川)を渡ってトラキアを略奪し、足元にある全てをイナゴよりも徹底的に壊滅させた。

バルバロイは数が多いのみならず、傲慢に振る舞い、非常に自惚れていた。そのためヨハネス2世は、ローマ軍を集め、できる限り最高の装備を身に着けさせると、スキタイ人に向かって進軍する。バルバロイはマケドニアの大部分を襲い、荒らし回っていた。彼らはアレクシオス1世コムネノスの治世下に、トラキアを占領した頃のような、以前の成果を思い起こしていたのである。

15.
皇帝はまず計略を用いる。スキタイの言葉を話せる使節を派遣し、敵を説き伏せて、その全てとはいかないまでも、少なくとも一部は撤退させようとしたのであった。彼らが多くの部族に分かれており、離れた場所に本拠を置いて住み着いていたからである。

使節が口説き落とした首長たちは、さまざまな恩愛をもって迎えられた。皇帝は首長たちの前に豪華な食事を出させ、さらに絹の衣装と銀の杯や器を贈って彼らを魅了した。

そうした餌でスキタイ人の気を引く一方で、皇帝は知っていた。首長たちがどのように行動すべきか決心する前に、遅滞なく軍を編成しなければならないということをである。

首長たちはローマ人との約束があるために、ローマとの和平を考えていた。 それと同時に、過去にいつもそうであったように、戦闘では勝利できるだろうと確信していた。

16.
スキタイ人たちは野営していたベロエ地方を出発する。明け方、ヨハネス2世はスキタイ人と交戦し、そしてこれまでで最も恐ろしい戦いが起こった。

スキタイ人は我が軍と勇敢に戦う。その騎兵の突撃、放たれる矢玉、そして鬨の声のために抵抗するのは困難であった。

ローマ人はひとたび戦いに加わると、戦場で散るために、あるいは勝利するために戦いに身を捧げる。護衛や供回りに守られつつ皇帝は、敵に囲まれた自軍を督戦し続けた。

17.
戦いの真っ只中にあって必然、スキタイ人らは奮い立ち、次のような基本的な作戦を取る。全ての荷馬車を集め、円形に展開して、そこに相当な数の軍勢を配置し、そして柵を設ける。彼らは荷馬車を通り抜ける多くの通路を斜めに切った。ローマ人に強く押し込まれて、引き返さなくてはならない時には、いつでも荷馬車を壁にしてその背後に逃げ込めるようにしたのである。

休息の後、彼らは門を開け放って出てきたかのように飛び出して、その手で勇敢な功業を打ち立てた。スキタイ人によって考え出されたこの戦術は、実質、城壁から戦うのと同じものであり、ローマ軍の攻撃を挫折させている。

18.
その後、ヨハネス2世は自軍のために狡猾な計画を考え出している。皇帝は本質的に勇敢で狡猾な戦術家だっただけでなく、将軍や兵士に与えた指示を率先して実行する人でもあった。

皇帝の戦場での行動は、その大きな信仰心を示すものだった。ローマの密集陣が激しく攻めかかってくる敵からひどく押し込まれた時にはいつでも、皇帝は神の御母のイコンを見つめ、大声を上げて嘆き悲しみ、哀れな身振りをして、戦いでの汗より熱い涙を流したものである。

そうした皇帝の行動は無意味なものではなかった。モーセがその手を上げてアマレク人の軍を追い返したのと同じように、天の力を持つ胸当てを身に着け、スキタイ人の大軍を潰走させたのである。

19.
長い盾と片刃の斧を携えた護衛を連れて、ヨハネス2世はスキタイ人と戦うために打って出る。さながら打ち破れない壁のようであった。

荷馬車が破壊され戦闘が白兵戦となると、敵はみっともなく敗走する。ローマ人は勇敢に追撃した。何千もの荷馬車の民が戦死し、その柵を巡らした陣は占領され、略奪の場となった。

我々の側へ身を投じることを乞い願った者たちは多くが、ローマ帝国の西方国境沿いの村々に移住させられた。一部は未だ健在である。相当数が同盟軍として編入され、多くの部族が軍に配属されている。

20.
ヨハネス2世はスキタイ人に対して、そうした輝かしい勝利を収め、大きな戦利品を掲げ、神に祈りを捧げた。そしてこれらの功業を記念し感謝するために、今日、ペチェネグの祭典と呼ばれる祭典が設けられた。

21.
少し後に皇帝は、多くの罪悪と条約違反を犯した(セルビアとも呼ばれる)トリバロイの国に対して宣戦した。皇帝は彼らと戦って惨敗させ、これらのバルバロイに和平を強いる。彼らは戦いにおいて分が悪いと、決まっていつも近隣の君主たちの軛の下に入った。

皇帝はそこから莫大な略奪品を持ち去って、数えきれない戦利品を軍に与え、捕らえた民の一部は、東方へ移住させている。彼らをニコメディアの行政区に定住させ、肥沃な土地を割り当てて、一部の者を軍に編入し、残りは納税者とした。

22.
皇帝は息子たちを儲けたが、その最初の子(アレクシオス)に緋色のローブを与え、緋色の長靴を履く特権を認めた。そして、集まった民衆によってヨハネス2世がローマ人の皇帝と称され、歓呼される際には(アレクシオスの名も)いつも一緒に言及されている。

皇帝は次男 アンドロニコス、三男 イサキオス、そして四男のマヌエルにセバストクラトールの爵位を授けた。

23.
人々は、皇帝ヨハネス2世が夢の中で、新たに戴冠した息子 アレクシオスを見たと言っている。(アレクシオスは)ライオンに跨がり、耳に手綱をつけているが、何も役立つことを仕込むことができないでいた。

その光景は、その男子(アレクシオス)が名ばかりの皇帝になるということ、さらに、真の権力を与えられないということを意味していた。そして、間もなく何が起こったか――死が彼を連れ去ったのである。

24.
夏、ハンガリー人がイストロスを渡り、ブラニツォバを略奪した。彼らは城壁を打ち崩してその石をゼウグミノンへと輸送する。サルディカをも略奪し、再び友好条約を拒絶して破棄した。

この紛争の隠れた原因は、ハンガリーの支配者イシュトヴァーン2世の兄弟(※実際には叔父)アールモシュが皇帝の下へ逃れ、暖かく迎えられたことにある。

もっともらしい表向きの原因はブラニツォバの住民が、交易にやって来たハンガリー人を攻撃して略奪するという、ハンガリー人に対する最悪の犯罪を犯したことにある。

25.
皇帝はたまたまフィリップポリスに逗留していたが、こうした悪い出来事の勃発について、問題を慎重に考慮し、当該地域からハンガリー人を除くことに決めた。

軍に敵を防ぐ備えを進めさせ、皇帝は用意した快走船でポントスを経てイストロスへと入った。そこで突然、水陸双方において敵と遭遇する。その際、皇帝は皇帝用の三段櫂船で渡河し、軍を対岸に移す。槍を構えた騎兵がハンガリー軍を蹴散らした。

26.
皇帝は敵の領土に留まった。これまで以上に辛抱強くあることを自分自身に言い聞かせ、ハンガリーで最も肥沃な土地であるフランゴコリオンを占領する。そこは馬を走らせるのに適した平原の中にあり、サヴァ川とイストロス川の間に位置している。皇帝はまたゼウグミノンも奪い、クラモンへと向かった。その地からは多くの戦利品を運び去っている。他にも幾度か戦った後、皇帝はその国と和睦した。

残りのローマ帝国国境沿いにあるバルバロイの国々に対して起こした戦争において皇帝は度々、成功を収め、友好関係を結ぶことを余儀なくさせた。

皇帝は国境の向こうの国々、とりわけコンスタンティノープルへ来航して交易をしたり、友好を求めてきたりする国々を手懐けるために、あらゆる手段を講じることが義務であると感じていた。皇帝はまた、イタリア沿岸地域の歓心を買う。その地からは都市の女王(コンスタンティノープル)へと向うために船々がその帆を広げたのであった。

27.
西方の国々を鎮め、皇帝はペルサルメニア人を攻撃するために軍を東方へ移す。彼らは(コムネノス家の拠点であった)カスタモンを占領していたのである。

皇帝はビテュニアやパフラゴニアを抜けて進軍し、街の前面に現れた。多くの梯子を掛け、攻城兵器で街を囲み、カスタモンを奪取する。ペルサルメニア人の総督は状況に絶望して逃亡した。多くのペルシャ人(トルコ人)を捕虜とした後、皇帝はビュザンティオンへと戻っている。

28.
皇帝は戦勝を祝って勝利を宣言し、銀メッキを施した戦車をつくるように命じた。戦車は半貴石の宝石で飾られ、見応えのあるものであった。

(凱旋)行進の当日になると、さまざまな種類の金の刺繍が施された緋色の布が通りを飾っている。額装された職工の手によるキリストや聖人の画像もまたその場に不可欠なものであった。画像は織物と言うより魂の宿ったものと言われたものである。(凱旋)行進の進路に沿って両側に設けられた木製の壇や足場もまた称賛に値するものであった。東の門から大宮殿へと至るまで、都の一角はこのように飾られたのである。

見事な四頭立ての戦車が、雪より白いたてがみの馬に引かれていた。皇帝自らは戦車には乗らずに、代わりに神の御母のイコンをそこに置いている。皇帝は喜んで神の御母に魂を委ねた。皇帝は自らの勝利を、常勝不敗の戦友の将たる神の御母に帰した。宮殿に入る前に皇帝は、神の叡智の教会(ハギア・ソフィア)において民衆の前で、自らの成果を主に帰して、 感謝を捧げている。

29.
程なく、臣下たちは皇帝に拝謁する機会を与えられた。皇帝は公開で行われた催しを楽しみ、そして兵士たちは郷里で幾許かの時を過ごす。皇帝の馬は休み、皇帝の槍は修理された。君主は再びカスタモンに向けて進軍する。

ペルサルメニア人のタニスマニオス(ダニシュメンド朝のグムシュティギン)は、当時、カッパドキアを占領しており、大軍で進撃して城壁に襲いかかり、(カスタモンの)街を奪っていた。そしてローマの駐屯軍を撫で斬りにしたのである。

皇帝はそこに着いたとき、タニスマニオスが人の世を去り、かのムハンマドが今やカスタモンを支配していることを知る。彼はイコニオンを支配するマスウード(セルジューク朝のマスウード1世)の敵である。自身の事業を進めるこの好機を利用しようと皇帝はマスウードと和睦した。皇帝はマスウードと同盟しムハンマドに対して軍を進める。

ムハンマドは、双方の軍による両面からの攻撃と戦うことはできないと覚り、密かに同胞であるマスウードに書状で提案を行った。

――特に我々は敵意を捨てなくてはならない。もし和解せずに、マスウード、あなたがローマ皇帝の側につくなら、ペルシャ人(トルコ人)は深刻な害を被るだろう――

と。

ムハンマドはイコニオンのマスウードを説得して、皇帝との関係を断ち切らせる。自分と結ぶために同盟を破棄させたのである。

この出来事の後、スルタンによって皇帝の同盟軍として戦うために派遣されたペルシャ軍は、夜になると立ち去り、以後、ローマ人はこの遠征で成功を収めることができなかった。

皇帝は引き上げてリュンダコス川沿いに築いた要塞に宿営し、再びムハンマドと交戦したが、今は、一層、勢いを増した。

ローマ人のためにカスタモンを取り戻し、ガングラへと進む。この街はペルシャ人の影響下になかった昔には、ポントスの都市で最も大きく、有名であった。

30.
まず周辺地域を攻略し、街に隣接して布陣した。ペルシャの守備隊は、臆することなく、入城を求める皇帝との協定を拒絶する。そこで帝国軍は城壁を囲んだ。城壁は弱く見えたので、包囲作戦を取り、矢玉の雨を降らせ続ける。しかし、城壁は頑強で守備隊が見事に激しい抵抗を示したので、どうにも前進することができなかった。そのため皇帝は石を城壁の方向に向けるのを止めさせ、代わりにローマ軍が布陣した丘から見える家屋に、(石を)激しくぶつけるように命じる。

目標は見えているが距離が離れていたので、投石機を担当していたローマ人が放った丸くて軽い石は、投石機から発射されたというよりは、空飛ぶもののように見えた。家屋は破壊される。中にいた者は膝から崩れ落ち、屋根の崩落によって死んだ。

その結果、もはや通りを歩くことも、屋内に留まることも安全ではなくなったのである。

31.
こうした理由から皇帝は辛抱強かった。とりわけ、ガングラの支配者が安らかな死を迎えてタニスマニオス(ダニシュメンド朝)の人々の間から去ってしまうと、街の者たちは自らと街を皇帝に引き渡した。

ガングラに入ると皇帝は、ペルシャ人の遊牧民を追放し、二千の軍勢からなる守備隊を置いている。その後で、皇帝は帝都へと戻った。

32.
しかしコンスタンティノープルは、この街(ガングラ)が長くその傍にあって臣下の街の間に名を連ねるのを見ることはできなかった。

ペルシャ人は以前よりも大勢で、強くなって戻ってきた。そして堅牢な陣地を構え、皇帝の注意が他の重要課題に向いている間に、街を飢えさせ降伏させたのである。

33.
こうした出来事の後、皇帝はキリキアに対する遠征を宣言した。アルメニアの支配者レヴォン(キリキア・アルメニア王国のレヴォン1世)が自国領外のローマの支配下にある要塞を攻撃し、制圧しようとしていたからである。特に彼はセレウキアを征服しようとしていた。

皇帝は長期の遠征のために、軍を招集し、新しく雇い入れた軍勢で増強して、十分な食糧を供給する。キリキア峠に到達したが、何の抵抗も受けずに(そこを)通過し、そしてアダナを占領し、タルソスを確保した。

しかし、皇帝はここまでの成功に満足せず、アルメニア全土を巡って争覇する。従って、最も重要な城塞を降伏させるか武力制圧した時が、(アルメニア)全土の支配者となる時と言えた。

34.
ある時、皇帝はバカと呼ばれる絶壁に位置する、とある要塞にやって来たが、住民は手を伸ばして皇帝を迎え入れようとはせず、和平交渉する気持ちも持たなかった。皇帝は堀を巡らした陣を作り、全軍をその周りに配したが、要塞を制するまで、何も撤収することなく維持した。包囲中、(年月を重ね)雪が何度も振る間に、皇帝の頭は白髪にさえなった。

皇帝から守備側には、降伏して要塞を引き渡した場合に得られる利益と同じく、戦闘を継続して皇帝の軍が城内に押し寄せてから捕虜になった場合に受ける報いが伝えられた。

しかし皇帝は、賢明な蛇使いの呪文に自発的に耳を塞いでいる毒蛇に対して、呪文を詠唱していたと言える。それは明らかにエチオピア人を洗って白くしようとするようなものであった。

35.
バカの要塞の守備を委ねられた者たちは、不屈の闘志を見せる。これは特にかのコンスタンティンに当てはまっていた。最も高貴なアルメニア人であり、勇ましい功業を打ち立てることにかけては誰よりも優れた者である。

彼はローマ人と戦うために全住民を集めて奮い立たせるだけでなく、武器を手に要塞の上に現れ、また丘に立つ。その丘は元々、岩に人の手を加えて造成されたもので、そこへ防壁を巡らして強化したものである。(コンスタンティンは)皇帝にギリシャ語で山のように無礼な言葉を浴びせかけ、卑猥な言葉で皇后と皇女たちをけなした。

皇帝は口汚いバルバロイを捕まえ、正当な復讐を果たすことを強く望む。さらにコンスタンティンは自らの武勇に自信を持っており、自らの膂力を大声で誇って、帝国軍をあざ笑い、大胆不敵にも誰彼構わず一騎打ちを仕掛けた。

皇帝はタクシアルコス(歩兵旅団長)に、麾下の最も勇敢な兵士たちを直ちにアルメニア人に差し向け、立ち向かわせるよう命じた。

かのエウストラティオスがマケドニア人軍団の中から選ばれる。彼は人の背丈ほどもある盾を与えられ、研ぎ上げられたばかりの剣を手にする。

彼はこうした出で立ちに身を包み、ローマ軍の戦列から踏み出す。そして丘の麓に立つと、アルメニア人に要求した。

「もし本当に一騎打ちを望むなら――(誰彼構わず一騎打ちを仕掛けたのが)他の者たちの前で無駄に見せた単なる気まぐれでないのなら、早く降りて来い。対等な場で戦おうではないか。」

と。

コンスタンティンは、そのマケドニア人の言葉を個人的な侮辱だと受け取った。

雷電の中で渦巻く竜巻のような、あるいは茂みを飛び越える山育ちのガゼルのようなエウストラティオスに、巨大で勇敢な戦士が襲いかかる。エウストラティオスは体の中心で十字を描くと、コンスタンティンの前面に白い盾を押し当てた。

(コンスタンティンは)右手で剣を巧みに操ってそれに耐えるとすぐに、その盾を斜めに打ち据え、怒り狂って斬撃の雨をマケドニア人に振らせる。コンスタンティンは今にもその男に致命傷を負わせられると思った。皇帝は絶望する。そのマケドニア人に非業の死が訪れるのを確信したからである。

猛り狂うコンスタンティンの攻撃に対して、ローマ人たちは大声を上げてエウストラティオスを激励し、打ち返すように急き立てる。けれども誰もが驚いたことに、エウストラティオスは何度か相手に打撃を与えるかのように腕を挙げながらも攻撃を控えた。あたかも彼の右手が攻撃を繰り出そうとするのを悪意ある魔術師が抑えて、何の行動も取らせないようにしたかのようだった。

幾度ものためらいの後、ようやくマケドニア人は剣を激しく振り下ろし、コンスタンティンの偉大な紛うことなきヘクトールの盾を二つに斬り裂く。ローマ人たちは驚嘆して叫び声を上げた。

こうして予期せず防御を失ったアルメニア人はその場に留まることができずに逃亡し、命からがら丘の上に全速力で駆け戻る。

それからというものコンスタンティンは要塞内に留まり、もはやローマ人に対して無礼に振る舞うことも、生意気に皇帝やその家族を口汚く罵ることも、弓のつるのようなその唇と弓のようなその歯から下品な言葉を矢のように叫ぶことも無くなったのであった。

36.
敵を打ち据えるのに何度も腕を挙げながら、一度だけ剣を振り下ろし、何をするつもりだったのか、その動きの理由を皇帝から下問されると、マケドニア人は、

「盾とアルメニア人の双方を一撃で両断するつもりでした。

ですが、コンスタンティンは体のそばに盾を持たず、代わりに遠く離していましたから、意図するところを果たせなかったのです。

結局、無為にそこにいることはできないと思いましたので、あのように、武器を振り下ろす絶好の機会を待っておりました。そうして敵は盾を失って逃げ出したのです。」

と答えた。

こうした言葉に驚嘆して、皇帝はエウストラティオスに惜しみなく下賜品を与えている。

37.
この要塞が力攻めで奪われ、皇帝に引き渡されるのに日数はかからなかった。

コンスタンティンは捕虜となり、その足は鎖に繋がれる。彼は三段櫂船に乗せられた。船は、その後ほどなく縛り上げた捕虜をビュザンティオンへと運ぶために錨を上げて出航する予定であった。

ところが大胆不敵にも向こう見ずなアルメニア人は、夜になってから見張りを攻撃し、多くを殺した。従者たちによって拘束を解かれて逃亡したのである。

再び捕らえられ、皇帝に引き渡された際には、彼はすぐには反乱を起こさなかった。

38.
皇帝はバカの奪取に精力を費やすだけでなく、それ以前からアナザルボスに対しても骨を折っていた。この人口密度の高い街は、強固な城壁を擁し、切り立った岩壁の上に位置している。城壁と所々に配されたさまざまな兵器によって防護され、そこに逃げ込んでいた重武装の屈強な男たちが、さらに守りを固めてすらいたのである。

皇帝はまず、一部の軍を派遣した。以前ガングラ攻略で自分を良く支えてくれた、ペルシャ人(トルコ人)部隊に配属されていた者たちである。アルメニア人の感情を試して、彼らが誰に味方するのか正確に確かめようというのであった。

彼らを目にした時、アルメニア人は腸が煮えくり返り、直ちにその部隊を殲滅しようと決意した。その部隊の最初の攻撃を待つこともせず、アルメニア人は門を開け放って、突撃する。交戦してアルメニア人は、ペルシャ人を破った。ペルシャ人は背を向け、アルメニア人はそれを遥々と追撃した。

その後まもなく、逃げていたペルシャ人はローマの軍団に救援に来る用意があるのを見て、向き直る。戦いの流れが変わり、アルメニア人は城壁の後ろに籠もることを余儀なくされた。

39.
すぐに攻城兵器が城壁に向けられる。そして丸い石を放って、塔を攻撃した。

バルバロイは徒に傍観したりはせず、兵器の狙いを定めて、重い石をローマ軍に向けて放ち、火のついた鉄球を投げる。こうして彼らは完全にローマ軍を圧倒した。そのため、端から多数のローマ人が負傷する。

それからアルメニア人たちは自らを奮い立たせ、予想外に前方へと突撃する。まるで、イノシシの群れのようであった。そして、彼らは攻城兵器を焼き尽くす。攻城兵器を防護するために建てられた、葦で覆われた足場に火を放つのが簡単なことだと気づいたのである。

この後、敵は大笑いした。体を揺らして笑いさざめいた。そして繰り返し嘲って、皇帝に対してたわごとを喚く。

40.
交戦は一時、中断した。その間、投石機は修理され、移動式の防護壁と足場が粘土のレンガで造られる。翌日には城壁への攻撃が再開される。

着火した鉄球がもはや攻城兵器に打撃を与えることができなくなったので、アルメニア人の希望は打ち砕かれた。そして彼らの以前の嘲笑は、今や大きな悲嘆へと変わる。

大量の赤熱した鉄が城内から直接、打ち出されて繰り返し命中するが、ゆるい土の障壁にぶち当たっても効果はなかった。射出された鉄は地面に落下し、目的を果たすこと無く鎮火してしまう。街壁はその後、至る所で打ち砕かれ、道が街へと通じた。

こうして以前には、つけあがって大いに自らを誇っていた敵は皇帝に膝を屈する。そして、自らの意志というよりは必要に迫られる形で街を引き渡したのであった。

降伏は直ちに行われたのではなく、二度目の攻撃の後に行われた。その攻撃で敵は繰り返し攻撃し、その後、近場の他の防壁に撤退したが、その場所からの最初の撤退は、血まみれの敗北の後に行われている。

41.
この街の近くで同じように要塞を攻撃した後、皇帝はコエレ・シリアへと出発する。そして、オロンテス川が流れ、ゼフュロス(西風)の吹く美しい街 アンティオキアに現れた。皇帝はアンティオキア公 レーモンと全市民から歓迎される。

数日の間、その街に留まり、その後、皇帝はアンティオキア公とトリポリ伯を臣下だと考えたので、アンティオキア周辺のハガレノイ(アラブ人)に占領されている街々を攻撃することにした。

42.
皇帝はユーフラテスに近づき地元住民がピザと呼ぶ要塞までやって来た。

戦闘が始まるとローマ軍は敵の優れた勇気のために撤退する。そして先鋒の一部は幾分離れた所まで追撃を受けたが、何かに取り憑かれたかのように熱狂し、獰猛に突進してくるバルバロイに抗うことができなかった。

間もなく皇帝が現れ、皇帝本人の密集軍の中から多くの者が敵と交戦する。ローマ軍の攻撃に抵抗することができず敵は、城壁の後ろに籠もって、もはや打って出る気も無くしてしまう。

二重の城壁が街を守り、一部には深い堀が巡らされていた。一方で元々そこに点在していた岩がさらに守りを強くしていた。けれども石の雨によって多くの塔が打ち崩されたので、ハガルの末裔たち(ハガレノイ。アラブ人)は意気消沈する。城壁が突破されると、勇敢で猛り狂っていた敵は臆病者となり、諸手を挙げて皇帝に降伏した。そして街の富と引き換えに自分たちの助命を嘆願している。

43.
しばらくして皇帝は一部の軍をユーフラテスの対岸にある街や要塞へと派遣する。そこでは多くの戦利品を集め、ピザの要塞をエデッサ伯に与えた。

(古代にはバンビュケと呼ばれていた)ベンペツの街は開けた平地にあって、簡単に奪うことができ、通過することができた。(皇帝は)アンティオキア公の要請に賛成してアレッポとフェレップへ向けて前進する。アンティオキア公は皇帝と共に軍に加わっていた。

古代にはベロイアと呼ばれていたアレッポが人口の多い、大軍を擁する街であることが皇帝には分かった。

アレッポの軍はローマ人を見つけるとすぐに城壁から前方へと突出し、皇帝の周囲の軍と交戦する。(アレッポの軍は)皇帝の軍に負け、城壁の後ろへと退いた。再三再四、打って出たが彼らは勝利を得ることができない。時折、皇帝が街の周りを巡って城壁を見渡すために接近すると、卑劣にも矢で狙撃しようともくろんだが、目的を果たせなかった。

その街の防備と軍は、やはり武器も馬もよく備えられていたが、ローマ側の補給は不足し、水も薪も欠乏していた。そのため皇帝は長引く手詰まりを避けることができず、そこを去る。

フェレップを急襲して奪い、この要塞をアンティオキアからやって来た、かの伯に与えた。

カファルダと土地の言葉で呼ばれる他の街に向けて進んだが、そこは非常に大きな行政区を統括する街で、周辺の多くの要塞を支配していることが自慢であった。頑強な城壁を誇る街である。

逸早く街を制圧し、セゼル(シャイザール)への街道づたいに内陸へと進んだ。

皇帝はこれもまたメソポタミアの街であるニストリオンの近くに布陣する。(その街は)セゼルの近くに位置し、この上なく見事に守り固められていた。ニストリオンがたまたま途上にあったので制圧して街を兵士たち、とりわけ新たに雇い入れたスキタイ(ペチェネグ)の軍勢に略奪させる。そこから皇帝はセゼルへと進発した。

44.
セゼルの長官は近隣の総督の集団から、一軍を編成するためにかなりの数の武装した軍勢を集める。

さらに防御同盟によって陣営を増強し、それから、川の屈曲部を渡った。葦の槍を振り回し、駿馬に跨がって皇帝の密集陣と戦う。多くの衝突の後、皇帝は勝利を攫った。敵の一部は水へ投げ込まれ、他の者は槍で刺し貫かれた。彼らのたわみやすい葦の槍は不十分なもので、身を護るには脆い葦だったと言える。

そのためすぐに防壁の後ろへ引き下がり、それ以上、出撃しようとはしなかった。彼らはその身を守る土の塹壕の下から姿を現し、自分たちの地方が略奪されるのを許しながらローマ人に耐える。そして、彼らの砦は奪われた。

45.
こうした事が成ると、皇帝は密集軍を編成し、部族が部族を支えられるように種族や氏族ごとの集団に分けた。マケドニア人、ケルト人、そしてスキタイ人(ペチェネグ人)に分ける。最後のものは元々、ペルシャから来て、遠征の初期にローマに身を投じていたのであった。

それぞれに特別な武器を持ったこれら同種族による部隊を目の当たりにして、敵は大きな恐怖に駆られ、激しい抵抗を止め、そして城外から城壁の内へと後退する。

48.
幾日もの間、白兵戦が行われる。衝突が起こり、戦闘になって、最も優れた者が一騎打ちに臨んだ。敗走と後退へ移ると挟み撃ちする形で追撃が行われる。

ローマ軍は常に勝利した。敵は大勢が剣で撫で斬りにされた。多くの者が矢に貫かれ、死の眠りにつく。

とは言いながら――攻城兵器に装填された石の砲弾が放たれて城壁は胸壁と共に打ち崩されたものの、敵はまだ多くの者が断固たる姿勢を保ったままであった。彼らは自分たちや妻子の命のために、そしてたくさんのさまざまな自分たちの宝物のために戦っていたのである。

47.
皇帝をそこから不本意に引き上げさせる急報がなかったなら、ほどなくその街は陥落して皇帝に服属し、街の富はすっかり持ち去られたであろう。そして街の占領によってローマ人は以前よりも一層輝かしい令名を勝ち得たであろう。

急報は、エデッサがペルシャ人(トルコ人)に囲まれており、皇帝の来援が遅れるようであれば最悪の事態を迎えるだろうことを告げていた。

皇帝は包囲を中止してアンティオキアへ向けて進発し、多くの貰い物を運び去る。(※ヨハネス2世はこの時、セゼルを統治していたイブン・ムンキードからの賠償の申し出を受け入れていた。)

貰い物の中に良く飼育された馬がいたが、弧を描いた首を持ち、そして非常に貴重な素材から作られた品々を身につけていた。金を織り込んだ目を見張るべきテーブル編みの絹の衣と、パロス島産の大理石に掘られた十字架、美しさにおいて聖像に匹敵するようなこの上もなく麗しく珍しい芸術品、目の保養とも言うべき物である。

セゼルのサラセン人(イスラム教徒)は皇帝への進物の中から輝く大理石の十字架とまばゆいばかりのテーブルをその馬に引かせた。それは彼らの遠い祖先がローマの支配者である皇帝ロマノス4世ディオゲネスを捕らえた時に戦利品として奪った物である。

その際、彼らは皇帝の天幕を略奪し、そして堅牢な陣地を占領して、その中にあった物を自分たちの間で分配したのであった。

48.
皇帝がセゼルを後にしたので、その後衛はザンギーと他のペルシャのとある首長たちの軍に攻撃される。彼らは風のように速い馬に跨っているために強く自惚れていて、バルバロイに見られる傲慢さによってローマ人を侮っていた。彼らは勇敢に振る舞わなかったので、その望みを打ち砕かれることになる。

驕り高ぶった天罰である。彼らは神の裁きによって罰せられたのであった。二人の首長が生け捕りにされた。アタベク(であるザンギー)の息子とアミール サムフの兄弟である。

49.
皇帝がアンティオキアでの凱旋式に現れたので、出迎えのために全市民が押し寄せる。聖像を抱え、通りを豪華に飾り立てて皇帝を歓迎する準備がされていた。皇帝は幸先の良い歓呼と称賛を送る別れの言葉の中、アンティオキアを後にする。そしてキリキアの境に至り、そこを出てビュザンティオンへの道を進んだ。

戦列のまま進み、総司令官としての責務を忘れずに、皇帝はイコニオンのペルシャ人(トルコ人)に師団を派遣する。以前、皇帝とその軍がシリアにあった折、イコニオンはこの機会を利用して、ローマ人に対する攻撃を開始していたのである。

皇帝はこの多数の敵を打ち破って敵の土地を奪い取り、人々とさまざまな動物を捕らえた。役畜と乗るのに適した動物である。

50.
以上が、ヨハネス2世の日の昇る地における戦いである。あらゆる言語とあらゆる信条を持つ民を巻き込んだ、三年に渡る一度の遠征であった。

51.
セバストクラトールのイサキオスは上述のように例の帝位簒奪未遂の企てを鎮圧する際に力となり、この時は皇帝の下へと帰還している。

イサキオスは些細なことで腹を立て、兄と袂を分かつと逃亡者となってローマ人の地から出奔した。同士として放浪の仲間として長男のヨハネスを共に連れて行っている。ヨハネスは鬨の声を上げるときにも力強く、恐るべき戦士で堂々たる体躯を持っており、非常に見どころのある人物と見られていた。

イサキオスは多くの様々な国々と連絡を取ったが、その中にはイコニオン人の大都市の総督(ルーム・セルジューク朝のマスウード1世)もいた。

このイサキオスは金が必要であり、ローマ領の攻撃に熱を上げ、ヨハネス2世にとってのサタンになってしまう。皇帝ヨハネス2世が戦争で繰り返し成功を収めたことで広く知られているのを目の当たりにして、イサキオスは自身のどんな計画も実現しないことに気づいた。

実際、誰もが彼から離れていった。そして反乱についての話が最初に出た時には、彼らは心もとなく思って、状況はイサキオスに不利であり、成功は不可能であると説得してこの道を思いとどまらせている。

そうしたことから彼は地方の君主を訪ねたが、その際、振る舞いがこの上なく帝王然としており、最も高貴な家の人間であったので、彼は賓客として丁重に迎えられた。最終的に彼は家族から離れ、悪しき生活に苦しむのは無意味であると覚って、兄の下へと戻っている。

皇帝は弟とその息子に会い満足した。拝謁を許し、愛情を込めて抱きしめたのである。親族の愛は強い感情であり、少し傷ついてもすぐに癒える。事実、以前のような愛情を衰えることなく保って、皇帝は心に少しも沸騰するような怒りを抱えてはいなかった。怒りを常に隠しておいて後から機会を捉えて復讐するというようなことをこの権力者はしていないのである。

皇帝は弟とコンスタンティノープルへ入ったが、征服者としての帰還を喜ぶことはなく、同じようにもはや弟の帰還を喜ぶこともなかった。

皇帝を崇敬する臣民らの称賛が飛び交う。(臣民らは)戦利品を称揚して皇帝を勝利者とすべく共に進み守った神に感謝を捧げるだけでなく、皇帝の弟の帰国をも喜んだのであった。

52.
ペルシャ人(トルコ人)がサンガリオス川沿いの手薄な地方へ攻撃を始めたので、皇帝は短期間しかビュザンティオンに留まることができなかった。

体が弱っていたにも関わらず、皇帝は引き延ばすことなく出撃して、その存在によって敵を恐怖させることに成功し、同時にあらゆる家畜の群れを追い払う。これが済むとロパディオンへと戻った。

間もなく女官たちが街から出ると、休戦を利用してオキュライ(の要塞)を築いた。皇帝はしばらくこの地方に留まる予定であり、軍に参集するよう命じる。命令によって軍が集まった時に、皇帝は初めて辛抱強く、凛とした姿を見せた。その遠征が果てしないものなのだと分かった。皇帝は時を忘れたか気づかないかのようであり、ローマ人は三年を東方での戦争に費やしたのである。

とりわけ腹立たしく、ローマ軍を言いようのない憎しみへと追いやったのは何であったか――皇帝と共にシリアに赴いた多くの者が愛する者に会うことを許されなかったという事実である。また、病気に悩まされ、補給が不足し、長い行軍で馬を失ったことと、それを余儀なくした街道と船着き場の徹底的な見張りである。それは兵士らの帰郷を妨げ、帝国の野営地に留まらせるためのものであった。

皇帝は兵士らの不満の背後にある原因をよく知っていた。その上で(その不満の原因について)知らないふりも気にしないふりもしなかった。そうして皇帝は目的を果たす間、彼らに不満を露わにすることを許す。終わりのない遠征で軍を疲弊させたくはないと断言しつつ、彼らを熱心な支援者にしていたのであった。

53.
テマ・アルメニアコンに侵入したバルバロイに対して皇帝は今や進軍を企てた。そればかりでなく、しばらくの間トレビゾンドを従属下に置き、その街を暴君として統治していたコンスタンティノス・ガブラスも捕らえる。

こうして皇帝はパフラゴニアの谷を抜けて進み、二つの理由からポントスの沿岸部を守った。自身の所領から軍隊を補充するためであり、戦う必要に迫られた際に一面だけを(敵に)晒して簡単に囲まれないようにするためである。

カイサレイアの支配者は前述のようにムハンマドであった。彼は大きな力を備えており、イベリアとメソポタミアの両地方の一部を従えていた。彼の素性を遥かに辿るとアルサケスに至り、直接にはタニスマニオス(ダニシュメンド・ガーズィー)に繋がる。

これらの者は勇敢で豪胆な戦士であり、ローマ人の街々を征服した者たちの中で最も強くて最も冷酷であった。

54.
春の終わり頃に、皇帝は行動を起こし、ロパディオンを出立した。夏季と秋の温かい時期を遠征に費やし、冬至には、ポントスの街キンテに滞在している。

その後、皇帝は敵の領土を攻撃したが、全く上手くいかなかった。カッパドキア人の土地は凍結し、気候は厳寒である。しかもその冬は例年に無いほどだったので、皇帝は様々な災難と戦うことになった。実際、糧食は尽き、荷馬も軍馬も死んでしまう。

これに他国の侵略者は励まされた。彼らは音に聞こえた悪名高さで、足を踏み入れない地も探索しない地もなく、度々奇襲攻撃におよんでは略奪を働き、時には激しく戦った。彼らは常にローマの密集陣を壊滅させている。突然、大きな雲の塊が現れたかのようであった。彼らは自分たちの馬の速さを恃んでいたのである。ローマ人は戦列を乱し、風に持ち上げられて吹き飛ばされたかのように撤退した。

騎兵隊の失敗を補うため、皇帝は見事に育て上げられた軍馬が集められた陣地に赴く。軍馬はローマ人の熟練の槍兵、ならびにラテン人の槍の使い手に与えられた。皇帝は彼らに勇敢に戦うよう言い聞かせて敵に差し向ける。渾身の突きを繰り出して突撃する彼らに、敵は耐えることができず、引き返して敗走へと移った。彼はまた莫大な数の歩兵隊の旗を掲げるよう命じた。より多くの騎兵隊がいるように見せるためである。

これらの作戦のおかげで、ペルシャ人(トルコ人)の攻撃は阻止された。そして皇帝はネオカイサレイアへと急ぐ。

55.
戦いの多くがこの街の周りでローマ人とペルシャ人の間で行われた。

そして皇帝の末の息子マヌエルは槍を構えてかなりの距離を進み、全く父に気付かれることなく敵に突撃する。この若者の行動は、ほとんど全軍を鼓舞し、戦闘で実力以上の力を発揮させた。他の者たちが皆、その少年の身を案じる中で、ある者が少年と同じ熱意を持って行動を起こす。その者はマヌエルが助勢のおかげで傷つくことは無いだろうから、皇帝は(マヌエルの行動を)大いに喜ぶだろうと推測したのであった。

その後、父帝は少年に公の場で称賛を与える。しかし後で天幕に入ると、皇帝は息子を大の字に転ぶほど自ら殴り倒した。そして、勇敢というよりも軽率であるとして、柳の小枝でできた鞭で打ち据え、息子に接近戦に臨むことを禁止している。

56.
予期せぬ状況のために(攻撃を)中断しなければ、おそらく皇帝はネオカイサレイアの守備軍に勝利しただろう。セバストクラトール イサキオスの息子で皇帝の甥にあたるヨハネスの馬鹿げていて身勝手な傲慢さと制御不能の怒りさえ無ければ――

ペルシャ人との戦いの最中、皇帝はイタリア生まれの名高い騎士が馬無しでいるのを見て、傍にいた甥に、彼が乗っていたアラブ馬から降りて、イタリア人に与えるように命じた。甥が馬に困っていないことを知っていたからである。

(甥は)意気盛んで、度を越して傲慢であった。彼は皇帝の命令に逆らい、激しく憤って厚かましくも抗議を示したのである。甥はラテン人を侮って決闘を挑んだ。勝てば正当に馬は甥のものである。しかし結局、皇帝の怒りに満ちた様子を見て、甥は延々と伯父に逆らうことができず、渋々、馬を引き渡した。

落胆した彼は別の馬に跨がり、槍を取って敵陣の方向へと去る。その後、少し進んで彼は槍を後ろへ回して肩に乗せ、兜を脱いでペルシャ人の下へと逃亡したのであった。

57.
バルバロイは皇帝の甥のヨハネスに会って喜び、友人として温かく迎え入れる。彼らは以前、ヨハネスの父の仲間として知られていた。今やヨハネスはその存在によってバルバロイの活動を増強することとなる。少しして彼はキリスト教の慣わしを棄て、イコニオンのペルシャ人の娘と結婚した。

皇帝はこれらの出来事に驚く。そして甥がローマ軍の苦境について自由に(敵に)明かし、また馬や糧食の欠乏、その他、陣内のあらゆる窮状をすぐにでも敵に知らせることを恐れる。

皇帝は密かに来た道を戻るべく急いで出立した。しかし、敵の注意から逃れることは完全にはできなかった。敵は殿軍を圧迫して、長距離に渡って追撃し、繰り返し後衛を悩ませた。

皇帝が沿岸部に配した守備の下へ到達した時、バルバロイはもはや攻撃することができずに急いで撤退する。

58.
1月には、皇帝ヨハネス2世はペルシャとの戦役から都へと戻り、春分には再び剣を帯びてリュンダコス河畔の街(ロパディオン)の近くまで至った。

夏が終わり冬が刺々しく晴天をもたらす。風の唸りが恐怖を引き起こし、寒さへの体の抵抗力を弱らせ、皇帝はビュザンティオンへ戻った。寒空になって、雪が大きな玉石のようになり、みぞれが投槍のようになって降る前に引き揚げたのである。

春が微笑み始めた頃、皇帝は行動を起こし宮廷をあとにした。娘たちに別れを告げた時、皇帝はヘリアデスのような彼女たちの琥珀の涙に包まれる。

フリュギアを横断した後、皇帝は極めて壮麗な街 アッタレイアに到着する。周囲の地域に偉大な秩序を打ち立てるため、そこにしばらく滞在するつもりであった。

59.
(アッタレイアに近い)地域の内、プスグセ湖畔の諸地域の一部は既にペルシャ人に服属していた。海のように広がるプスグセ湖に散在する堅牢な防壁に守られた島々へと漕ぎ出す。これらの島々には帆掛け舟と小舟でイコニオンを越えたキリスト教徒の集団が住み着いていたが、彼らはペルシャ人と混ざり、互いに友好的なつながりを強めるだけでなく、強い商業的なつながりも保っていた。彼らは隣人たちと同盟して、ローマ人を敵とみなす。このように、時を経て強まった習慣は宗教や種族より強力なのである。

プスグセの島々のキリスト教徒は湖水の帯にしっかりと守られており、悪意を持って皇帝を敵として非難し、その法令に従うことを居丈高に拒絶した。彼らはまともな判断を下すことができず、狂気の中で思考していたのである。湖を古代のようにローマの所有とすべく、皇帝は彼らに、

「湖から立ち退き、望み通りペルシャ人の下へ行くが良かろう。」

と勧めた。そう言いながらも、

「従わないのであれば、こちらは容赦はしない。長くローマ人から湖を守ることはできないだろう。」

と脅したのである。

その言葉に効果がなかったので、皇帝は軍事作戦を開始した。漁船と軽量の乗り物を一緒に繋いで足場を作り、攻城兵器を乗せて、湖づたいに要塞を攻撃する。皇帝はそれらの要塞を破壊することに成功した。しかし継続的な損失を受けないまま遠征から離れることはできなかった。時折、強風が湖水を波立たせ、波を傲然とうならせた。輸送船は押し流され、ひっくり返る。波の深みへと積荷が消えたのであった。

60.
この頃、皇帝の長男 アレクシオスがこの世を去っている。彼は緋色の長靴と皇帝の緋色を帯びる栄典を授けられていた。その病は厳しく、急速に進んだ。アクロポリスのように急激に高くなる熱が頭を襲うものであった。

次男のアンドロニコスも長くは生きられず、兄の薨去を追悼するとすぐに、与えられた命の灯を燃やし尽くしている。

61.
皇帝の膝下に、そうした不幸――気高い息子たちを失うという悲劇的喪失が訪れたことは、言うまでもなく、皇帝の前途についての凶兆であった。にもかかわらず、皇帝は弱気になることはなく、引き下がることもなく、遠征の労苦を引き受けてから丸一年を経てもビュザンティオンへと戻ることもなかったのである。

イサウリアに着くとその情勢を整え、末の息子 マヌエルとともにシリアへと戻って来たのであった。

62.
この遠征の表向きの狙いは、望ましい情勢をアルメニアに確立することであり、海岸からの初期の遠征で手に入れた諸都市、諸要塞の忠誠を再確認することであった。しかし、真の狙いはこの軍勢の良く計画の練られた動きの背後に隠されたままであった。

皇帝はアンティオキアとコンスタンティノープルを結ぶこと、その後で神が踏破された聖地を訪問することや主が復活された聖墳墓を貴重な贈り物で飾ること、さらにその周囲からバルバロイを一掃することを常に熱望していた。

従って、皇帝は敬うべきアンティオキアに対する自身の支配権にラテン人が服従することを望み、(自身の意図を秘匿したように)あらゆる計略に訴えた。皇帝は傲慢なラテン人の戯言を信用していなかったから、彼らが説得され(自身と共に聖地を回復し)たり、キリキア人やシリア人が自分についたりすることも無いだろうと思っていたのである。

63.
アンティオキアへと上る間、皇帝は書簡を発して自身の到着をアンティオキア側へ伝えた。皇帝は速度を緩めなかったが、前途に期待を抱かせる使者を引き寄せるかのように、シリアとの境は越えないでいた。

しかし、アンティオキアに近づくにつれて、イタリア人には別の考えがあると分かった。皇帝の秘密にしている暗黙の意図が噂に上っていたからである。

皇帝の予想に反して、アンティオキアへの入城は難しいように思われた。

皇帝は条約により、アンティオキアに入城する権利があった。にもかかわらず、その街へ入城し、ふさわしい崇敬を受けようとすればどのような軋轢が生じるのか心の内で熟慮して、街の状況を何一つ改めず、またそこに根付いた習わしを何一つ変えずに去るのみであると結論づけた。欺かれたと腹を立てたが、強引に入城するのは賢明ではないと考えたのである。

皇帝はキリスト教徒との戦争を禁じた。しかし、その軍勢は宿営地である街の郊外での略奪は許されていて、手にできる物は何でも運び去ったのであった。

この命令について皇帝は、糧食が欠乏していたと弁明する。果実の実る木でさえ無事ではなく、炊事の火へと焚べられた。このように復讐をして、皇帝はキリキアの境へと進路を変えている。

64.
カラスの巣と呼ばれる聳え立つ双子の峰が延びる非常に幅の広い峡谷に陣を布き、そこから皇帝は狩りに出かけた。

はぐれイノシシに出会い、投槍の穂先をその胸へ突き立てる。獣が前に突き進んだので、(槍の穂先の)鉄の軸全体が獣の内臓に食い込んだ。投槍を持った手は痺れ、獣の恐るべき押し返しに負ける。そのため跳ね返った手は、皇帝が脇に吊り下げて持っていた毒矢の矢筒に真っ直ぐにぶつかった。矢筒がひっくり返り、落ちた一本の矢が薬指と小指に沿って皇帝の皮膚を貫く。毒は広がり続け、強まって体を流れ、命に関わる部分へ侵入してその温度を冷やし、麻痺させた。しばらくして皇帝は崩御する。

事故が起こった時、皇帝は肌の擦り傷を軽くして、傷からの出血と滲み出る膿を止めようとして、エクドラと呼ばれる靴の革を治療に用いたが、それは誤った方法であった。

65.
皇帝は夕方頃に戻り、夕食をとってから穏やかに夜を過ごした。翌日、傷口は腫れ、酷くずきずきと痛み始める。そして痛みが耐え難く苦しくなったので医師に何があったのかを打ち明けた。

医師たちは腫れた手を見た。そして治療のためにあてがわれていた物を調べ、医学書と正反対の方法であると結論付けてそれを取り除き、傷口の化膿を癒やすための他の治療薬を施す。

薬が効かないと分かると名医アスクレピオスに連なる者たちは手術を考えた。

腫れ物は切開されたが、腫れは引かず傷が快方に向かうことはなかった。代わりに腫れは大きくなり、患部は指から指へ、そして手のひらから手首へ、さらに前腕部へと広がる。皇帝はあらゆる希望を失った。

医師たちは皆、途方に暮れてしまい、そのため傷ついた腕が治癒することにまだ確信は持てなかったが、皇帝の腕を切断することで一致する。腕は男性の太腿ほどの大きさまで腫れ上がっていた。皇帝は最初の切開をその後の合併症の原因と考えて、断固として医師たちの提案を拒絶する。とはいえ、痛みは治療に関する議論を無視して蓄積していった。

66.
最も輝かしいキリストの復活の日になると、皇帝は聖体機密に参加した。それから夕食のためにもたれかかり、カーテンを開ける。中に入って請願しようとしているあらゆる人々のためである。

メガス・ドメスティコスのヨハネス・アクスクの提案で、皇帝は翌日も同じ様にした。そしてそれからは帝位継承者のことを考えるために一人きりになる。

豪雨になり、野営していた谷が浸水したので、皇帝の寝椅子は乾いた場所へと移される。そして皇帝は以下の御神託のような言葉を復唱する。

「汝は水浸しの場所で、絶望して、倒るるであろう。」

専ら継承と皇帝の交替について検討していた人々は、次のような予言が現実のものになったと言った。

「食物よ、汝は恐るべきカラスの物となるか……」

この古の言葉が、皇帝の手を焼灼するための黒く焼けるような鉄、あるいは皇帝が野営していた山の名前(カラスの巣)に見られたと主張したのである。

67.
皇帝は親族、友人、そして全ての高官や官僚、さらに居合わせた末の息子マヌエルらを集めて、次のように言う。

「ローマの者たちよ。余はシリアを取るという大きな望みを果たせなかった。

余はこれまでより輝かしい業績を打ち立てることを望んでいた。恐れることなくユーフラテスに浸かり、その流れる水を飽きるほど飲み――ティグリス川を見て、キリキア人の下へ行った者、ハガレノイの下へ身を投じた者、どちらの敵も兵士たちと脅かし――

大げさな言い方かもしれないが、原罪のために堕落した我々をキリストが上昇させて下さった地、十字架に掛けられてその両手を広げ、全世界をその血のしずくで繋いだ地、パレスティナへと鷲のように舞い上がって向かい――聖詠の作者が記すように主の山へと登り、聖地に立ち――聖櫃を奪った古のペリシテ人のように幾度も武力で主の墓を奪った周りの敵を攻撃することを望んだのだ。

望むところが果たせないのは、神のみぞ知る理由なのだから、それに抗うことは全くできない。また主のお命じになったことに対して大きな声を上げるべきでもない。

知恵で神に優る者があろうか? あるいは、神の御心を探って、そのお考えに足し引きをして審判を変えられる者などあるであろうか?

人間の計画は挫折する。だが、主の御意志は打ち消すことはできない、不変である。余は神に感謝している。神は余の利益のために数えきれない恩寵をお与えくださった。その上、多大なる御慈悲を我々に賜った。そのことに感謝の祈りを捧げるものである。

余は観衆・立会人たる汝らに以下のことを宣言する。

余は父帝の子である。そしてその後継者として登極した。余は父からこの手に譲り受けたものを一切、棄てていない。余が神より賜った統治の才を発揮できたかどうかは、他の者の調べるところ、述べるところに委ねることとする。余自らは身の回りに起こった神による驚くべき出来事を鼻につくような形でなく、また自惚れることなく語ることができる。

東方も西方も戦う余を目の当たりにしている。そして、余は双方の大陸の国々を攻撃した。余はほとんど宮殿に留まってはいない。人生のほとんどを天幕の外で過ごし、いつも外にあることを熱心に望んだ。今野営しているこの地を余は二度、目にしている。ペルシャ人とアラブ人がローマ軍を目にしなくなってから長い時間が経った。この軍は神が余を副将としてお率いになる軍であり、彼らは恐れたのである。多くの街が我らに降った。そして直ちに我々がその主人となった。彼らは今や我々の法によって統治されている。我らの神である主が、キリスト教の民の最高司令官である私に神の王国の遺産をお与えくださるだろう。慎ましやかで喜ばしい永遠の分与を神から受け取ることになるだろう。

汝らがその支配を強化し続けて、そうした国々――戦争を望み、全ての名の上にある神の聖なる御名を一度も呼んだことのない国々に打ち勝つのだ。汝らが確かな成功を右手と最高の神の強力な腕に委ねるなら、そうしたことが起こるであろう。

神が汝らにお与えになるのは、人々を侵奪せず、その名に偽りのない君主である。その君主は気まぐれでなく、テーブル越しに身を屈めてワインレードルの上にいつも手を置いているようなこともなく、壁の色付きのモザイクでできた肖像画のように宮殿から離れないというようなこともない。自らの意向に沿って国政を整え、人々が最後までやり遂げるのを喜び、物事が全て最初からその双肩に掛かっているような君主である。その君主が臆病であることが明らかになれば、情勢は翻るだろうが、また気高くあれば物事はその反対へと向かうだろう。

神のなさり方はダビデによれば、善良な者に恩恵をお与えになり、曲がった道と邪悪な働き手から目を背けるようお導きになるという。

余は帝位継承者について話そうとしており、崩御も差し迫っている。よって汝らは余の言葉に耳を傾ける必要がある。

余が父の遺産として帝位を継承したということは、言うまでもないことである。それはちょうど太陽が日中の明かりであると誰かが示す必要がないのと同じである。

余自身の場合、ふさわしい序列による継承が見られた。そして余の儲けた子らにも同じことが当てはめられるべきだと汝らが熱望していることは認めている。汝らは余の存命の子ら、イサキオスとマヌエルによる統治を望んでいる。そして汝らは自分たちでどちらかを選ぶことは望んでおらず、余に選択を委ねているのだ。物の道理としては先に生まれた息子に最高位を授けるべきであり、それが慣わしであったことを認めないわけにはいかない。だが登極に関しては、この慣わしの通りであることを、神は必ずしもお喜びにはならない。

イシュマエルに続いて二番目に生まれたイサク、エサウのあとに母の子宮より出てきたヤコブ、アロンの後に生まれたモーセ、兄弟の中で最も小さく、その父の家で最も年若かったダビデ、そのほか多くの者を思い起こしてみよ。

神は人のように外見をご覧にはならない。白髪で老年であるだけの者に年長であるという理由で公職をお授けにはならない。神は魂の気高さをお喜びになり、穏やかさと優しさをご覧になり、そしてその者が神の戒律を守っていることをご覧になる。

よって裁定者は、自然の摂理に委ねることはしない。そして、狭量な女性がする重大な懸案への助言のような自然の摂理は避けるものだ。むしろ余は代わりに人々の崇敬の上にある神を模倣する方を好む。

統治権が明白に年長の息子イサキオスに移るならば、二人の息子の性格は話すまでもないことだ。だが統治権は最後に生まれたマヌエルに移る。余は理由を説明せねばなるまい。多くの疑念を払拭するためにも、道徳より愛情に基づいて上の子以上に末の子を重んじることを好んだことに説得力を持たせるためにも――

我々人間が同じ性質を子に伝えながら、人の形が違うように、志す道も一つではなく、多くの道に枝分かれしている。我々は食欲が違う。それに全員が一斉に同じものを楽しんだりはしない。もしそうでなかったなら、貪欲に同じ喜びを欲し、当然ながら同じ傾向を持っていて、神から責めを受けることは無かったであろう。

二人の息子は同じ父から生まれたとは言え、それぞれに気質が異なる。二人とも徳があり、体は丈夫で、容貌は気高く、深い知性を備えているが、末の息子のマヌエルの方がより良い帝国の統治者になるだろうことは余にとっては全くもって明白である。

イサキオスはよく余に癇癪を見せた。何かにいらいらして、激しい怒りに陥った。そうして大多数の者が軽率に行動することとなり、賢明な者たちを破滅へと追いやる過ちを犯した。

一方でマヌエルはイサキオスと共通の数々の美点があり、また穏やかさを知り、有用なことにはすぐに従い、喜んでその理由に耳を傾ける。ダビデ王と予言者のように、純粋な心で飾られている。また我々人類は、剣を握る手と巧みに臣下らの罪を暴く気質の者に率いられることを好むものである。よって、余はマヌエルが皇帝となることを選んだ。

それ故に、年少の者を神の塗油を受けた君主として、選ばれた皇帝として受け入れよ。神が彼を皇帝として運命付け、選んだという証は、神に愛された者たちの多くの予言によって示されている。その全てがマヌエルがローマ人の皇帝になるべきことを予言していたのだ。

余が以前、統治するよう定めた息子たちは亡くなってしまった。しかもイサキオスは帝位につくために出生順では次に並んでいたが、欠けているところがあると分かった。こうする以外に何ができたろうか?

これらの兆候は、他ならぬマヌエルにローマ人の帝位が与えられるべきだと、神が願われていることの疑いようのない明白な証拠であると宣言できる。

物事を探求したいならばマヌエルは、贈り物として少年にすっかり帝位を授け、継承を一族の内に留めることに努める父である余を見はしないだろう。しかし彼は美徳への賞賛として帝位を授ける余を見るだろう。

汝らはよくよく知っていよう。青二才に過ぎないマヌエルの見事な行動を。ネオカイサレイアで見せたペルシャ人への勇敢な突撃を。それは父としての余には心が張り裂けそうなことで、愛する息子であるが故にひどく肝の冷えることであったが、ローマの立場を強くした。」

皇帝ヨハネス2世はこのように語った。

集まっていた者たちは皇帝の言葉を涙ながらに受け止め、まるで運命であるか、神の選択であるかのように喜んでマヌエルを皇帝として受け入れる。その後、父は息子に宛てて堅実な助言をし、皇帝の髪紐と緋色の縁取りのある外套を帯びさせた。それから集められた軍は、マヌエルをローマ人の皇帝と呼び、各貴族、さらに離れて立っていたマヌエルの従者たちが新たな君主を大きく歓呼する。そして聖書が持って来られると皆、手を置いてマヌエルへの敬愛と忠誠を確認した。

これらの式典の主催者と執行者はメガス・ドメスティコス(アクスク)であった。彼の意図は野心家による争乱や反乱の試みを打ち払い、大勢の者が一部の皇帝の親族を支援する動きを鈍らせることにあった。一部の皇帝の親族とは、伝統的に偉大で敬われる年齢の序列の力を発揮しようとする者や婚姻を通じて皇族と自分たちの繋がりを拡大しようとする者たちである。彼らは自分たちの方が帝国を統治するに値すると思っていた。

68.
こうした出来事の数日後、皇帝ヨハネス2世は崩御した。その治世は24年と8か月である。

ヨハネス2世は最も見事に帝国を統治した。その人生は良く神を喜ばせるものであった。性格は道徳的で自堕落にもならず、箍が外れるということもない。

施しや資金の拠出によって偉大であることを目指した。それは皇帝が頻繁に都の市民に金貨を配ったことや、美しく大きな教会を数多く基礎から建立したことからも窺える。

誰よりも名誉を愛し、そして非常に傑出した名前を後の世に遺した。極めて光栄なことである。

家族の礼儀や行儀にうるさく、その髪形を点検し、また革が足の形に正確に縫い付けられているかどうか見るために履いている靴を念入りに調べた。

皇帝は公衆の面前での意味もない下品な会話や衣食の浪費など全てを一掃して宮殿をきれいにしている。謹厳な懲罰人の役割を演じて、従者が自分を見習うことを望み、あらゆる美徳を追求して止まなかった。

私は別にこうしたやり方で振る舞う皇帝が見た目に思いやりが欠けていて、不可解で、近づきがたく不機嫌であり、しかめっ面で怒りっぽかったと言いたいわけではない。

世の人々の前で皇帝は自らあらゆる気高い行動の見本であろうとした。そしてひととき公務から離れて楽しむ時には、群衆の喧騒を避け、その他愛もないおしゃべりに耳を閉ざした。演説は威厳があり優雅であったが、そこで気の利いたやりとりをはねのけることはなく、またどんな形であれ感情や笑いを抑えたりはしなかった。

皇帝はかろうじて自制と峻烈の極みには達しておらず、吝嗇の誹りを免れるくらいであった。その治世の全てにおいて誰の命も奪わず、いかなる身体的損傷も与えていない。我々の時代においてさえ、ヨハネス2世は全てにおいて称賛に値すると考えられている。この上ない栄光である。言うなればコムネノス家の王朝はローマ皇帝の玉座に座ったのである。そしてヨハネス2世は過去の最高の諸皇帝と等しく、その他を凌いでいたと言える。